朝の港を散歩していて、そこに数人のホームレスが生活していることがわかった。新しくできた街のそばに、そういう人たちがいることは驚きだった。俺は引っ越してきたばかりで、駅周辺の高層マンションに住んでいる。近代的的なのは、どうやら駅周辺の一角だけのようだ。俺は足早に駅の方に戻った。


おしゃれなカフェでゆっくりと朝食をとってから、いくつものショップを見学し、昼食は高層階のレストランに入った。


豪華な内装と大勢のスタッフ。相当な高級店のようだ。俺の座ったカウンターには数人の先客がいたが、皆、超ビジネスエリート特有の雰囲気を持っている。この店は社交場でもあるようだ。


最初に運ばれてきたサラダの中に異物があった。銀色の小さな袋が二つ。調味料の袋を切り忘れて出したようだ。私が店員にそれを見せると調理人が来た。そして、こんなものは知らないし、これは調味料ではなく、薬ではないかと言う。そう言われると薬のようにも見える。しかし、私のものでは、もちろんない。あまり揉めることもなく、その場はおさまった。


隣の席の男が、カウンターのアメリカ人スタッフと英語で話を始めた。日本で喧嘩をしたことがあるかといったくだらない話だ。いや、あまりにも強そうなアメリカ人だったので、そういう話になったのかもしれない。スタッフは自分が日本でつかまったら面倒なことになるので、喧嘩はしないと言って笑った。



どこからともなく俺に関する噂が聞こえてくる。某巨大資本の太平洋地域責任者。たしかにそうだったが、もう昔の話だ。今は無名の会社に転職している。それでもまだ俺の情報と人脈には価値があるのだろう、隣の席の男が突然名刺を出してきた。大手保険会社の支社長らしい。俺は今日は名刺を持っていないと言って断ったが、そう言えば鞄の中に名刺入れがあるはずだ。しかし、この店に鞄を持ってきた記憶がない。もしかしたら、朝のカフェに忘れてきたのかもしれない。そして、朝食代である2650円を支払っていないことも思い出した。


食事が終わり、俺は預けていた靴を出して欲しいと言った。数分すると係の女性が靴がありませんと伝えてきた。名札には大きく「研修中」と書かれていて、見えるか見えないかの大きさで「西山」と書いてある。


靴がないと店を出ることができない。どういう靴かを聞かれたので、「黒の革靴で、バリの3万5千円のものだ」と大きい声で言った。言ってからバリで3万5千円と言うのは安すぎるなと恥ずかしくなった。さらに俺は我を忘れて、「どうなっているんだ」と怒鳴ってしまった。


客がいっせいに俺の方を見る。何人ものスタッフが集まってくる。俺は急に、ここが一般的な街ではないということに気がついて寒くなった。


可能性は三つある。


一つは、誰かが間違えて私の靴を履いて帰ってしまった。

二つ目は、店が共謀しての何らかの陰謀。

三つ目は、私が元から靴を履いていなかったということ。


店で怒鳴るなどという野卑な行動を悔いる以上に、いろいろな可能性を想定しながら、どう対応するべきかを猛スピードで考えた。


やがて、責任者が「では、こちらで靴を用意させていただきますので、それでお許しいただけますか」と言った。俺はほっとした。ありがたい話だ。シンプルな黒のプレントゥの革靴だった。俺の足にもピッタリと合う。


「ありがとうございます。おいくらですか?」

「いろいろとご迷惑をお掛けしましたので、今日はお代はいりません。ただ、是非またいらしてください」


私は妙な空気を感じながらも、真っ直ぐマンションに帰った。


テレビをつけるとニュースをやっていた。この港で自殺があったという。警察は遺体と岸壁に残された靴から、死亡者は北嶋孝明(42歳)だと発表していた。なんだって、それは俺の名前だ。年齢も同じだ。


俺は警察に電話をしようと携帯電話を探したが手許にない。もしかしたら、カフェに忘れた鞄の中かもしれない。固定電話は引っ越したばかりで、まだ手続きをしていない。どうやら世の中では、俺は死んだことになっている。しかし、警察がそれほどに軽率なはずもない。調べれば俺がここにいることはすぐにわかる。やはり何かの陰謀だ。しかし、いったいどんな。


ソファーに横になりいろいろと考えている時にベルが鳴った。


「どなたですか?」

「警察です」


ドアを開けると、制服を着た二人の男と一人の女がいた。


「中で話をしたいのですが、いいですか?」

「どうぞ」


俺は3人を海の見えるリビングルームに通した。


「早速ですが、これが貴方の新しいIDカードです」


渡されたカードには、白井京月という名前が書かれていた。


「貴方には今日から地下政府の工作員として働いていただきます。これは光栄なことです。詳しくは後日の会議で・・・」


俺の計画通りだ。俺は地下政府への潜入に成功した。この時、笑いをこらえるのには、とても苦労した。

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