雨の日には
雨の日には傘をさして海に行く。港にある喫茶店でギネスを飲み長靴を脱ぐ。長靴の中には蛙がいる。蛙に麻酔を注射して寝かせ、マスターにプレゼントする。
傘は紙でできているので、10分もさしていると破れてしまう。ステンレス製の傘もあるのだが、1本12万円と高価であること、盗賊に狙われること、蕁麻疹などの副作用のおそれがあることなどから、持っている人は少ない。
雨の日の朝には、警察官が各家を巡回して傘を配るという風習になっている。予想雨量10ミリに対して1本、ただし、100ミリ以上の場合には一人10本が上限とされている。もちろん無料だが、考えるまでもなく税金が使われているのであり、無料だと喜ぶ人は「おめでたい」と言えるだろう。
昔は、オシャレな人は雨の中を傘をささずに歩いた。しかし、原発の大事故以降、雨は放射能でいっぱいだ。雨に濡れると癌になる。そういう訳で、今では癌の専門医が不足している。そういう私は癌の専門医だ。
以前は「ガンカ」と言えば「眼科」だったが、いまは通常「癌科」を意味する。もっとも、治療法は確立されていない。ほとんど気休めに近いものなのだが、世間では科学ということになっている。これは、ご都合主義という現代思想の成果と言えるだろう。
さて、今日は雨だ。俺は一人だ。強い風も吹いている。季節は夏だ。警察署の一番忙しい季節だ。この喫茶店のギネスは美味しい。もっとも、ギネスはどこでも同じ味だと主張する輩もいるだろう。そういう輩は感性が不足している。ギネスは港の喫茶店で雨の日に飲むのがベストだ。たしか、リチャード16世もそう言っていた。俺も同意見だ。ただし、美女を横にして、深夜のバーのカウンターで飲むギネスも美味い。もっとも、そういう経験は無いのだが。
俺が喫茶店の窓から港にあるクレーンを眺めている時、隣の席に老婦人がやって来た。派手な洋服と装飾品。どう見ても相当な金持ちのようだ。その証拠に、あの金持ち特有の笑みを浮かべている。老婦人は、赤ワインとチーズを注文した。おい、ここは喫茶店だぞ。
時間は午後4時。雨なので、当然太陽はない。月も星もない。いや、無いのではなく見えないだけだ。こういう間違いをしたら「残念な人」と呼ばれてしまう。それにしても、なぜ残念なのだろう。きっと残念という言葉の意味がわかっていないのだ。まあ、言葉というやつは時空の差によって意味が変容する性質を持っているので、この問題について新聞に意見広告を出すのはやめておこう。
海は黒い。黒い海に雨が落ちた地点が白い点になる。今日の雨の落下速度は犬のようだ。犬。昔は人間がペットとして飼っていたらしいが、今は国連のペット動物権条約に批准している国ではペットが禁止されている。もっともこれにはペットのロボット化を推進したい機械メーカーの利権が関係していることは間違いない。しかし、本物の犬好きは、この条約に批准していない南米に移住した。言い忘れた、ここは香港で、俺は日本人だ。
隣の老婦人が鞄から一通の手紙を取り出す。その手紙は国連の専用便箋に英語で書かれえおり、最後のページに仰々しくも6人の署名がある。俺は横目でそれを覗いたが、極秘会議の招待状だ。こんな所で広げる手紙ではない。仕事の基本ができていない。そう思ったが、これは罠かも知れないと思うと寒気がした。
ふと老婦人が私の方を見た。そして「あなたにこれをあげるわ」と言った。いらない。どう考えてもいらない。しかし、私の手は勝手に動いて、その手紙を受け取った。
この時、私の運命が変わった。私は某国のスパイになってしまった。それは本当に命がけの仕事だ。今も医者は続けている。しかし、雨の日は休業だ。雨の日には、例の喫茶店に行かなければいけないからだ。紙の傘を数本持ち、長靴を履いて。蛙と共に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます