013
もともと記憶喪失だけで、ほかにケガを負っているわけではなかったし、臓器摘出手術も終えて、いいかげん病院に用はなくなったことだし、ヘスターの診察を受けた翌日には退院した。
もっとも、今後も定期的に通院することになるらしい。せっかくの
「ところでおれの家ってどこにあるんだ?」
「コロンビアハイツ。いいトコだよ」
しかしリンダの運転するフォード・ファルコンで連れて行かれたのは、シークレットサービスの本部だった。
リンダは肩をすくめて、「家に帰るヒマがあると思ってる? そんなわけないじゃない。副大統領暗殺を企んだ黒幕は、まだ捕まってないんだから」
「だが、予知されていた未来は回避したんだろ。ウィリー・ヒューズはもういない」
「だからこそだよ。これでもう未来は不確定になった。どう変わっていくかは誰にもわからない。最悪、別の殺し屋がもとの期日よりも早く襲撃してくるかもしれない。だから一刻も早く犯人を捕まえないと」
「副大統領にまた予知してもらえないのか」
「そこまで都合のいい能力じゃないって。副大統領の
「確かにそのとおりだな」
「心配しなくても、仮眠室くらいあるから安心して。ベッドにはかぎりがあるけど、レディーには優先で使わせてあげる」
「冗談。毛布があれば充分だ」
愛しのわが家へ帰れるのは、しばらく先になりそうだ。
「ところでほんの数日とはいえ、おれが病院でバカンスのあいだ、少しくらい捜査は進んだのか?」
リンダは肩をすくめる。「正直言うと全然」
「まァ、手がかりらしい手がかりがないからな。ウィリー・ヒューズの記憶だけが頼りってわけか」
「と、思うでしょ? 実はあるんだよ、ひとつだけ。貴重な手がかりが」
リンダとともにやって来たのは、証拠品の保管室だ。そこでアタッシュケースを見せられた。
「ホテルの部屋から回収した、ウィリー・ヒューズの私物だよ。あとは黄金銃、着替えが何着かと、現金のみの財布だけ。だからこのアタッシュケースが怪しいと、アタシはにらんでる」
「中身を確認してないのか?」
「それがこのカバン、小細工がしてあってさァ……。鑑識がナンバー総当たりで合わせて鍵を解除してはみたんだけど……そしたら開く代わりに、催涙ガスが噴き出してきて。どうも特殊な手順が必要みたい。カラダが憶えてるとかない?」
私物という点で、記憶を取り戻すには打ってつけの材料ではある。あるいは頭が忘れていても、確かにリンダの言うとおり、カラダが憶えているということもありえるだろう。無意識に、脊髄反射で使用法を感じ取れるかもしれない。ケースを手に持ったり、ひっくり返したり、あちこち触ったりしてみる。
突然、底の部分から仕込みナイフが飛び出して来た。トラップではなく、持ち主が使う用の暗器か。
「わかったっ?」
「――いや、まったく。これっぽっちも。今のは偶然」
アタッシュケースを開ける方法についても、しばらく適当にいじっていれば、偶然何とかなる気がしないでもないが、失敗すると催涙ガスが噴出するとなると、あえて挑戦する気にもなれない。「ガスマスクならあるけど?」
「だったらおまえがやれ」
壊して開けるのは問題外だ。爆発物が仕掛けてある可能性もありえなくはないし、何よりせっかくの証拠品を破損させてしまっては元も子もない。
「ようは、中身がわかればいいんだろ――“だが、ああ、なんとつらいことだろう、他人の目をとおしてしあわせをのぞき見るのは!”」
今のおれにはこの右眼――
集中するために左まぶたを閉じて、アタッシュケースを凝視する。徐々に表面が透けてきて、なかの様子が手に取るようにわかってきた。
まず目についたのが、おそらく黄金銃の換装パーツだ。精密狙撃用の長銃身と銃床、弾丸はどういうわけか通常のライフル弾のみで、名刺代わりである純金製の物が1発も見当たらない。免許証が3枚とパスポート5冊、当然偽造だろう。それから100ドル札が数枚、まさかこいつも偽造か? 副大統領暗殺未遂だけでなく、偽札所持までしているとはふてえヤツだ。シークレットサービスにケンカを売ってやがる。
そしてコインが50枚――2セント銅貨だ。アメリカにそんなのあったか? ……いや、違う。こいつはオーストラリアの通貨だ。国名とともにエリザベス2世の刻印も入っている。
「なんだってオーストラリアのカネなんて持ってやがる」
「まァオーストラリアは元イギリス領だし。ウィリー・ヒューズはイギリス人って話だからね」
「だが、別にイギリスで使えるってわけでもないだろ」
「コレクション、とか。それとも験担ぎ?」
本当にそんなくだらない理由か? 何の合理的な意味もなく、こんな奇妙な物を持ち歩いていたっていうのは、どうにも違和感がある。
暗殺を指示した人間がオーストラリア人? 雇い主側との合言葉代わりに使う? あるいはコインの形をした何らかの秘密兵器? どれも突拍子もなさすぎて現実的じゃない。案外コレクションというのが正解なのかもしれない。そのほうがむしろ人間臭くてリアリティがある。
「……しっかし、どうやら雇い主につながりそうな物はなさそうだな。空振りだ」
「まいったね。完全に振り出しかァ……」
これでもはや手がかりは、ウィリー・ヒューズの記憶を残すのみとなった。おれは早々に決意しなければならない。覚悟を固めなければならない。副大統領暗殺に第2の刺客が放たれるなら、猶予は期待できない。
とはいえ、おれが覚悟を決めたとしても、それで都合よく何もかも思い出せるわけではないのだ。ヘスターの診断によると、放っておいたところでそのうち自然に思い出すという話だったが、それが実際どのくらいかかるかはわからない。手遅れになってからでは意味がないのだ。
「……こうなったら、ウィリー・ヒューズの足取りを地道に追うしかない」
「本気? ……だよね。それしかないよね。あ――ア、こりゃア家に帰るどころか、ホントに寝るヒマもなさそう……」
ウィリー・ヒューズの潜伏先を見つけたときは、角膜移植と免疫抑制剤を頼りに探したそうだが、今度は人相も判明しているからいくぶん助かる。ただし捜索範囲、時間と労力は比較にならないだろう。アメリカに入国してからの行動をすべて洗い出さなければならない。
雇い主と国内で接触していてくれれば好都合なのだが、国外での場合は完全にお手上げだ。あとはインターポールと各国の捜査機関にまかせるしかない。あるいはCIAが何とかしてくれれば。
とにかく今は動かなければどうしようもない。こうしているあいだにも、時間は刻一刻と過ぎ去っているのだ。
「とりあえずは空港だ。それからタクシー会社にも。ホテルへ到着するまでの行動をトレースするぞ」
証拠品保管室をあとにして、街へ出ようとするおれたちだったが、そこへ思わぬ来客が現れた。
「――見つけた。ウィリー・ヒューズ」
理知的な雰囲気の女だ。鋭利なカミソリのような近寄りがたい気配を漂わせている。うかつに触れるとケガをする。そういう危険な香り。
こちらの返答も待たず、女は1枚の書類を掲げて告げる。
「私は
そう言うだけ言って、問答無用でおれに手錠をかけようとするのへ、あいだにリンダが割り込む。
「チョット! アンタどういうつもり? ここはアメリカなんだよ。イギリスの警察が何を勝手に――」
「私の言葉が聞こえなかったか? この女には、わが国での殺人の容疑がかかっている。これが身柄引き渡しの書類だ」
「そんな話は聞いてない」
「下っ端が事情を知っていようが知っていまいが、私には関係ない。ごらんのとおり、外務大臣と司法長官のサインもすでにいただいている」
スミス刑事の言葉通り、確かにそこにはアメリカ合衆国外務大臣マイケル・アンドリーニ、司法長官ジェームズ・コンウェイの名がハッキリ記されている。
だがリンダは鼻で笑う。「外務大臣? 司法長官? 誰それ? 知るかっての。こいつを引き渡してほしかったら、シークレットサービス局長フランク・ホリガン、国土安全保障長官スティーブン・ロジャース、それとウォルター・カーツ大統領のサイン持ってきなさいよ」
次の瞬間、引き渡し書類は激しい炎を上げて燃え尽きた。もちろんリンダのしわざだ。いや、さすがにやりすぎだろ。
「……」スミス刑事に動じた様子はない。それとも、今のがどんなトリックか沈思黙考しているのだろうか。
「ていうか、ウィリー・ヒューズは合衆国副大統領暗殺未遂事件の容疑者なんだから。雇い主を逮捕するためにも、まだ引き渡すわけにはいかないの」
「それは妙だな。あなたはそう言うが、この女が容疑者として拘束を受けていたようには見えないが」
「し、司法取引だよ」
本音を言えば、このカラダはウィリー・ヒューズでも、肝心な中身はおれなわけで……引き渡されるのは実際困る。冗談じゃないぜ。このカラダを手に入れたおかげで、おれは九死に一生を得たが、だからと言ってこの女の負債まで背負わされてたまるか。おれはおれの人生を生きる。
もっとも、それをこのイギリス人に説明したところで、理解も納得もされないだろう。しかたがないので、表向きの事情で押し切るしかない。
「……貴国の事情はわかった」スミス刑事は懐から、身柄引き渡し書類の予備を取り出した。「だが、わが国にはわが国の事情がある。えー――」
「クラリス・リンダ・モンターグ捜査官よ」
「モンターグ捜査官、あいにくとこちらに譲歩する気はない。その女はイギリス人であり、イギリス人をイギリス国内で殺害した犯罪者だ。ゆえに、イギリスの法律で裁かれなければならないし、裁かれるべきだ。理解していただけないだろうか?」
「あなたの言うことはもっともだわ、スミス刑事。だけど、こっちだって彼女は重要な手がかりなの。せめてこちらの件が解決するまで待ってもらえない? 何なら手伝ってくれると助かるなァ。上司のほうから正式に捜査協力を要請――」
「面倒だ」スミス刑事はあからさまに舌打ちした。「ひとが下手に出てやればイイ気になって」
「今までの態度で下手のつもりだったのっ!?」
「なるべく穏便に済ませたかったが……しかたない」
不穏な気配にリンダが身構える。いつでも発火能力でスミス刑事を火だるまにできる態勢。実際この状況なら、まともにやり合ってリンダに勝てるヤツはいない。少しでも妙な動きをすれば即、消し炭だ。
一方、スミス刑事は武器――透視で確認したかぎりではピストルが1挺――を抜こうともせず、かといって肉弾戦を仕掛けてくる様子もない。あくまで自然体のまま。しかし強烈な敵意を感じる。
「……アンタ、本当にスコットランド・ヤードの刑事? とりあえずロンドンに身分を照会するから。話はそれから」
「まいったな。そんなことをされたら、偽刑事なのがバレてしまうじゃないか」スミスは悪びれもせず言った。
「やっぱりね。おおかたウィリー・ヒューズの救出か、口封じに来たってとこ? ウィンストニア・スミス、あなたを副大統領暗殺未遂事件の重要参考人として、拘束させてもらうわ。ウィリー・ヒューズとその背後にいる人物に関して、知っていることを洗いざらい吐いてもらう」
「ネズミがいるぞ」スミスの唐突な発言。
「いきなり何?」
「ネズミの大群が押し寄せてくる」
確かに鳴き声を聞いた気がした――瞬間、足下が大量のネズミで埋め尽くされていた。そんなバカなッ! いつのまに? いったいどこから?
「気をつけろ。指をかじられるぞ」
カラダを這い上ってこようとするネズミを、必死に払い落として踏み殺していく。だが、あまりにも数が多すぎてキリがない。どんどん増える。
「しゃらくさい!」だがリンダがネズミをまとめて燃やし尽くした。……いや、炎が出るよりも早く消えていたような? だいたい、肉が焼けたときの臭いがしない。焦げ臭くもなかった。いったい何がどうなっている?
「なるほどさすがは
「――そうか。今のは
「ご名答。超能力者はアメリカの専売特許じゃない」
「でも、アンタの能力はそこまで強くはないでしょ。一級の能力者なら、洗脳に近い形で対象を操れる。さっきみたいに犯罪者の引き渡しで押し問答する必要はなかった。ねえ、図星?」
「なめるなよ。火遊びしか能のない小娘ふぜいが。確かに私は、人間を直接意のままに操ることは得意じゃない。その代わり幻覚を見せることにかけて、イギリス国内で右に出る者はいない」
そうは言っても、心理に働きかけて幻覚を発生させるのは、効率的な方法ではない。特に恐怖心を煽るとなるとよけいだ。現実から乖離させすぎたら上手くいかない。ネズミの幻覚はその点でかなり優秀と言える。現実的に起こりそうな事態ではあるし、ネズミの大群に恐怖を感じない人間はそうそういないだろう。そして、そこが弱点でもある。リンダのように精神力で打ち破ることも可能だからだ。おれもリンダが追い払えると理解したおかげで、幻覚から抜け出すことができた。
強力な殺傷能力を持つ超能力者のリンダを恐怖させるほどの幻覚は、カンタンに生み出せるものではない。現実的な範囲ではなおさらだ。
津波が襲ってくる? 大地震が起こる? ハリケーン発生? リンダを怖がらせたければ、おそらくこのくらいでなければ不可能だ。けれども、それではあまりに現実離れしている。いや、現実には充分起こりえる災害ではあるだろう。天災はいつ起きてもおかしくない。だが人間は楽観的だ。そんなことはあるはずないと思い込んでいる。ほんのひとかけらも危機感なんて抱いていない。だから幻覚にも見ない。
ゆいいつ現実的かつ生活感あふれるなかで、最大の恐怖と言えば火事がそうだろう。しかし当然、
しかしスミスは余裕の笑みを崩さない。「甘いな。ストロベリージャムのように甘い。貴様は強者ゆえに恐怖を感じないと? あまりに傲慢だ」
「そこまでは言わないけど。ただ、ひとよりは肝がすわってるだけ」
「ならば私は問おう。貴様の怖いものはなんだ?」
「今はドーナツが怖いかな。山のようにうず高く積まれてるのを見ると、びびっちゃってオシッコもらしそう」
「だったら、もらしてでも火を消したほうがいい。貴様の本が燃えているぞ。大事な本が」
「エッ? ――あ、ああっ! 本が、アタシの本が、燃えてるぅ。はやく、はやく火を消さないと、全部燃えちゃう。アタシの本が。本がァ」
突然、リンダはまともじゃない様子で、備えつけの消火器を手に取ると、そこらじゅうに消火剤をまき散らし始めた。あっというまに泡だらけになる。
なんだ? 何をしてるんだリンダは。本? 本だって? 本が燃えてる? 本なんてどこにもないのに。
「――スミス、おまえいったい何を」
「何に恐怖を感じるかは、ひとそれぞれだ。完璧な幻覚を見せるためには、それを刺激してやるのが一番いい。トラウマならなおのこと」
「じゃあリンダは今、自分のトラウマを見てるっていうのか」
確かに個々人のトラウマを正確に把握できれば、心理操作の力を最大限発揮できるだろう。しかし、なぜこいつがリンダの個人的なトラウマを知っている? 経歴を調べ上げるのとはわけが違う。いったいどうやって――
「カンタンだ。本人に教えてもらったのさ」
「だが、リンダはおまえの質問に答えてない」
「口では、な……。しかし言葉には出さずとも、心では答えていた。無意識のうちに、その記憶を蘇らせてしまった。私にはそれで充分だ」
「……まさか」
「そうとも。私は
超能力がひとりにつきひとつとはかぎらない。そんなルールが確立されているわけじゃない。いや、そういえばヘスターが言っていた。心理操作は精神感応の派生だと。なら、そこまでありえない話でもないか。
「このクソアマ……心が読めるんだったら、当然こっちの事情は全部わかってるってことだよな」
「記憶喪失で助かったぞ。おそらくウィリー・ヒューズは、私の能力のことを知っているはずだからな。そこが最大のネックだったんだが、おかげで手間が省けた」
「おまえは何者なんだ?」
「教えてやる義理はない。知りたければ自分で思い出してみるといい。もっとも、そうなったらこちらは何の後腐れもなく、貴様を逮捕できるわけだが」
「冗談じゃないぜ。おれはウィリー・ヒューズなんて殺し屋じゃない。おれはシークレットサービス捜査官の、ヘンリー・ケイスだ。それ以外の何者でもない」
「私の知ったことではないな」
「おれだってそっちの事情なんか知るか。おれは何も知らない。何も憶えてない。だから好きにさせてもらう」
おれは記憶喪失だ。今はその事実が有利に働く。幻覚を見せようにも、おれは自分の怖いものなんて憶えていない。ゆいいつ恐怖を感じるとすれば、自分が自分でなくなってしまうことだが、いったいそいつをどうやって幻覚で見せる? 少なくとも想像がつかないということは、それだけ難しいはずだ。さっきのネズミ程度の幻覚なら、タネがわかった以上気合で何とかしてみせる。
となると、問題はどうやってスミスを倒すかだが……。思考を読まれるなら、何を仕掛けても避けられてしまうし、そもそも今こうして考えていることもすべて筒抜けになっている。さて、どうしたものか……。
「ずいぶんと楽観的じゃアないか。この私に勝てる気でいるとは」
「なに、やってみなきゃアわからないさ」
「残念だが、おまえの見込みは甘い。おまえは正しく理解していないだけだ。自分がもっとも恐怖していることが何なのか。……ところで、その腹はどうした?」
「ハァ?」しくじった。自分の腹を見下ろした時点で、完全にヤツの術中にはまってしまったのだ。
いつのまにか、少し太ったような――いや、気のせいじゃない。明らかに腹が大きくなっている。膨らんでいる。だが、そんなすぐに太るはずがない。
これは幻覚だ。しかし、なぜだ? おれは太ることを怖れていたっていうのか? そんなはずはない。そんなことは考えもしなかった。
そうこうしているうちに、みるみる腹が膨らんでいく。パンパンに膨らむ。まるで風船のようだ。
――違う。これは違う。太っているんじゃない。
嫌な予感が頭をよぎる。すると、ますます腹が膨らむ。
ダメだ。考えるな。考えれば考えるほど幻覚に囚われる。考えるのをやめろ。
「ムダだムダムダ。“人間は考える葦”“ワレ惟ウ、故ニワレ在リ”思考こそが人間の証明、思考し続けることのみがこの宇宙でおのれの実在を証明する。思考を停止することなど人間にはできない。人間は奴隷になれるが、石にも獣にもなれはしないんだよ。あきらめて悪夢に身をゆだねろ」
嫌だ。違う、おれは――おれは男だ。
男は、妊娠なんてしない。
内側から、腹を蹴りつけられる。強く蹴ってくる。早く外に出たいと訴えている。ふざけろ。冗談じゃない。おれに寄生して栄養を掠め取っている盗っ人の分際で。おまえなんか死ね。そのままそこで死んじまえ。
自分の腹を拳で殴りつける。何度も何度も殴って殴って殴り続ける。すると腹のなかにいるヤツはさらに強く蹴り返してくる。腹もますます大きくなる。
激しい痛みが走った。腹が破れて、勢いよく血が噴き出している。おれは激痛と失血の虚脱感で床に崩れ落ちた。
破れた腹から這い出して、そいつが顔を出す。こちらの顔を見上げて、ニッコリと無邪気に笑っている。
――ばぶー。
「あ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――っ!!」
おれは絶叫しながら、その赤ん坊をぶん殴った。頭蓋骨が割れて脳漿が飛び散る。死体を引きずり出して、一心不乱に踏みつける。原型をとどめなくなるまで。汚い床のしみになるまで。
しかし、ふと気がつくと、また腹が膨らんでいる。ふさがっていない傷口からだけじゃなくて、産道を通って膣口から、クソみたいに尻の穴から、ゲロみたいに口から、眼球を押し出して、鼓膜を破って、鼻の穴をムリヤリ広げて、どんどん這い出してくる。害虫のように何匹も。湧いて出てくる。
汚い、汚い! おれをママと呼ぶな。おれがひり出したクソの分際で、いっぱしに人間のようなクチを利くな。気持ち悪いんだよ。吐き気がする。
いくら殺しても産まれてくる。ただ殺すだけじゃダメだ。食ってしまえ。食い殺してしまえ。粉々に噛み砕いて消化液で単なるアミノ酸になるまで分解してやればいい。もちろんクソ不味いから何度も吐いてしまうが頑張って呑み込む。そうやって最終的に出てきたクソは結局また赤ん坊だったから食って吐いて食って消化して排泄して食って吐いて消化して排泄して食って吐いて食って消化して排泄して食って吐いて――
「――そこまでだ! 008!」
鳴り響く銃声で、唐突に現実へと引き戻される。
……おれは、今で何をやっていたんだ? 気がつくと腕じゅうが血まみれになっていて、服やら床やらあちこちゲロで汚れている。それからこの、下半身の不快な感覚は――いや、これ以上考えるのはやめよう。みじめになるだけだ。
リンダも正気に戻ったようで、わけがわからず呆けている様子だが、新たな闖入者の存在に気づいて、声をかける。「フェリシア、どうしてここに?」
スミスもまたその女の名を呼ぶ。ただし苛立たしげな声で、「フェリシア・ライター……CIAがいったい何のつもりだ? 邪魔をするな」
「それはこっちのセリフだよ、008――いやウィンストニア。ジェームズもおまえさんも、ひとの国で好き勝手しすぎだ。もっとも、ジェームズだってここまでムチャなことはしないが」
「あんな女好きのロクデナシと比べられるとは心外だ」
「いかんね。仮にも上司をロクデナシ呼ばわりとは感心しないな。あいつも今や新たなMとして、イギリス情報部を取り仕切ってるってのに」
「私はあの男をMとは認めていない」
「008は感情や直感に左右されず任務をこなすヤツだと聞いていたんだがね……まァいいさ。とにかくそのジェームズからの伝言だ。シークレットサービスと連携して捜査に当たれ。協力を惜しむな」
「嫌だ、と言ったら?」
「00要員から外した上、殺しのライセンスを剥奪するそうだ」
ウィンストニアは忌々しげに舌打ちして、「了解したと007に伝えろ。帰国したら覚悟しろ、ともな」
「前言撤回。やっぱりおまえさんは評判のとおりだった」フェリシアは苦笑して、「これがジェームズだったら、間違いなく命令無視して突っ走ってたよ」
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