つまらない脳

西暦2022年、飛躍的に進歩した脳科学は脳内物質の操作だけではなく神経回路を操作することを実現し、医学の領域を超えて人間の改造へと進化した。生命倫理の概念も3年で根本的に変わった。「誰もが自分を改造する自由」を世界は支持したのだ。


「先日注射していただいた知能なんですが、どうも効果を感じないので、もう一度打ってもらえませんか?」


昌弘は米山クリニックの診察室で米山院長にそう依頼した。


「いやー、効果がありませんでしたか。あの薬は80%の人には効果があるんですが、残念ながら昌弘さんは残り20%だったんでしょうね。もう一度注射を打っても、効果は期待できませんな・・・」


米山院長は、いかにも同情しているように見えたが、昌弘は微妙な笑いを感じて不快な気分になった。


「知能は無理でも、注射の種類はいくらでもありますよ。ユーモアとか、明るさ、素直さ、想像力・・・。まあ、人格設計は専門のコンサルタントにしか認められていないですし、高額ですからね。ただ、ここでの注射は全額保険が効く。もっとも回数制限はありますがね・・・」


昌弘は考えた。あと2回。明るい性格に興味はない。むしろ苦手だ。しかし、だからこそ必要かもしれない。もしかしたら、急に女性にモテて結婚できるかもしれない。今では結婚できる男性は5割もいない。それは自慢できることであり、誇れることだ。しかし、経済的条件もある。明るい性格になって結婚したとしても、それは不幸なだけかもしれない。昌弘は生来のネガティブさで、そう考えた。


想像力はいらない。俺は作家でも芸術家でもない。おかしな想像をしたら、人生がさらにおかしくなりそうだ。


やはり知能が欲しい。現代は知識社会だ。勉強しても頭に入らないというのは致命的なのだ。そうだ。知能がダメなら運が欲しい。


「先生、運を良くする薬はありますか?」


米山院長は、目を閉じて顔を上に向けた。


「ありますよ。ただ、運という言葉は使っていません。偶有性を向上させる薬があります。ただ、これはリスクが大きいので慎重な医者は使いません。というのも、何しろ運の要素が大きくなるということが、吉と出るのか、凶と出るのかが分からないのです。これは脳科学の限界ではありませんよ。運とは、そういうものなのです」


「それも保険の対象ですか?」


「ええ、もちろん」


そういえば俺は運が良いと思ったことが一度もない。かといって、悪いと思ったこともない。しいて言えば生まれつき知能が劣っていたことくらいだ。人生で一度は運というものを経験してみたい。昌弘はなぜか高揚している自分を感じた。


「よろしければ、その運を注射してもらいませんか?」


米山院長は、今度は真っ直ぐに昌弘の目を見据えた。


「良いですよ。点滴に1時間かかります。大丈夫ですか?」


「はい」


昌弘は処置室での点滴を済ませてクリニックを後にした。


駅に向かう途中で、老人の乗る自転車が正面から昌弘に衝突した。大きな怪我にはならなかったが、これが不運というやつかと昌弘は嬉しく思った。早くも薬が効いているのだと思った。


そうだ。ギャンブルをしよう。ギャンブルは一度もしたことがないが、馬券を買うくらいなら知識もいらないだろう。


運が吉と出るのか、凶とでるのか、それを確かめたかった。次の土曜日には馬券売り場に行こう。買うのは1万円。最終レースの1-8の一点買いだ。つまりは一発を狙うのだ。もっとも、それが本命なのか大穴なのかは調べてみなければわからない。昌弘は世の中には運があるということを知って、まるで新しい世界にたどりついたかのように興奮した。


土曜日の最終レース。注射の効果なのだろうか、本当に1-8が来た。しかも倍率は148倍。昌弘が手にした148万円は、昌弘の貯金よりも大きな金額だった。


しかし、昌弘は遊びをまったく知らない。このお金をどう使えば良いのかがわからない。昌弘は再び米山クリニックに行った。


「先生、運の注射は効果絶大でした」


昌弘は興奮気味に競馬で148万円を手にしたことを米山院長に話た。そして、最後にこう言った。


「最後になりますが、正しいお金の使い方という注射はありますか?」


米山院長の顔が曇った。


「それはね・・・結局は知能でしかないんですよ・・・」


昌弘はポッカリと口をあけたまま放心状態になった。


「最後の注射は・・・」


昌弘はそう言うのが精一杯だった。

米山院長は少し考えてから言った。


「快楽というのはどうですか? どのような状況でも基礎的な快楽が約束されます。リスクはありませんし、効果もほぼ100%です」


「是非それを」


この日から昌弘の日常は楽しいものになった。しかし、昌弘は思う。最初からこの薬だけで良かったのではないのか、と。最近は運に振り回されているようだ、と。


そして突然、自分は別人になったのだと気がつき、大粒の涙が流れた。

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