第7話

 崖は地表が近付くにつれ緩やかな斜面に変わり、鬱蒼とした草木が生い茂るものへと変わっていった。無事に止まることが出来たのは、それらのおかげだろう。

 落下の風を感じなくなり、ようやく目を開けたアデルは、そこが崖の終着点であることを理解した。

「降りて、こられた……のか?」

 否応ない落下の恐怖からようやく解放され、アデルは安堵と呆然の狭間で呟いた。

 そこで自分の身体がまだヘイルによって抱き締められていることを思い出し、慌てて飛び退くと――それは意外なほどにあっさりと達成された。

 少女を守り通した彼の腕が、だらりと垂れる。腕だけではない。ヘイルは全身の力が抜けたように、緩い斜面に身体を預けたままぐったりと項垂れていた。

 見れば身体中、傷のない部位の方が少ない。血で汚れていない部分はさらに少ないだろう。控えめに言っても、ボロボロの状態だ。

「ヘイル……ヘイル! しっかりしろ!」

「口、閉じてろって言っただろ……」

 身体に触れ、呼びかけると、彼は魔物との戦いでも見せていた奇跡的な勇者然とした頑丈さで、なんとか意識だけは保っているようだった。

 とはいえ手足は一切の命令に従わず、辛うじて口だけが動いている。

 アデルが崖下に到達したことを告げ、意識があったことに安堵していると、彼はか細い声で囁いた。

「気を失わないようにだけは、気をつけたからな……起きていれば、どうにでもなる」

「なるわけあるか! 馬鹿!」

 得意げな勇者に対し力の限り叱責すると、アデルは急ぎ彼の身体に手をかざした。

 意識を集中させると、再びアデルの腕に魔の力が集う。しかし今度は破壊的なものではなく、柔らかな、温かい風だった。淡い光が燈り、それをヘイルの身体に触れさせると、傷口が塞がっていく。

 ヘイルはしばし、その温かさに身を委ねていたが――僅かながら顔を上げられるようになると、心配そうに傷の様子を窺うアデルの顔を見て、はたとなにかに気付いたようだった。悔やむ声音で言ってくる。

「お前、怪我してるじゃないか……ちょっと見せてみろ」

「なにを言っているんだ、お前はっ!」

 治癒のために伸ばそうとしてくるヘイルの腕を、アデルは再び激しい叱責と共に押さえつけた。

「お前は今、治される側なんだ! 大人しくしていろ!」

 もはや激昂のように歯を剥き出しにする少女を見て、ヘイルは苦笑した。渋々とながら、今度こそ大人しくアデルに身を委ねる。

 そうしながら、ヘイルはぽつりと呟いた。

「まさか、弟子に手当てされるなんてな……ありがとう、アデル」

「なっ、なにを言っているんだ、お前は……」

 先ほどとはまた少し違った調子で、そっぽを向く。

「これはその、別に、感謝されたくてやっているわけじゃない! ……というか……」

 そう反発してから、彼女はふと考えた。

 ひょっとして、感謝されたいがためという浅ましい考えを持っているんじゃないか、と思われているんじゃないだろうか……

「……死にたくなってきた」

「救助しながら死にたがるなよ」

 呆れて言われ、アデルは不服そうに口を尖らせる。が、しかし死ぬよりもまずはヘイルの治癒を優先した。そして同時に、問いかける。思えばほんの少し前にも同じようなこと言った気がする。

「どうしてお前は、またこんな無茶なことを……」

 深刻で沈痛な面持ちのアデルに、しかしヘイルはか細いながらも、当然といった様子で言葉を返した。

「急いでたから、な。あの場に留まって岩を壊そうとしたら、間に合わなかっただろうし……下手に逃げて、壊し損ねたら大惨事だ」

 麓には町がある。今いる場所からもさほど離れておらず、巨石が健在ならば間違いなく甚大な被害が及ぼされただろう。

 アデルにもそれはわかった。だが、かといって納得出来るものでもなかった。

「それにしたって、やることが無茶苦茶だ。死んだらどうするんだ」

「お前なら、俺が全力で守れば死なずに済むだろうと思ったんだ」

「ヘイルのことを言っているんだっ!」

 とうとう明確に激昂して、詰め寄る。その勢いで足の傷に触れてしまい、ヘイルが僅かに苦悶の表情を浮かべるのを見て、慌てて飛び退き謝罪したが。

 アデルはそれで少しだけ冷静さを取り戻し、バツが悪く傷口に視線を落とした。しかしやはり不満は収まらず、小言のように独りごちる。

「やはりお前は考え方が古いんだ。無茶な力技ばかりで物事を解決しようとして……もう少し理知的というか、器用な方法は考え付かないのか。これじゃあヘイルの方がよっぽど死にたがりみたいじゃないか、まったく。わかってるのか」

 独り言に、ヘイルはしばしの間ただ黙って聞くに徹していたが、言葉の最後で不意に「わかっているさ」と返事を返した。

 意表を突かれて顔を上げる。そこではヘイルが真剣な眼差しで、虚空――あるいは何処か遠い、手の届かぬ場所を見つめ、夢想するような憂いの表情を浮かべていた。

 そしてそっと、誰に聞かせるでもなく囁く。

「俺は――『勇者』は、死ぬわけにはいかない。誰も怯えることのない、平和を取り戻すためにも」

 ゆっくりとした風が、血と新緑のにおいが漂う空気をかき混ぜる。

 アデルは、咄嗟に返す言葉を思いつくことが出来ず、俯いた。

 頑ななほど、あくまでも一途な理想を追求する『勇者』。その姿に尊敬や感心に似た感情を抱きながら――同時に、心苦しさが胸の奥で湧き上がる。

 しかしなにも言わずにいるのは、その苦悶を悟られてしまうのではないかと思い、必死に言葉を探した。そうして出てきたのは、やはり小言だったが。

「……わかっているなら、もう少しまともな策を打ち出すべきだ」

 ヘイルは「そうだな」と言って苦笑し、アデルの頬に手を当てた。

 温かな光が燈る。ほんの一瞬だったが――手を離すと、そこにあった傷は綺麗に消えていた。


---


 傷の治癒を終え、動けるようになると、ヘイルは休む間もなく町へ戻った。

 町長に討伐の報告をし、少なくとも今までと同じ魔物被害に怯えることはなくなったと告げると、彼はすぐさま住民にも知らせるよう手配していたので、町もそのうちに安寧と活気を取り戻すことだろう。

 旅をする身で、そうした過程を見守り続けることは出来ないが、それでも今日一日はその歓喜の雰囲気を味わうことは出来るはずだ。

 落ちてきた日を見上げ、アデルはそう考えて安堵の息をついた。自分も、ヘイルも、ほぼ休息の時間なく動き続け、ましてヘイルは傷口こそ塞がったとはいえ大怪我をした身だ。

 ここで十分に休息を取ることで、少しでも力を取り戻した方がいい。なにより町長も、無償で十分な宿と食事を提供してくれると言っていた。

 ……言っていたのだが。

「よし、必要なものは揃ってるな。それじゃあ行くか」

「って、本当にもう出発するのか!?」

 ヘイルは宿泊の申し出を断り、即座に旅支度を済ませていた。アデルの分の荷物もしっかり準備され、既に持たされている。

 彼は驚愕と抗議の声を上げるアデルを無視して、さっさと町長の家を後にすると、町の出口――次の町へ続く街道に向かって歩き始めた。

「早くしろー。日が暮れるぞー」

 既に暮れ始めている気がするのだが……という意見は、「まだ大丈夫だ」との根拠なき過信によって一蹴される。

「まったく……なにがお前をそうまでさせるんだ」

 不貞腐れるように呟く問いかけは、しかし勇者には聞こえなかったのかもしれない。

 さっさと先を行ってしまう彼の背を、アデルは早足になって追いかけた。

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