第30話
夜はまだ明ける気配もない。
しかし明らかに傾いた月の角度に時間の経過を覚え、ヘイルは未だ帰らぬ弟子を案じだ。
町の灯が乏しいことには気が付いた。それゆえに人通りもなく、調査が難航しているのか。そうであれば早く帰ってくるようにと言い含めるべきだったか。
街道から外れた林の中でヘイルがそう考え、危険ながらやはり自分も町へ向かおうかと準備を始める。
――アデルが姿を現したのは、丁度その頃だった。
どこか危うげな頼りない足取りで、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
「アデル!」
焦り、急ぎ駆け寄る。
彼女は少なくとも、真っ当な状態ではなかった。黒のローブは無数に裂かれた痕があり、その隙間から露出した肌にも裂傷が確認出来る。
傷は魔法で治せる程度だろうが、彼女はそんな解決方法も考え付かなかったと思えるほどに、ひどく疲れ切った様子だった。ありていに言えば、ボロボロの状態だ。
肩で息をしながらふらふらと歩み寄ってくるアデルを抱きとめる。彼女はそれで少し安堵したのか、力を抜いて膝を折った。一緒にヘイルがしゃがみ込むと、口を開いたのはアデルの方。
「遅くなった……でも、大丈夫だ。町にはなんの異常もない」
「お前……」
あからさまな嘘を、それでも懸命に微笑しながら囁いてくる。
しかしそれだからこそヘイルは、事情のおおむねを察知した。町の中でなんらかの戦いがあり、それをアデルが一人で解決してきたのだ、と。
「どうしてそんなこと……お前なら逃げることも、危機を伝えることも出来たはずだ。そうすれば俺が――」
「……すまない、ヘイル」
言葉を遮って、アデルはそう口にした。謝りながら、しかし反対にヘイルを慰めるように手を伸ばす。そっと抱きつくような形になりながら、彼女は続けた。
「すまない……一番辛いのはヘイル自身だって、わかっていたのに」
それは、直接的にヘイルの問いに答えるものではなかった。しかし彼女は語る。ヘイルもまた、その言葉を聞いていた。
「お前はずっと苦しそうで、それをどこにも吐き出さないから……このままじゃ壊れてしまうと思ったんだ」
「壊れる……」
「私はずっと一人で、ずっと辛かった。だけどヘイルと旅をするようになってから、一人じゃなくなってから、安心出来るようになってきた」
それは安らかな、けれど懇願するような声。アデルは己の気持ちを必死に伝えようとしながら、しがみつき、耳元で懸命に囁き続けた。
「だから、わかるんだ。きっと辛い思いでも、話せば少しは楽になる。私がいるから……感情をぶつける相手なら、私がいるから!」
「…………」
抱きつく腕に力がこもる。
ヘイルはしばし、なにも答えなかった。ただ、そっと――その身体を抱き締め返す。
彼女が顔を上げるのがわかった。息を呑む彼女の耳に、今度はヘイルが告げる。ゆっくりとした吐息に載せて。
「そうだな……お前の言う通りかもしれない」
それは嘆きだったかもしれない。あるいは自嘲か。
いずれにしろヘイルは、それを口にするのにも酷く力を要したようだった。だが同時に、一度それを吐き出してからは落ち着いた様子を見せる。
彼はぽつりぽつりと言葉を落としていった。
「俺も同じだ。ずっと辛かった、ずっと苦しかった」
子供の頃からずっと――
故郷を追われて逃げる時、見知らぬ町で母と二人きりで暮らしている時、そこですら魔物に襲われ、母に抱き締められている時も。
それから母が少しずつ疲弊して、次第に壊れていくのを見ている時。母が自分を殴る時、憔悴し切って眠っている母の姿を見ている時、その母が死んでしまった時……
旅に出て、魔王を倒し、こんなことがなくなればいいと思った。ずっとそう思って、そのたびに昔のことを思い出して、辛苦に喘いだ。
「けど、それをさらけ出すわけにはいかなかった。そんなことをすれば、誰かがまた辛くなる。耐えないといけない、自分が耐えればいいんだ、って」
「そんなことない……今は私がいる。私が一緒に、受け止めるから」
強く慰め、励まそうとするアデル。
ヘイルはその言葉に微笑した。
「ひょっとしたら俺は……お前に話し相手を求めていたのかもしれないな」
「うん……それでいい。いくらでも話を聞く。ヘイルが少しでも安らぐまで、ずっと」
言葉通り、アデルはヘイルにすがりつきながら、同時に彼の身体を支えるように抱き寄せる。
そんな彼が苦笑するのを、アデルは耳元で感じていた。
「なんだかお前の方が、勇者みたいだな」
「なにを言っている。私はお前の弟子だ」
言い合って、久しぶりに笑い合う。
二人はしばらくの間、そうしていた。
そうして……やがてヘイルの腕の中で、少女は安らぎの表情を湛えたまま眠りにつく。
静かな寝息。それを妨げないようにしながら――
腕の中で眠る少女の姿を見つめ、ヘイルはそっと囁く。
「お前がいてくれてよかった。本当にそう思う。だからこそ、俺は……」
そう言って、自分も静かに目を閉じた。
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