ある老人の最期

田舎の一軒家に一人で暮らしている老紳士。なにがどう紳士なのかはわからないが、いつもブレザーを着ているので村の人は紳士さんと呼んでいる。もしかしたら、そこには幾分の嘲りがあるのかもしれない。


老紳士は定年後、61歳の時に村に引っ越してきた。その時は妻と二人だったのだが、その妻は認知症となり、いまは施設で暮らしている。息子も一人いたのだが、二十歳の時に交通事故で亡くなった。老紳士が48歳の時のことだった。


老紳士の一日はいつも同じだ。朝は6時に目がさめる。新聞も読まないし、テレビもパソコンも見ない。ただ、椅子に座り、煙草をふかしながら、ケータリングサービスの車が来るのを待っている。食事を自分で作ることはない。


定年退職してからのことだ。老紳士は喜びという感覚を失った。何をしても楽しくない。美味しいものを食べたいとか、どこかに遊びに行きたいという欲望も、当然のように無くなった。これが老いなのか、病気なのか、悩んだ時期もあったのだが、悩むと疲れるということに気がついてからは考えることをやめた。


こんな老紳士にも、毎日欠かさず続けていることが一つある。午後1時になると庭にある池の鯉を見に行く。無地の葉書と色えんぴつで、毎日1枚だけ鯉の絵を描く。決して上手い絵ではない。下手というよりも、ほとんど何を書いているのかわからない。鯉だとわかる絵は10枚に1枚もあるかどうかだ。それでも老紳士は熱心に鉛筆を走らせる。そこに楽しみはない。むしろ、そこには義務感だけがある。人間というのは義務が何もない状態に耐えられない動物なのだろうか。自ら無意味な義務を作って、心の穴を埋めているのかのようだ。


絵は、おおよそ1時間で完成する。眺めているだけの時間が多いので、それほど描きつづけているということでもない。この1時間というのも決め事になっていて、雨の日であってもテントの中から池の中の鯉を書く。もう3年以上になるので、1000枚を超えている計算だ。


描いた絵葉書には、すぐに万年質で宛先を書いて郵便局まで歩いて行き投函する。宛先は施設で暮らしている妻だ。もう何年も会っていない。会っても自分の顔を覚えていないことにショックを受けてから、面会に行かなくなった。残酷かもしれないが、考えて答えの出る問題でもない。老人のつとめというのは、いつ死んでもいいように整えておくことだけだ。老紳士は長生きを望んではいない。むしろ、安らかな死の日を待ち望んでいる。


喜びが消えた時から、世の中の出来事にまったく興味がなくなった。人間には一定の量の喜びがあって、それを使い果たしたのかもしれない。いや、脳科学的には脳内物質の生成に異常が出ている可能性もある。老紳士も最初は戸惑い、いろいろと調べたりもしたのだが、やがて結論の得られるような問題ではないと知り、考えることをやめた。それと同時に、言葉というものに言い難い嫌悪感を抱くようにもなった。


言葉とは欺瞞であり悪徳の印だ。


この言葉が出てきた過程は不明だが、読書家だった老紳士は一切の本を手にしなくなった。そして、来る日も来る日も、稚拙な絵を描きつづけるようになった。


老紳士には友達もいない。もともと社交的なタイプではなかったが、いまははっきりと人間嫌いに分類できる。人と話をすることが嫌になった。なにしろ、そこではあの呪わしい言葉というやつを使う必要がある。そういうことになると、大袈裟にではなく、嘔吐と眩暈と頭痛と腹痛が同時に発生するのだという。とにかく、村では人間嫌いという噂が立っている。


あだなは老紳士だが、見かけは冴えない。頭はボサボサで、髭は汚く、洋服もヨレヨレでシミまである。そんな風体で、今日も郵便局までの土の道をよろよろと歩いている。歩きながら、描いたばかりの絵に目をやる。妻がこの絵を見ているのかどうか、見て何を思うのか、そんなことも分らないうちに3年が過ぎた。


家に帰りソファで横になった老紳士は、うとうとと眠ってしまった。夢を見た。夢の中で老紳士は鯉になって池で泳いでいた。その眼には、大きな石に座って絵を描いている一人の老人がいた。その顔は間違いなく、老紳士の妻の顔だった。


老紳士はハッとして目を醒ました。そして、急いで妻のいる施設へと向かった。面会時間が何時までなのかは覚えていない。会えるのかどうかはわからない。それでも老紳士はバスに乗った。


施設の面会時間には間に合った。名前を言い面会を申し込む。病室には入れない。面会室に通された。妻が入ってきた。真正面から目を見つめ妻は言った。


「はじめまして」


変わり果てた妻の姿に、老紳士は言葉が出なかった。看護師が妻の横に座った。


「ご主人ですよ」


看護師の言葉に妻は反応した。


「翔太は元気かい?」


翔太とは亡くなった息子の名前だ。


「ああ、元気だよ」


老紳士は嘘をついた。そして、急に吐き気がして、その場に嘔吐した。突然、雷が鳴り、雨が降り出した。


「よく来てくださいました。今日はこの辺で」


看護師はそう言うと老紳士に帰るよう促した。


老紳士は立ち上がると少し歩き、妻を強く抱きしめた。妻は優しく微笑んだように見えた。妻の洋服のポケットには鯉の絵葉書が1枚入っていた。老紳士はそれに気が付くと、絵葉書を取り出して机の上に置いた。


「お元気で」


老紳士はそう言い残して面会室を出た。帰り道、家のそばのバス亭を降りたところで、老紳士はトラックに轢かれて死んだ。雨は止んでいた。親戚もなく、葬儀もなかった。どういう人生だったのか。それを語る言葉は、どこにも無い。

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