020
気がつくと、おれは見知らぬ宮殿にいた。
宮殿内にはたくさんの本や美術品、標本などが保管されていて、図書館と美術館と博物館をミックスしたような豪勢さ。スミソニアン博物館群にも引けを取らないのではないだろうか。
しかし、なかでも特に圧倒されたのは、そのうちの一室――日本の和室だった。畳敷きの室内には、北斎の浮世絵や宮本武蔵の水墨画、蒔絵の装飾が施された調度品、着物やかんざしなどの服飾品、さらには甲冑と日本刀。
そしてその部屋の中心で、ヘスター・モフェットが抹茶を点てている。茶道だ。格好から徹底していて、紫の着物を身にまとっている。おれは無言でそのそばに用意された、座布団の上に正座する。
「――どうぞ」
ヘスターから差し出された抹茶を、おれはうろ覚えの作法で飲む。茶碗は右まわしだったか、それとも左まわしだったか。
「けっこうなお手前で」
そう言ってはみたものの、味なんてよくわからなかった。何しろ今のおれには舌がない。いや、そもそも肉体自体が存在しない。しかし、おれの記憶が抹茶の味を補完して、何となく味がしたような気もする。
「懐かしいな。そもそもおれがヘスターと親しくなったのは、日本文化に関する講義で一緒になったんだった」
「そうね。よく憶えているわ。あなたはニンジャについて、教授に何度もしつこく質問してた」
「ニンジャじゃなくて、手裏剣が好きなんだよ。刃物はそんなに好みじゃないが、アレは別だ。星型の刃物なんて、サイコーにクールじゃないか」
おれはこの宮殿を見も知らない。けれども、聞き覚えはある。かつてヘスターから聞いたイメージに、ここは寸分たがわず一致している。
「ようこそケイス。わが記憶の宮殿へ。あなたはここが誕生して初めてのお客よ」
「……ヘスター、教えてくれ。おれはどうしてこんなところに」
確か……発砲しようとするウィリー・ヒューズの動きを封じようとして、ヤツの手からすっぽ抜けたピストルが頭に当たって、そのまま意識が――。
「何から話せばいいかしらね……」
「おれが、おれの精神がここにいるってことは、おれの肉体は」
「脳死状態よ」
「そう、か……」
もしものことがあれば、そうなる可能性は高いと思っていた。だから万が一のときのため、臓器提供意思表示の書類にサインをしておいたのだ。とはいえ、まさか実際にそんなことになるとは、思いもよらなかったが。
「リンダは無事か?」
「ええ、心配しなくてもクラリスは大丈夫。ケガひとつしていないから」
「よかった。――となると問題は」
ヤツは、ウィリー・ヒューズはどうなったのか。あの状況で意識を失ったなら、リンダが逮捕してくれたと思うが、問題はヤツの雇い主だ。それを解明しなければ、副大統領を守れない。
とはいえ、そんなことを部外者であるヘスターに訊くわけにもいかないし、知っているわけもない。
「ああ、それと、あなたも無事」ヘスターが意味不明なことを言い出した。
「無事? まァ無事といえば無事だが。肉体は取り返しがつかないが、精神だけでもこうして生きているわけだし」
「いいえ、そうではなくて」ヘスターは否定する。「ウィリー・ヒューズの肉体に憑依したまま意識を失ったあなたは、本体とのリンクが途切れて戻れなくなってしまった。そして目が覚めると、あなたはその肉体の主導権を握っていた。ただし、記憶喪失になってね」
「……ハァ?」
「だから、ヘンリー・ケイスは女のカラダになってしまった上に記憶喪失だけれど、今も生き続けているわ。めでたしめでたし」
おいおい、いったい何を言っているんだ? 何のジョークだそれは。メチャクチャだぞ。ワケがワカラナイぞ。
「チョット待て。それじゃアここにいるおれはなんだ? だいたい、なんで記憶喪失なのに、自分がヘンリー・ケイスだと認識できてるんだよ」
「厳密にいうと、ヘンリー・ケイスだと自覚があったわけではないわ。自分は男だから、こんなカラダは自分の物じゃないと言い張っているの」
「たいして違わないだろ。記憶喪失なのに、なんでそんなことがわかる?」
「だったらケイス、あなたはいつから、自分が男だと知っていたかしら」
「いつから? いつからって……そんなの憶えてない」
「ペニスが生えていたから? 女のカラダと比較して明らかに違ったから? それとも、誰かに男だと教えられたから?」
……どうだろうか。もちろん、実際どうだったかなんて記憶にないのだが、しかしそんな理由で、おれは自分が男だと判断していたのだろうか。自認していたのだろうか。そうではなくて、もっと自信過剰ではなかったのではないか。
おれは男だ――と。
「大抵の人間はそんなこと深くは考えない。当たり前に受け入れている。自分の性を。だけど、ある種の人々にいつから自分の性別を認識していたかと問うと、大抵こう答えるの――物心ついたころから。すでに違和感があった。性自認は、記憶が蓄積されるよりも前の段階からある」
「それは、つまり――」
「ええ。ウィリー・ヒューズは、性同一性障害よ」
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