第35話
闇夜に破壊の音が木霊する。
それは明らかな爆音と、分厚い石壁が雪崩のように崩れ落ちる音。
人々が悲鳴を上げるのは、それからしばし間を空けた後のことだった。なにが起きたのかを理解しかね、呆然と混乱していたのだろう。
無理からぬことだ。堅牢なはずの都市の外壁の一部が突如として凄絶に破壊され、濛々と上がる土煙の中から得体の知れない人のような影が歩み出てきたのだから。
いや、得体の知れないというのは誤りだろう。彼らはそれがなんであるかを知っていた。だからこそなおのこと、その姿を見た上で悲鳴を上げたのだ。
そうした騒ぎは容易にイントリーグの城まで届いた。
兵たちが慌てふためきながら報せに来たのはもちろんのこと、実際の喧騒までも聞こえてくる。それらが次第に城の方へ近付いてきているのを、気付いていないのは王座に座る幼き国王だけだった。
彼に成り代わるように、王の傍らに仕える黒い髭の男――王を補佐する大臣が、転がり込んできた兵士を叱責する。
「ええい、なにが起きている! どうなっていると言うのだ!」
「そ、それが……」
呂律の回らぬまま報告しようとする兵士だったが、彼が正しく情報を伝えるよりも早く、それを明確に伝えてきたのは城外からの悲鳴だった。
「魔王だ! 魔王ヘイルが攻めてきたんだ!」
「なんだと!?」
驚嘆して兵士の方を見やると、彼は腰が抜けた様子でひたすらにこくこくと頷いていた。
「人を襲わぬと聞いていたが、真に魔へ堕ちたか……」
それは同情の念ではなく、単に厭わしさや、蔑みの感情を持って発せられた。そして同時に嘲笑を含む愉悦へ変わる。
「だがそれならば都合がいい。魔王を迎え撃て! これでさらなる信心を得ることが出来る!」
大臣はそう命じると、自らも指揮を執るため、そして再びの演説により魔王をさらに確固たる存在とするために城外へ向かった。
二度目の破壊的な轟音が鳴り響いたのは、彼が多くの兵士たちと共に城門へ辿り着いた直後のことだった。
まさしくその眼前で、爆音と同時に壁のような火柱が上がる。激しい熱風が吹き荒れ、大臣と兵士は両腕で顔と身体を守らざるを得なかった。それでもなお、背筋を凍らせるほどの熱波が感じられる。
それが多少なりとも収まり、目を開けられるようになると、そこに映る光景は奇怪なほど変貌していた。眼前にあったはずの地面が深く抉れている。石の舗装は溶解し、剥き出しになった土が炭のように黒く焼け焦げながら、僅かに残る炎によって赤く照らし出される。それが脈打って見えたのは、炎熱によって沸き立っているためか。
そうした破壊痕は、ある地点を中心として円を描くように広がっていた。
中心に立つのは他でもなく――魔王、ヘイル。
「取り囲め! 奴を城へ近付けるな!」
怖気を知らぬ大臣の命令に従い、兵が魔王を包囲する。とはいえ、それは完全なものではなかったが。
城門を塞ぐように扇状に広がりながら、しかし退路を塞ぐことはしていない。魔王の背後には、遠巻きながら不安そうに戦況を見つめる民衆の姿があった。危険な野次馬だが、この場合それは好都合だろう。少なくとも大臣はそう考え、ほくそ笑んだ。
「とうとう真に正体を現したようだな、魔王ヘイル!」
相手の動きが止まったところで、大臣が進み出る。いつかの演説のように、民衆を意識して声を張り上げながら。
「よもや再びこの地に現れるとはな。貴様の正体を看破したことへの復讐のつもりか?」
「…………」
なじるような言葉にも、しかしヘイルは動きを見せない。顔を伏せ、無言のままただ破壊痕の中心に佇んでいる。まるでその痕を結界とし、なんであろうと寄せ付けないように。
それはまさしく魔王じみた脅威を孕んでいた。事実、兵士たちが包囲を縮めることが出来ないのは、大臣からの命令のみならず、そうした瘴気とも呼べる禍々しさに当てられ足が竦み、それ以上先へ踏み出すことが出来ないからだった。
大臣もまた表情すら窺い知れない魔王の目に見えぬ重圧に気おされ、半歩ほど後ずさりながら、言葉だけは勇猛に食いかかる。
「もはや言葉も出ぬか、魔王! だがそれも已む無きことだ。貴様はここで討ち果たされることになるのだからな!」
「……そうだな」
ぽつりと。不意をつくように、彼は言葉を発した。
小さな声音だったが、それは喧騒の隙間を縫って妙に響き渡る。大臣も、兵も、民衆の誰もが彼の声を聞いていた。
顔を上げる。短い金髪を風に揺らす、好青年然とした魔王の顔。その黒い瞳が宿しているのは、静かな覚悟だった。彼はそれを口にする。
「今ここで、真に全てを終わらせよう。もう、不要に世界が怯える必要はない」
「真に終わらせるだと? なにを言っている」
大臣が問うが、ヘイルはそれを無視した。民衆へ向かって声高に告げる。
「ああ……俺は『魔王』だ。世界に恐怖と混乱をもたらし、全てを破壊する『魔王』としてここに在る!」
再び、爆発が巻き起こった。兵士たちの足先が破砕され、同時に民衆の眼前が紅蓮に染まる。
世界を焼き尽くすような炎を従えて、魔王はそこに立っていた。人間たちが、絶望的にそれを見つめる。熱波と黒煙が吹き荒れ、誰もが逃げ出したいほどの畏怖に駆られながら、しかしそれ以上に竦み上がり、身動きを取ることが出来なかった。人間を圧倒する魔王たる力を前に、へたり込むことも、目を逸らすことすら許されない。
誰も、どうすることも出来ない。
彼の力に抗う術がないことを、その場に居合わせる全ての人間が悟っていた。魔王たる存在が、かつてより恐怖していた魔物などより遥かに恐ろしいものであることを。真にその力に曝された時、もはや自分の命は魔王の手の中にあるのだと。
そして彼は、それを全てを握り潰すのだろう、と。
ただ自らの死を待つしかない絶望的な恐怖が、イントリーグの都市を支配する。魔王が微かに首を動かすだけでも、民衆は過敏に恐れ、蒼白の顔をさらに青ざめさせた。
兵も、民衆も、無用なほどの勝気を奮っていた大臣ですら、魔の炎を宿す双眸に見据えられれば石のように硬直した。
焼けた石土と爆煙の臭いが脳に染み込み、印だ収まりきらない熱波が人々の肌を焼く。だが汗を滴らせることすら許されない緊迫が、辺りを包み込んでいた。そんなことをすれば間違いなく自分が真っ先に殺されると、誰もが考えている。
生き残るために……間違いなく全員が瞬く間に殺されるだろうと確信しながらも、それでも生き残りたくて固まり続ける。
だが――そんな群集の中から、不意に何者かが進み出た。
どこか厳かでもありながら、重苦しく。足音すら立てないが、それでも己の存在を精一杯に主張するような気配を帯びながら。
それは一人の、ほんの幼い少女だった。
炎のように揺らめく赤茶色の長髪。鮮やかな黒のドレスは、それよりもさらに艶やかな漆黒の鎧が合わさったような、美しくも勇ましい衣となってその身を包んでいる。広がったロングスカートの裾は剣を模り、それに薙がれれば切り裂かれるのではないかとさえ感じさせた。真紅の瞳は生意気そうに吊り上がり――しかし今は、なぜか妙な儚さと、憂いを秘めているように見える。
少女は無言のまま、その小柄な体躯に似合わぬ長剣を鞘から引き抜いた。神々しい白光を湛える刀身。
それはまさしく、勇者の剣――
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