第27話
目を開けると、そこは暗闇だった。
ざらついた青黒い視界に、黒い影としての草木が映る。新緑の香りの中で聞こえてくる微かな音は、清流か。
野営をした場所が川の近くであったことを思い出しながら、ヘイルはゆっくりと身体を起こした。
その時になってようやく、自分の隣にある人影に気付く。草木よりも深い黒一色のような身体だが、そこには確かな色味を感じた。それは彼女の赤い瞳が潤み、星明りを反射していたからかもしれない。
彼女――アデルはひどく心配そうな顔をしていた。その表情のまま声をかけてくる。
「ヘイル、大丈夫か……? うなされていたようだけど」
「……ああ」
短くだけ答えて、かぶりを振る。夢を見ていたらしい。内容は思い出せないが、いいとも悪いともつかないものだった気がする。
アデルは、起こすために触れさせていたらしい手を離した。まだ不安そうな瞳は揺らしたままだが。
それに気付かぬ振りをしながら、ヘイルは別の話を口にした。
「ここは、どこだったか」
「前の町を出て、一日ほど歩いたところだ。このまま行けば、人が寝静まる前には次の町へ辿り着ける……と、ヘイルから聞いた」
「……そうだったな」
実際にはあまり覚えてはいなかったが、ひとまず同調しておく。
――兵士による破壊工作を見つけた村での一件以降も、ヘイルは変わらず、町や村での事件、異変の解決を続けていた。魔物の討伐、盗賊の捕縛、時には破壊工作員を発見することもあった。
だがなにをしたところで、人に見つかれば受け入れられることはなく、恐れられ、忌避される。ほんの少し前までは味方だった人々が、今は刃か、恐怖を向けてくる。
それがどれほどの孤独だろうかと――アデルは疲弊の滲む勇者を見つめながら悲嘆していた。
そして同時に、また無言のまま出発しようとする彼の姿に、心痛むものを覚える。
しかしアデルはどうすることも出来ず、ひとまず寝具をまとめ出発の準備を整えると、ヘイルの後に続いた。静寂の夜の中、また二人で歩き続ける。目指すのは漠然とした北方。元より目的などないが、少なくともこのまま国を出るつもりらしいということはわかった。
だがそんな時、アデルはふと閃くものがあった。
傷心に喘ぐ勇者を、少しでも癒すことは出来ないかと考えて、それを思いつく。全ての人間が彼に敵対する中、それでも彼を受け入れてくれるはずの場所。唯一つだけ、それがあるはずだと。
アデルは少し早足になりながら、その思いつきを口に出した。
「そうだ、ヘイル。確かヘイルの故郷は、この国の北方にあるんだろう? それなら、そこへ行ってみないか?」
先を行っていた勇者の隣に並ぶと、僅かな希望を込めて彼の顔を見上げる。
魔王の話は広まっているかもしれないが、故郷でなら他の町よりはよほど受け入れられやすいだろう。そこでなら、彼も少しは気持ちを安らがせることが出来るかもしれない、と。
しかし……そこで見たヘイルの横顔は、アデルが想像し、期待していたものとは全く違っていた。なんらの色もない、空っぽの表情。じっと前を見つめ、歩を緩めることもなく、淡々としている。その顔のままに、彼は小さくだけ口を開いた。
「故郷はもうない。戦禍によって壊滅した」
「え? 戦禍、って……」
言葉を繰り返し、アデルは自分が深い虚へと落下していく錯覚に陥った。
踏みしめているはずの地面の感覚がなくなり、身体の内部全てがねじれながら収縮しているような錯覚。
彼が発した言葉の意味。アデルはそれを理解していた。戦禍――
どうしていいかわからず身体が震える。心臓は異常なほど大きく跳ね、剣で切り裂かれるなどよりも遥かに恐ろしい悔恨が全身を駆け巡り、視界が白む……
「それって、もしかして私の……」
「…………」
痙攣する唇が辛うじて発した掠れ声に、ヘイルはなにも答えなかった。しかしそれがなによりも如実な答えだったかもしれない。
頭の中が空虚に支配される。血の気が引き、寒気すら感じるほどだというのに、全身が熱く、ちりちりと肌が痺れた。
もはや彼の隣を歩くことは許されないような気がして、アデルは歩を緩めた。ただ自然と、歩く力すら抜けてしまっただけかもしれない。先を行くヘイルに、それでも辛うじてついていきながら、絶望に顔を伏せる。
彼はなにも言わない。ずっとそうだったように黙したまま、次の町を目指し歩いていく。
故郷以外の場所。戻るべき、安らぐべき場所は存在していない。全てが彼に敵対する中で、それは失われていた。
――私のせいで。
「…………」
ヘイルの見せた横顔からは、なにも読み取ることが出来なかった。なにを考えているのか、どう感じているのか、わからない。
いや、全てがまったくわからないわけではない。アデルはそう感じる。ヘイルだって同じことを思っているはずだ。魔王が復活し、魔物が現れたせいで……つまりはアデルのせいでこうなったのだ、と。
「私の……」
そうだ――わかりきっていたことだ。人々が怯えるのも、それを利用した悪事が蔓延したのも、ヘイルが魔王として忌避されるようになったのも、彼の故郷が失われてしまったのも。
「全部、私のせいなのに……」
しかし彼はなにも言わない。お前のせいだと怒鳴り散らすことも、なんらかの皮肉を浴びせかけてくることも。ただ淡々と、自分の中に全てを押し込むようにしながら、苦悶を続けて……
ふと――ヘイルは足を止めた。アデルがその場で立ち止まったことに気付いたために。
振り返ると、彼女は俯いたまま自虐するように強く拳を握り締め、身体を震わせていた。噛み締める口から、言葉が漏れ出る。くぐもった涙声のように思えた。
「どうしてヘイルは、なにも言わないんだ……? 私の、せいなのに……」
アデルは顔を上げた。暗闇の中で、彼女の瞳は雫を溜めて潤んでいた。それでも懸命にそれを零すまいと堪えながら、しかし一度発し始めた言葉だけは止まらない。
「わかっているはずだ、私のせいだって……私がいたから、こんなことになったんだって!」
慟哭のように顔を歪めながら、感情を吐き出してくる。
詰め寄ろうとして、けれどアデルは足を踏み留めた。代わりに、耐えがたい苦悶に耐えるように身体を折り、叫ぶ。
「隠さなくたっていい! お前のせいだって言ってくれた方が、その方がいい! それで少しでもヘイルの気持ちが晴れるなら、私は……!」
「…………」
ヘイルは黙したまま、反対に自分からアデルの方へ歩み寄った。そうして、伏せた彼女の頭にそっと触れる。
はっとしてアデルが顔を上げると――しかし彼は視線を合わせてはいなかった。先ほどと変わらない、何処か彼方を見つめるような空ろな顔で、静かにその目を閉じると首を振る。
「俺は、お前に言わなければいけないことも、責めなければいけないことも、何も無い」
「でも……でも!」
否定し、言葉を返そうとするが、それが思いつかない。反駁しようとする意志だけが口を出て、己の不甲斐なさからこみ上げてくる涙に息が詰まる。
「辛いのなら、少し休んでいこう。決まりある旅じゃない。気が落ち着くまで足を止めていい」
ヘイルはそう言うと、触れさせていた手を離し、沿っていた川の方へ向かう。
茂みを越えていく彼の背中を見つめ、アデルはどうしたらいいのかわからず、どうすることも出来ず、せめてここで泣き出さないようにしながら、その後ろについていった。
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