007
すぐ近くで聞こえた女の叫び声に、おれは驚きのあまり跳ね起きた。
どうやら夢を見ていたらしい。最悪の夢だった。具体的な内容はすでに忘れてしまったが。
……それにしても、ここはいったいどこだ? なんでおれはこんなところで寝ていたのだろう。部屋の雰囲気からして、違和感はあるものの、どうやら病室のようだが……。
そういえば、頭に若干痛みが残っている。触ってみると額にたんこぶが出来ていた。いつ頭を打ったのか思い出そうとしたが、まったく記憶にない。
いや、それどころか! 何ひとつとして憶えていないことに気がついた。
……おかしいな……。
こんな不思議なことがあるか? 自分で自分を忘れちまっている……。いくら考えても、このおれがどこの何者だかまったく思い出せない。
落ち着け。冷静になれ。あわてたところでしかたがない。ひとりでアレコレ考えていても、答えなんか出やしないんだ。何も憶えてないんだから。
おれはベッド脇のナースコールを見つけてボタンを押した。これですぐさま看護婦が駆けつけて、事情を一切合財説明してくれるはずだ。
しかしナースコールを押した直後に病室の鍵を開けて入って来たのは、エロかわいい白衣の天使ではなく、スーツを着た厳つい男たちだった。
そこでさっき覚えた違和感の正体がわかった。この病室の窓には、鉄格子がはめられている。はめ殺されている。
出入口にも厳重に鍵がかけられていた。まるで室内にいる人間を逃がすまいとするように。
ここは、まるで……そう、まるで牢獄だ。いや、せいぜい留置所くらいか。そう考えるとしっくりくる。入って来た男たちは警官といったところか。
男たちは油断なく懐のピストルへ手を伸ばしながら、「まだおとなしく寝ていろ。そうすれば危害は加えない」
「身柄の安全は保障する。貴様が妙な気を起こさなければ、だが」
「落ち着いたら知っていることを洗いざらい話してもらうぞ」
チョット待て、今のは誰の声だオイ?
……おかしいぞ……。
ああ、言われなくてもわかってるさ。おれの声だとも。だって今、確かに、おれはこの口でしゃべったんだから。だが、おれの声にしてはいくらなんでも高すぎやしないか? もちろん自分がどんな声かも忘れちまったわけなんだが、それにしたってこの声は高い。こんなヴィオラの音色みたいに透き通った声が、おれの声であるはずがない。
……いよいよおかしい……。
これじゃア、まるで――
おれはベッドから降りて、部屋の隅の洗面台にかけられている鏡に歩み寄った。おれの唐突な行動に、男たちが神経質そうに声を荒げるが、知ったことか。こっちはてめえらにかまってる場合じゃアないんだ。
「……こりゃアどういうことだ? こんなバカなことがあるかい……。アハ……アハ……おかしいおかしい……アハアハアハアハアハ……」
おれは笑った。鈴を転がすように。ワイングラスを指で弾くように。東南アジアの臭くてグロテスクな花のように。これが笑わずにいられるか。
鏡に、おれの姿は映っていなかった。
そこにはひとりの女がいた。はち切れそうなくらい膨らんだバスト。コークのビンみたいにくびれたウエスト。ひっぱたきたくなるヒップ。華奢な骨格とやわらかな肉づき。どこからどう見ても女だ。
「アッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハ――なんじゃこりゃアーッ!?」
チョット待て! チョット待てチョット待て!
ありえない! ふざけんじゃねえぞコラ! いったいこいつは何のジョークだ? 新手のドッキリか何かだよな? おい、誰かそうだと言ってくれ!
おれは戸惑い面食らった。記憶喪失なのは――まァいいさ。しかたがない。そこは素直に納得しよう。
だけどこいつは、さすがに冗談キツイぜジーザス。おれが女だって? こんな、バーでひとりで飲んでるところをナンパされそうな美女が? 嘘だろ。ありえない。絶対ありえない。
――だって、おれは男だ。
何も思い出せない。自分の名前も、生まれた場所も、両親の顏も、好きな食べ物も、何もかもわからない。
だがこれだけはハッキリ言える。おれは男だ。そのはずだ。おれの
ああ、胸くそ悪いぜチキショウめ。股ぐらにあるべきものが、おれの大事なムスコが、タマタマがない。何も生えちゃいない。ただ空虚な穴だけ。
これがおれだって? こんなイモムシみたいなカラダがおれのだって?
「おい、落ち着けウィリー・ヒューズ! 何を騒いでるっ」
ウィリー・ヒューズだって? ずいぶん気取ったネーミングだな。『W.H.氏の肖像』か? いや、そもそも男性名だ。この女には似合ってない。
ああ、そうだとも。これがおれのカラダなはずがない。おれは男なんだから。こんな女は知らない。これはおれのカラダじゃない。本当のおれじゃない。
おれのカラダはどこだ?
「――おれの本当のカラダは、どこへ行きやがったァッ!!」
どこからともなく、ハムレットの声が聞こえる――“この天と地のあいだにはな、ホレーシオ、哲学などの思いもよらぬことがあるのだ”
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