第29話
教会に向けて、アデルはひたすらに駆け続けた。そしてそこへ近付くにつれ、人間の数は増えていった。全員が魔物に変貌した姿で、教会を守るように立ちはだかる。
アデルはそれらを一切無視した。薙がれる爪を受け流し、牙を突き立ててくる人間を振り払う。身体中に傷を付けながらも、しかし人間は一切傷付けず、アデルは教会の中へ飛び込んだ。
そこにいたのは、町の住民たち。なんらかの礼拝のように集い、全員が魔術めいた呪文のようなものを唱えながら、まさしく祈りを捧げている。
だがその先に立つのは神の像ではなく――明確な魔物だった。講壇の上に乗る、悪魔のような翼を生やしたおぞましい魔物。
多少は人間を模した形状だが、全身が体毛に覆われている。その一本一本は柔毛ではなく、鋭く尖った針のように思えた。鉄の色をして、背後にある大きな窓から差し込まれる月明かりを浴びているせいかもしれない。
不気味なほど筋肉の盛り上がった二足二腕で屈み込んでいるが、とりわけ足は異様だった。間接が人間とは正反対の方向に曲がっている。手には指が七本ずつ存在し、それぞれ鋭利な刃物のような爪を持っていた。それが講壇の端を引っかき、気色悪い音を立てる。
顔は人間というよりも猿に近かった。曲がりくねった一本角を額から生やした猿。知恵をつけ、かつ悪意と殺意に満ちた獰猛な瞳をしている。
その毒々しい色をした双眸が、こちらを向いた。
「ソコニイル……ナニモノ、ダ……」
「どうやら、お前が元凶のようだな」
魔物に呼応して、人間たちも一斉に振り返る。ぎらついた暴虐的な視線の群れに曝されるのは、普段とはまた違う恐怖を覚える。だが、怖気付いてもいられない。
彼らをその不似合いな異変から救うためにも、アデルは魔物へ向けて駆け出した。
「返してもらうぞ、人間たちを!」
「テキ……コロス!」
操られた盲信者たちの間を縫うように突っ切り、一直線に魔物へ向かう。これだけ人間がいる中で、下手に魔法を使うことは出来ない。教会を破壊すれば、そのまま押し潰すことになってしまう。
だが、魔物の方はそれを一切気にした様子もなかった。
講壇の上に乗ったまま遠吠えのように猛る。それが呪文だったのか、犬歯以外が存在しないような鋭利な口腔に炎が宿った。
紅蓮の塊が放たれる。侵入者であるアデルに向かい――そして人間たちに向かって。
「馬鹿な!」
アデルは悲痛に叫びながら速度を上げ、無理矢理に人間たちの群れから飛び出した。既に炎は間近にまで迫っている。だが避けることは出来ず、アデルもまた魔法を解き放った。
「食らい尽くせ!」
手から漆黒の大口が現れる。竜の顎を模したそれは、迫り来る炎を一瞬で覆い、命ぜられるがままにそれを食らった。赤い光を暗闇の中に閉ざし、同時に集束するように掻き消える。
「人間を傷付けさせはしない。私が守る」
「ダレガ、ダレヲ……マモルトイウノ、ダ」
魔物が吼えた。しかし今度は攻撃的な魔法が発動するわけではない。
代わりに、背後に強烈な殺気を感じた。咄嗟に身をひねるが――間に合わない。避け損ねた脇腹を切り裂いたのは、ほかでもない人間の爪だった。
「ぐッ……やはりお前が操っているのか!」
「マチ、シハイ……ヤガテ、セカイヘ……!」
ゥルォオオオオ――!
魔物が答え、咆哮によって魔法が放たれる。烈火の礫。無数の炎が、もはや無差別と言っていいほどにぶちまけられた。
「そのような野心、認められるか!」
アデルが否定と共に腕を振るう。それに呼応し、光の壁がそびえ立った。人の背よりも遥かに大きく、教会自体を間仕切りするほどの壁。炎は眼前でその光によって阻まれ、爆ぜ、熱風となって散っていく。その熱風のそよぎすら、光の壁によって届きはしない。
だがその間にも、人間たちはアデルに襲い掛かってきた。講壇に立つ魔物にそっくりな牙を剥き出しにし、体液を飛び散らせながら殺到する。
アデルは自らが生み出した光の壁――そこに炎がぶつかり霧散するのを背にしながら、人間に立ち向かった。彼らが壁の先へ向かわないようにと気を払い、振り下ろされる爪を避け、鋭利な短剣の一撃をいなし、横から飛び掛ってくる男の身体を受け流す。
そうしながら――炎の礫が途切れる瞬間を狙い、飛び退いた。魔物へ向かって後ろ向きに大きく跳躍する。
「人間の住まう世界を、脅かさせはしない!」
吼え、身をひねり、見下ろすと、魔物はまだそこにいた。迎撃の態勢を取り、翼を大きく広げている。
魔物は空中で完全に向き直ったアデルに狙いを定めると、そのまま飛翔してきた。尋常ではない速度で、七本指の爪を突き出しながら迫り来る。
アデルは、回避のためにもう一度身をひねった。魔物の爪が頬を掠め、数条の裂傷が生まれる。それと同時に、空中ですれ違う魔物の顔面に足刀を叩き込んだ。
飛翔の勢いを完全に殺され、地面に落ちる魔物。だが辛うじて空中で体勢を取り直し、着地にだけは成功したようだ。アデルが講壇の上に降り立つと、今までとは反対に魔物が見上げてくる。
魔物は驚愕したような声を上げた。痛打の影響によって掠れ、くぐもった、聞き取りにくい声ではあったが。
「キサマ……マオウ……」
「っ……!」
見上げるローブの中の顔に、魔物は気付いたようだった。
アデルはなにも答えない。しかしその分だけ身動きが取れなくなり、講壇の上に立ったまま固まる。
人間が魔物に変貌させられているのは不幸だが、この時ばかりは幸いだった。彼らは全く聞こえてもいないようになんの反応も見せないまま、ただ魔物に付き従って講壇に乗る侵入者を排除しようという瞳を向けている。
アデルが黙したままであるため、魔物の方が言葉を続けた。魔王と戦おうとする気はないのか、あるいは説得しようとしたのかもしれない。
「マオウ……ナゼ、テキタイ……」
「…………」
問われ、アデルは一瞬たじろいだ。魔物は続ける。
「マオウハ、ワレラ……ナカマ」
仲間――
反響する魔物の声に、なにかが喉に詰まるような感覚に襲われる。そしてもはや、そのなにかが平衡感覚すらも狂わせてくるような錯覚に陥っていた。
魔物の言葉が催眠のように頭の中にこびりつき、わけもわからず視界が揺さぶられる。
なぜ敵対するのか。
魔物の仲間であるはずなのに。
アデルはその答えを、咄嗟には口にすることが出来なかった。
真理を突きつけられたように、それが刃となって身体を貫いているように、身悶えるほどの苦痛が全身を支配する。
「私は――」
その中に在りながら、アデルは懸命になにかを見出そうと言葉を紡いで。
「マオウ、ナゼ……ニンゲン、カバウ」
「…… 」
瞬間、はっとしたように言いかけた言葉を飲み込んだ。
魔物にしてみればどうということもない、率直で月並みな問いかけだったかもしれない。しかしアデルには、その言葉が心底に突き刺さった。
そこに、思い出すものがある――ヘイルに対し、自分が投げかけていた問い。
人間に突如として敵意を向けられ、苦しめられながら、それでも人間を助けようとする勇者。彼に問うたはずだ。なぜそうまでこだわるのかと。
そして、彼は言っていた。ずっと言い続けていた。人が怯えることのない世界をつくりたい――それが勇者の望みだった。
だが、ならば自分はどうなのか。
彼のような崇高な目的は持っていない。そもそも、彼についてくる理由はなにもなかったはずだ。最初から逃げ回って、その先で命を絶てばよかった。
なのにどうして、彼の言葉に従ったのか。
今、彼の目はない。人を恐れ、恐怖から逃れたいだけなら、ここで己を殺せばいい。人を守ることも、なにも考えず、恐怖から解き放たれる。
なのに、なぜそうしない?
私はなぜ、勇者と共に人間を救おうとしているんだ――?
「…………」
黙想する。眼下には魔物と、狂気の双眸をぎらつかせた人間たち。
それは過去からずっと見てきた光景だった。
同じだ。自分の目の前には常に、魔物めいた力を持つ強靭な勇者と、それに付き従う殺戮の目をした人間が立っていた。
そこから逃れたくて、自分は死のうとしていた。
「……そう、か」
ふと、気付く――同じだ。
彼らは殺意によって生まれたわけではない。
ただ、死にたくなかったんだ。強大な力の暴虐によって突如として殺される、その恐怖に怯え、逃れようとしていた。
自分と同じだ。
死の苦痛から、恐怖から逃れるために、その道を探していた。辿り着いた先が殺すか、死ぬかの違いだった。
これは、あるいは単に同情だったかもしれない。同じ恐怖を持った者への、同調の念。
自分が救われたいから、それはすなわち、彼らを救いたいと願う。
だから私はきっと、人間を助けたい。
そのために私は、勇者と共に歩んできたのか。
アデルは講壇から飛び降り、魔物へと飛翔した。
「私自身と、彼らを……全てを救うために!」
そうだ。私は助けたいんだ。
勇者ヘイル――お前のことも、助けたいんだ。
「はああああああ!」
ォオオオオオオ!
祈りを捧げる教会で、二つの咆哮が猛り、ぶつかり合う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます