思案橋

思案橋。それは日本三大遊郭と言われた長崎県にある有名な橋。私は思案の限りを尽くし、いまここにいる。


何のために考えたのかすらハッキリとしない。ただ、考えていたかった。ずっと考えていたかった。思索はテキストとして本にまとめた。本が出来あがったとき、絶望が生まれた。


私は遥か遠くを見ていた。人類の100年後、200年後を考えていた。しかし、その時に私はいない。そして、私の思索に興味を持つ人もいない。


思案橋は10メートルちょっとの短い橋だ。川は人工的に作られた水路で、限りなくゆっくりと水が流れている。夜のネオンに照らされた水はくすんだ極彩色で、そこには私の過去がそのまま呈示されているようで、悲しく、懐かしく、そしてどことなく不快でもあるのだった。


私は欄干に手を置いて景色を眺めていたのだが、いつのまにか橋の上で胡坐をかいていた。そして、いつのまにか目を閉じて瞑想していた。


私は魚になった。私は鳥になった。私は花になった。私は虫になった。それも順にではなく、。同時に。私は分裂し、一つの私ではなくなった。あれも私、これも私。そう思うと世界のすべてが私自身であるという事実に気づき眩暈がした。


いけない。意識が危険だ。このまま瞑想を続けると日常世界へ戻れなくなる。


そう思った瞬間、空が光り雷がなった。ビシャという落雷の音を合図に、激しく雨が落ちてきた。私は空気になり、分子になり、原子になった。私とは世界の、いや宇宙の総体だ。それは身体なき意識だった。神だ。俺は神になった。


もっとも神は偉大でもなんでもない。ただ存在するというだけで、意思も、意図も、善も、悪もない。それは壮大であるというだけで、多少の珍しさと驚きはあったものの、楽しいというものでもなかった。


私は思案橋で瞑想しているうちに宇宙そのものになってしまった。


いや、私というのは間違いで私たちというべきだ。そして、そこには二人称も三人称もない。あなたも、彼も、彼女も、すべては私たちであり私自身なのだから。


思案橋の上で瞑想している私の周りを数人の僧侶が取り囲む。そして、手にしたセメントを私の身体に塗って行く。足、胴、手、顔。当然、呼吸はできなくなり、生物としての私は死んだ。しかし、私たちは宇宙なのだ。一つの生命の死などというのは宿命であり必然なのであって、たいした問題ではない。


やがてセメントが固まると、彫刻家がやってきて、石像となった私に造形を加えて行く。その行為にどんな意味があるのかわからないが、人間というのは実に不可解なことをする動物だ。これが私の墓なのだろうか。墓を作る動物。それは生きたことの痕跡を残したいという思い。あるいは再生の、そして復活の願い。


石像には、シアンという名前が付けられた。地元の商店街はこれを町おこしに利用しようと考え、行政もそれを支援した。石像はネット動画サイトで世界に紹介されて一躍有名になった。思案橋界隈の複雑な歴史への関心も高まり、国内はもちろん海外からも観光客が集まる話題の場所になった。そこでは誰もが記念撮影をした。石像をミニチュア化した置物は、5万円という値段にもかかわらず飛ぶように売れた。


それでも私は悲しく思う。なぜならば、再びあの思案橋で雨に打たれて瞑想することが出来なくなったからだ。私だけでなく誰もが、もうあの場所で瞑想することが出来ない。なぜならば、そこには石像があり、空間は占拠されているのだから。


長崎思案橋。思案には風情が不可欠だ。思案には美学が必要だ。人を引き付ける華が、そして磁場が必要だ。あとは雷を待つだけだ。

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