第34話

 町に流れる自分の噂――自分の素性が気付かれるかもしれない噂から逃れようと、アデルは恐怖の中で走り続けた。

 向かうのは他になく、街道から外れたヘイルとの待ち合わせ場所。夕刻の間は町で調査を行う手筈になっていたため、未だ夜が訪れないうちに戻ってきたアデルを、彼は驚いた様子で出迎えた。

「どうしたんだ? 随分と早いが、なにかあったのか?」

「それが……」

 へたり込みながら反射的に口に出しかけたところで、アデルは再び迷った。自分が人々から怪しまれ始めているという状況を、彼に伝えたらどうなってしまうのか。

 未だヘイルの名誉が回復していない今、自分への疑惑を拭い去る方法が思いつかない。まさか今後は別行動をしようと言われるのではないか。離れ離れになってしまうのでは――そう考えて、言葉に詰まる。

 しかしヘイルは、じっとこちらを見つめていた。瞳の中に映る少女を気にかけ、心配するように。

 彼はなにも言わなかったが、アデルは観念したように肩をすくめた。「隠したところで自分ではどうしようもない」と前置きしてから、町での出来事を報告する。

 話を聞き終えると……ヘイルは酷く悔やむような表情を浮かべた。そして驚愕というよりは、想定されていた悲運の到来を嘆くように、苦渋の表情で奥歯を噛み締める。

「やっぱり、か。ずっと一緒にいたんだ、噂が立たないはずがない」

 今まで何事もなく町に出入り出来たことが幸運だろう、と彼は言う。

 それが自明の理であることはアデルにも理解出来た。そもそも最初から、報告自体はされていたのだから。顔を隠していたことと、勇者が魔王に堕ちたという衝撃に霞んでいただけのこと。

「でも、このままじゃ……」

「わかってる。――やっぱり、もっと早く行動を起こすべきだったな」

 悔恨に呟く勇者の言葉の意味を、しかし今度は理解しかねた。彼はなんらかの策を持っているというのか。そんな話は聞いたことがないが。

 だがそれを尋ねる前に、というよりも彼自身がそれを尋ねられる前にと心がけたように、言ってくる。

「行こう、アデル。ここに長居はしていられない」

「え? あ、ああ……」

 ヘイルは手早く二人分の準備を整えると、アデルの手を取り歩き出した。

 なんらかの決心を強く固めたような、そんな表情――だがアデルはそれについて問いただす時宜を逃し、ただ手を引かれるに任せるしかなかった。

 そうした旅路は、また重苦しいものとなった。

 手が離れたのはいつだったか。アデルはなんとなしにそんなことを考えた。ずっと握り続けられると思っていたが、いつの間にか離れていた。感情的な意味でも、生活上の問題としても、そうなることは当然なのだが、それでもアデルにはなんらかの大きな出来事であるかのように思えた。

 そのせいで旅の道中、何度か自分の手を見下ろすことがあった。また会話の少なくなってしまった隙間の時間に、それを開いて、閉じるという動きを繰り返す。

 そうした沈痛で空虚な間は、アデルにとってひどく寂しいものだった。そして同時に、踏み出す一歩一歩が異常なほど重く感じられた。一歩ごとに、己の一部が削り取られてしまうような錯覚。あるいはなにかが失われていくような、心底が抉られるような喪失感に苛まれてしまう。

 その理由の根幹はわからない。しかしそれを見つけ出すための鍵の所在は、知っていた。単なる直感だが、確信めいたものを覚える。

 勇者ヘイル――

 常に一歩か二歩ほど先を歩いている彼が、それを知っているはずだった。

 彼はなにかを秘めていた。明かすことのない、なんらかの心中。それがなんであるのかは、わからない。しかしそれを改めて問おうとする時、アデルは言葉に出来ない妙な不安を感じてしまい、その問いを口にすることが出来なかった。

 彼に強く問い質さなければならないと感じるのに、そうすることが出来ない。そのジレンマを抱えながら、見慣れたような、見知らぬ道を進んでいく。

 そして……しばらくの日にちが経過した頃だろう。その時に、アデルは信じがたい光景に出くわした。

 ヘイルが、道中の町を素通りしたのだ。

 それはアデルにとっては、考えられないことだった――出来得る限りの人々を救いたいと語り、事実そうしながら、魔王と恐怖されるようになってもそれを貫き続けてきた彼だ。どんな状況であろうとも各町々に立ち寄り人々を救おうとしてきたその性格や言動を鑑みれば、あまりにも不可解な出来事だと言えた。

 単に気付かなかったわけではないだろう。ヘイルは大陸中を旅して回っていた知識があり、まして今いる地は故郷の国だ。加えて決定的には、アデルが進む方角とはややずれた方向に町を発見し、それをヘイルに伝えている。

 その際、彼は明らかに理解しているような返事をしながらも、そちらへ一瞥もくれることなく真っ直ぐに進み続けた。町を眼前にしながらも「今は先を急ぐ」という言葉が聞かれたのは、その時が初めてだろう。

 ヘイルは言葉の通り、なににもまして気が急いている様子だった。

 それがなにかはわからない。だが普段ならば人に見つかる危険を考慮して日が落ちてからの進行になるのに対し、今は昼夜を無視し、最低限の休憩以外は常に歩みを止めまいとしている。

 そして向かう先もイントリーグ国を抜けるための北方ではなく、正反対の南だった。まるでこれまでの道のりを引き返すように、そしてそれを異常なほどに急いでいた。

 その余りにも不自然な態度に耐えかね、アデルがとうとう問い詰めたのは、通り過ぎた町が見えなくなってから数日が経過した頃だろう。

 地理に疎いアデルが、ヘイルの目指す先にあるものを理解した時だった。

 その時には遅すぎたと――アデルは己の土地鑑の無さを酷く後悔した。

「ヘイル……これは、どういうことだ?」

「…………」

 彼は無言のまま、足を止めることもない。夜の帳が下りる中、獣道もない、背の高い雑草の生い茂る草原めいた丘を進んでいく。

 追いすがるように駆け足になって隣に並びながら、アデルは語気を強めた。

「答えてくれ、ヘイル。どうしてまたここに来たんだ!」

「…………」

 やはり返事はない。だが丘の端へと辿り着いた頃、彼はようやく立ち止まった。

 アデルにではなく、真っ直ぐに丘の先に目を向けながら、青々とした空気を吸い込み、細く長く吐き出す。

 そうして気を落ち着けるようにしてから、口を開く。

 声音は実に淡々としたものだった。しかし紛れもなく、そこには今まで以上に強い決意が感じ取られる。

 やはりこちらへ振り向くことはせず、そうしないようにと心がけているように、前を――その先にあるものを見据えたまま。

「アデル――これから俺が言うことを、必ず守ってほしい」

 そこには忌まわしき、イントリーグ国の城がそびえていた。

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