010
――翌日、その女はやって来た。
「事前に伝えておいたとおりだよ。今見せて来た脳死になったほうは、精神がお留守の抜けがら。ケイスはこっちのプレイメイト・オブ・ザ・マンス」
「あらあら、まァまァ――ケイス、またずいぶんとかわいらしくなってしまったものねェ。グレース・ケリーみたい。さすがのわたしもびっくりなのだわ」
「……一応紹介するよケイス。彼女は精神科医のヘスター・モフェット。アタシらの大学時代の同期でもある」
「同期だなんて、水臭い言い方をするものではないわクラリス。わたしたち、親友でしょう? 日本風に言うと、同じ釜の飯を食べた仲」
「アタシと、アンタが、いつ親友になったって? アタシはケイスの親友で、アンタはケイスの友達ってだけ。それと、アタシのことはリンダと呼べって何度も言ってるでしょ」
「そうカッカしないでクラリス」
「だからァ、クラリスって言うなァ」
「リンダは母親の名前でしょう。だいたいリンダなんて頭の悪そうな名前は、あなたに似合わない」
「悪かったわね、頭が悪そうで。頭の悪いアタシにはリンダがお似合いなの。クラリスなんて上品な名前は嫌なの。そう呼ばれるだけで全身むずがゆくなるの」
「まァあなたがそこまで言うならいいけれど。ところでクラリス」
「アンタはホントにもう――」
「チョット部屋から出てってくれないかしら? 彼とふたりっきりで話がしたいから。ていうか邪魔」
「はァ? 誰がアンタとケイスをふたりっきりにするかっての」
ヘスターはわざとらしく肩をすくめて、「やれやれ、わかってないわね。診察はとてもプライベートなことよ。精神科だと特にそう。わたしには患者のプライバシーを守る義務がある。たとえシークレットサービスの捜査官といえども、無遠慮に踏み込むことは許されない。おわかり?」
「ぐぬぬ……」
記憶がないのでわからないが、きっとこの女たちは顔を合わせるたび、こういう不毛なやりとりをくり返してきたんだろうなって気がする。
去り際にリンダがおれの耳元でささやいた。「気をつけてねケイス。その女は魔女だから。ホントなら火あぶりになってるはずのね。油断してると頭から食べられちゃうよ」
美女になら食われてもいいけどな。頭じゃなくて股からだが。もっとも、おれの特製フランクフルトはとっくに食われてなくなっちまったが。
リンダがしぶしぶといった様子で出ていくと、ヘスターは妖しく微笑んで言った。「ようやくふたりっきりになれたわね。うれしいわケイス」
一言で表現するなら、貴族みたいな女だ。どことなく気品が漂う、淑女のなかの淑女。ティータイムは欠かせない。着ている物はドレスではなく白衣だが。顔面に張りついた、人を食ったような笑みさえ優雅に見える。
しかしその印象とは裏腹に、口から垂れ流す言葉はメチャクチャだ。
「記憶喪失といっても、いくつか種類があるわ。あなたのようなタイプは全生活史健忘といって、まァ万人が記憶喪失と聞いて思い描く通りのものね。知識のたぐいはすべて憶えているけれど、自分の人生に関わる部分だけ綺麗サッパリ忘れてしまうという、御都合主義。おもしろくも何ともない」
「だったらおもしろい記憶喪失ってなんだよ」
「例えば記憶が部分的に抜けるタイプ。おもにショッキングな出来事が原因で、トラウマに関わることを忘却する。かのフロイトも、人間は嫌なことを都合よく忘れると言っているわね。それから、何年か分の記憶がごっそり抜け落ちるタイプ。忘れた期間によっては、幼児退行を併発することもあったり。これは認知症にもよく見られるケースね。大の男が自分の娘をママと信じ込んですがりつく姿なんか見物だわ。さらに特殊なのは、記憶が蓄積できなくなるタイプ。1日ごとに記憶がリセットされて、歳月が経つごとに自分と世界の時間がズレていく――。ああ、素敵っ! ひとと違う時間を生きることができるなんて。この現代社会では不可能に近いわ」
「“いや、そうではない、時はそれぞれの人によってそれぞれの速さで歩むものです。”とも言うけどな」
「“この森には時計がないので。”あなたが森に棲む
……正直、女のツラをぶん殴りたいと思ったのは、これが生まれて初めてだ。本当に初めてかどうかは憶えていないわけだが。とにかくリンダの気持ちが理解できてきた気がする。
「まァ、記憶喪失自体はいたって平凡そのものだけれど、あなたの場合はそれに付随して、精神の入れ替わりまで起きた。実に興味深いわ」
「だったら最初からそう言え」
「何が興味深いって、これが人類長年の課題、
「精神の証明? おいおい、そんなのはおれが
「いいえ。そもそもわたしはあなたの超能力が幽体離脱だなんて、これっぽっちも信じていなかったわ」
「信じるも信じないも、実際おれは精神だけで活動してたじゃねえか。……まァおれ自身はまったく憶えてないが」
「でも、それはあなたの主観なのだわ。客観的には、誰もあなたの精神を観測したわけじゃアない」
「現に
「はたして、それは本当に憑依していたのかしら」
こちらの言い分を、根底を真っ向からひっくり返し、否定してくるヘスターの物言いに、おれは言葉を失った。
ワケがワカラナイ。こいつは何を言おうとしているんだ?
「超能力というのは、突き詰めてしまえば4種類しかないと言えるわ。念動力、精神感応、透視、瞬間移動の4つ。それ以外の能力はすべてこの派生でしかない。例えば発火能力は念動力が原子の振動に作用することで起こる。心理操作、幻覚を見せる能力なんかは精神感応のハイグレード、相手の思考を読むだけじゃなくて直接思考に働きかける。予知能力は透視が空間を透かし見るのに対して、時間を透かし見る。瞬間移動と時間跳躍の関係も同じ」
「……透明人間はどうなんだ?」
「透明人間は少し難しいけれど、おそらく心理操作で周囲に認識されないよう働きかけているといったところかしら。もしくは他者の力を増幅し、自分のカラダが透視されるようにしている。そして幽体離脱は、念動力・精神感応・透視の3つを複合したもの。壁をすり抜けるのは透視だし、感覚共有は精神感応の延長、身体を操るのは念動力。
「おいおい、チョット待ってくれ。それじゃア今のおれの状態はなんだ? あの脳死状態の肉体を捨てて、この女の肉体に憑依してるんじゃないのか?」
「ええ、そうね。だから今話した仮説は、すべて間違いだったというわけ。だから忘れてくれてかまわないわ」
アタマの血管が切れる音を聞いた。「こンのクソアマぁ――」
やめろ。やめるんだ、おれ。耐えるんだ、おれ。女を殴るなんて、男のすることじゃアない。このカラダで殴れば、その時点でおれはもう男じゃない。ただのヒステリックな女だ。たとえカラダは女だろうと、心まで女になってたまるか。
「では、今回の出来事が精神という存在について投げかけた、新たな謎のことを考えていきましょう」
「……待てよ。おい、ヘスター。おれの記憶が正しければ、おまえはおれの記憶を取り戻させるために呼ばれたんじゃアなかったか? それがなんで哲学的な議論をしなきゃならない」
ヘスターは口もとを手で押さえて、「記憶喪失なのに、記憶が正しければ、ですって――くくっ、記憶喪失なのにっ――アハアハアハ!」
「いいかげんにしろよてめえコラぶっ飛ばすぞ」
「ごめんなさい。でもこっちはあなたが理解しやすいように、順を追って説明しているつもりなのだけれど。せっかちは女性に嫌われるわ」
「あいにくだが、おれはおまえを女とは思わないことにした」
「あら残念。以前のケイスと同じことを言うのね。まァそんなに心配しなくても、精神科医としての仕事はチャントするから安心しなさい」
「本当だろうな?」
「ぐだぐだ文句ばかり。女々しくて男らしくないわね」
「うぐっ」
こっちの痛いところを、何とも的確に突いてきやがる。この女、ひとの心が読めるんじゃないのか? もしかしてこいつも超能力者なんじゃ――
「精神科医なら、この程度の心理を読むくらい造作もないわ。……ところで、さっきまで何の話をしていたのだったかしら。うっかり忘れて――いえ、記憶喪失になってしまったみたい」
「頼むから、まじめにやってくれ……」
「そうね。『まじめが肝心』だものね」
こいつ絶対まじめにやる気ないだろ。ふざけやがって。
「ケイスは肉体から離脱して、精神だけで活動することができた。けれど、そもそも精神とは何だと思う?」
「何、って……魂とか、心とか……」
「ほかには人格や意識とも言い換えられるわね。単語自体の意味合いはそれぞれ微妙に違うけれど、面倒だからこの場では同じものとみなすわ。質問をもう少しわかりやすく言い直しましょうか。例えば
「それは、そうなんじゃないのか。そういうものじゃアないのか。肉体を抜け出た精神ってのは」
「では、肉体とは何?」
やはり煙に巻かれているだけのような気がするが、まじめが肝心という言葉を信じる。というか、これ以上文句を言っても話の腰を折るどころか、男を下げるだけだろう。素直に答えを考える。
「肉体は……精神の入れ物、じゃないのか」
精神というものが存在するならば、それは自己という存在の本体にほかならない。だったら肉体はしょせんその容器にすぎないだろう。ゆえに肉体が滅びても、精神は永遠に不滅なのだ。
「肉体は魂の牢獄――まさしく今のあなたの心境そのものというわけね」
「だってそうだろ」
「けれど、そうなると肉体は何のためにあるのかしら」
「何のため?」
「肉体の役割、機能、必要性。精神だけの状態が完全だとすれば、なぜ精神は肉体に囚われているの?」
「それが知りたきゃ聖書を読んだほうがいいと思うぜ」
「旧約にも新約にもその答えは記されていないわよ。キリスト教が本来説いているのは肉体の復活であって、心身二元論はギリシャ哲学の領域だもの」
「そうなのか?」
ハムレットには父王の
「ケイスだったら知らなくて当然ね。彼、懺悔するとしたらもうずっと教会で懺悔してないことだって言っていたから」
ならこんな目にあったのも天罰ってわけだ。くたばれジーザス。
「あなたの考えている精神は、言ってみれば肉体からそのまま実体をなくしたものよ。ようするに虚像のようなもの」
「別に手も脚も備わってるとは言わないさ。だいたい実体がないんだから物体に触れないし――触れないからこそ壁をすり抜けられるわけだが――浮いているんだから歩くための脚もいらない。おれがイメージしているのは、どっちかっていうと東洋の伝承にあるヒトダマみたいなカンジだ」
「そういうことなら説明もしやすいわ。触らないから手はいらない。浮いているから脚はいらない。逆に言えば、触るためには手が必要だし、歩くためには脚が必要。この世界に干渉するには肉体が必要不可欠なの。実際、ケイスは幽体離脱しているあいだ声を発することができないから、しゃべりたければ自分の肉体に戻るか、他者の肉体に憑依しなければならなかった」
「……なんていうか、それって言うまでもなくアタリマエのことじゃないのか? 別に、今さら確認するほどのことでもないっていうか……」
「肉体に備わっているものが、精神には備わっていない。手もなければ足もない。だったら、脳髄という神経系の中枢を持たない精神が、いったいどうやってものを考えているのかしら?」
「あァ? そりゃアおまえ……」
脳がないのにどうやってものを考えるのか――あらためて問われてみると、何だかおかしい気がしてきた。手がないので触れない。脚がないので歩けない。だったら脳がなければ、考えられなくて当然だろう。
……いや、本当にそうか? 脳が思考するための器官で、精神には脳がないから、精神は思考できない? その答えは単純明快なようでいて、どこか奇妙な違和感がある……堂々巡りをしているような薄気味悪さ……。
「――ってそうだよ。考えるも何もない。そもそも精神ってのはイコール思考そのものだろ。今おまえがした質問は、なぜ死体が死んでいられるのかって訊くのと同じだ。死体だから死んでいるんじゃない、死んでいるから死体なんだよ。思考しているから、そこに精神が存在する」
「
「デカルトか」
「パスカルも似たようなことを言っているわね。“こうして、いかなる意味でも物体が思考するとは考えられないのだから、わたしたちのうちにあるすべての種類の思考は精神に属するとみなして正しい。”」
「しかし、精神がそういうものなら、肉体での居場所はやっぱり脳ってことになるんだろうな」
そう考えれば、今のおれの状況にも納得がいく。透視にとっての眼がそうであるように、超能力は肉体のどこかしらの部位に依存する。脳が精神の在処なら、幽体離脱を制御する器官もまた脳と見ていいだろう。だから脳死になったおれの肉体と、おれの精神がつながりを断たれてしまい、この女の肉体に閉じ込められたというわけだ。
「それは違うわ」しかしヘスターはハッキリ否定した。「脳が幽体離脱を制御していたという説には同意するけれど、精神の座が脳という考えには頷けない」
「いや、だっておまえが言ったんだろ。脳が思考を中枢してるって」
「わたしは脳が神経系の中枢と言っただけ。デカルトも言っているわ。“精神は真に身体全体に結合していること、精神が身体のある部分にあって他の部分にないというのは正しくないこと。理由のひとつは、身体は一つであり、ある意味で不可分であるからだ。身体の諸器官は、どれか一つが除かれると全身に欠陥をきたすほど、器官相互に密接につながり、配備されているためである。もう一つの理由は、精神の本性が、身体をなしている物質の、拡がりにも、次元にも、他の特性にも、まったく関わらず、ただ身体諸器官の総体にのみ関わるからだ。これは次のことから示されている。精神の半分とか三分の一とか、精神がどれくらいの拡がりを占めるか、と考えることはまったくできないし、身体の一部を取り除いても精神はそのために小さくなることはなく、身体諸器官の総体が解体されれば精神は完全に身体から離れてしまう。”まァデカルトも、精神が脳には特に強く機能しているとは言っているのだけれど」
女の小さな口からスラスラと、よどみなく流れ出てくるデカルトの主張に、おれは圧倒されざるをえなかった。デカルトだけじゃない。パスカルもだ。まるでその場で本を読み上げているかのような流暢さ。いったいどういう記憶力をしてるんだよ。もしかして超能力のたぐいか?
「わたしは超能力者じゃないわ。ただ、チョット特殊な記憶術を使っているだけ。頭のなかに宮殿を想像して、そこに記憶したいものを保管していくの。慣れてくれば、一度読んだ本を好きなときに読み直すこともできる。クラリスはわたしを書物人間なんて呼ぶけれど、別に書物には限らない。映画も、音楽も、美術品も、高級フレンチも、一度記憶したものなら、宮殿へ行けばわたしはいつでも好きなだけ愉しめる」
「
「
「記憶力には自信があるんだろ。おれと違って」
「それもそうね。デカルトが言うには、精神は脳に依存しない。でも、これって本当だと思う?」
「いや、本当も何も――だから、おまえがそう言ったんだろ」
「言ったのはデカルトであって、わたしじゃない。もちろん精神が脳に宿るという考えには同意しないわ。“脳髄は物を考える処に非ず”よ。現代科学は様々な状況での神経細胞の活動を観察して、それが明らかに思考と連動していることを理由に、脳を精神の座だとする向きがあるわね。けれど、そんなのはある地点が爆発したとき、そこの地面に地雷が埋まっていたのだと言い張るようなもの。本当は誰かが手榴弾を投げたのかもしれないし、ミサイルがどこかから飛んできたのかもしれないのに」
「それならおまえは、やっぱりデカルトと同じ意見ってことじゃないのか。脳が精神の座じゃないっていうなら」
「いいえ。違うわ。わたしは肉体がなくても精神は完全だなんて、そんな傲慢なことは言わない。だったら、肉体は何のために存在するというの? 神経細胞を走る電気信号が、単に精神活動の足跡に過ぎないとでも? わたしは否定する。肉体と精神は光と影、陰と陽。どちらか片方だけじゃダメだわ。ふたつが合わさって初めて完全になれる。――わたしは肉体と精神との関係を、牧羊犬と飼い主のように捉えているの。飼い主がしつけなければ、牧羊犬は羊たちを追い立てることができない。牧羊犬がいなければ、飼い主は羊たちを柵のなかへ戻せない」
「……そいつはどうだか。牧羊犬なしで非効率だろうと、飼い主は羊たちを柵のなかへ追い込めるし、飼い主のいない牧羊犬は、好きなように羊たちを食い殺せる」
会話のイニシアチブを握られていることに苛立ちを覚えてきたせいもあり、ひねくれた返しで、このいけすかない女を動揺させられないか期待したのだが、
「ええ。だからわたしは肉体を道具には例えなかった。肉体は
むしろ逆ならわかる。精神と肉体が相互に依存し合っているというなら。気分が悪いと体調まで悪くなるし、体調が悪いと気分まで悪くなる。そういう意味ではデカルトの主張は的外れだ。ヘスターの言うことも荒唐無稽にさえ感じる。
「その言い方だと、精神がなくても肉体は自由に動けるって聞こえるぜ」
「イエス。逆に尋ねるけれど、なぜ精神のない肉体が動けないと?」
「なぜ? 精神は人間の思考だ。意識だ。それが宿っていない肉体が、どうして動けるっていうんだ」
「意識不明を、意識が存在しないように捉えるのは厳密ではないけれど。……なら、あなたという精神が去って抜け殻となり、あまつさえ脳死状態まで陥った肉体が、まったく動けないように見えた?」
「……あんなの、たとえ精神が入ってたって動けないだろ。思考とは無関係に、脳の運動を制御している部分がやられちまってるんだから」
「脳死判定を見学してないの?」
「ああ」ヘスターが来るまでのあいだに、医者たちの手で脳死判定が行われたらしい。そのことは終わったあとで知らされた。いわく、間違いなく脳死だそうだ。その診断が正しいことを祈る。
「そう……。それなら、臓器摘出手術は見学させてもらうといいわ」
おれの腹を切り裂いて中身を取り出すところなんて、気持ち悪いことこの上ないが、そういうチャンスは滅多にないだろう。「まァ、考えとく」
「哲学的ゾンビは知っているかしら」
「哲学者がゾンビになったヤツか? プラトンのゾンビは強そうだ」
「違うわ。説明が面倒だから有り体にいうと、精神のない人間のこと。あるいはプログラムで動くロボットみたいなものを想像してみるといいかもしれない。どんなに人間らしく振る舞って、傍目にはまったく遜色なかったとしても、それはただの精巧な機械仕掛け。あらかじめ決められた動きをするたけの人形に過ぎない」
「……イマイチよくわからん」
「人間以外の生物に、精神はあると思う?」
「おれは人間が霊長類の頂点だなんて傲慢なことを言うつもりもない。別にほかの動物に精神があってもいいと思うぜ」
「それなら、動物に精神の存在を感じるとき、その根拠は何?」
そう問われて、どう答えるべきか迷ってしまった。具体的な場面はいくらでも思いつく。辛いときに慰めてくれた気がした、その瞳に意思を感じた、こちらの考えを理解しているような気がした――どれもこれも、人間らしいしぐさに過ぎない。結局は擬人化して考えなければ、精神というものを認めることができないのだ。
しかもそういった認識は、おれから見てそういうふうに感じたというだけだ。そんなものは何の根拠にもならない。動物が自分には精神があると直接口に出したわけではない。いや、たとえそう口に出したとして、その言葉を信用する根拠はない。嘘をついているかもしれないからだ。
そして、それは動物にかぎったことなのだろうか?
「今あなたが不気味さを感じられたのなら、哲学的ゾンビがどういうものか理解したということよ。ところで、自分で気づいていた? わたしは人間以外の生物に精神があるかと訊いたのに、あなたは動物に限定して植物を除外した。植物にだって精神の存在を感じる人間は少なからずいる。いえ、生物とさえかぎらない。人間は無機物にさえ、精神を見出すことができる。アンドロイド相手ならなおさらね」
「……けど、人間は特別だ。精神のない人間なんて考えられない」
さっき自分が言ったこととは明らかに矛盾しているが、傲慢きわまりない物言いだが、おれはそう答えざるをえなかった。そう答えさせられた。
「パスカルは言ったわ。“私は手もなく足もなく頭もない人間を考えることができる、なぜなら頭は足より必要であるということを我々に教えてくれるものは、経験にすぎない。しかし私は思考を持たぬ人間を考えることはできない。それは石か獣であろう。”“思考に人間の偉大さがある。”デカルトとパスカルの大きな違いはここにある。“しかしそのすぐ後で次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。”デカルトは、自分の精神以外の実在を信じなかった。信じられなかった。だってそんな証拠はどこにもないのだから。ただ人間というだけで、自分以外の人間に精神があるとはかぎらない。“語りえぬものには、沈黙するしかない”のよ」
「その理屈で言えば、おまえも精神を持ってないかもしれないな」
「でも、あなたには間違いなく精神がある。そうでなければ、別の肉体に移るなんて不可能だもの」
「だったらおまえは、おれとおまえ以外の人間が哲学的ゾンビだとでも思ってるのか? ほかにはこの世界の何ひとつ信じられないって?」
「カンチガイしないで。わたしは精神なんて、そう特別なものと思っていない。石にも獣にも精神は存在しえると、わたしは考えている。というより、石も獣も人間も、しょせんは原子の集合だわ。違いなんてない」
暴論だ。こちらの言うことを否定しながら話を進めてはいたが、ここにきて自分が語ってきた言葉まで、まるごとひっくり返すような物言い。これまでの時間はいったい何だったんだ。やっぱりおれはおちょくられていたのか?
「日本では付喪神といって、長い時を経た物には魂が宿るとされているわ。一方で日本のことわざには“三つ子の魂百まで”とある。ようするに、人間であっても産まれてすぐは精神を持たないということ。肉体の成長とともに、精神も形作られていくのよ。型に流し込まれたプディングが固まっていくように」
「それはおまえが勝手に言ってるだけだろ。実際に精神がそういうものだって証拠はどこにもない」
「そうね。でもこの仮説が一番、今のあなたの状態を理解しやすいのも事実だわ。――ねえ、あなたは記憶喪失は、本当に頭を打ったのが原因?」
「それ以外に何があるって?」
「今の言い方は語弊があったわね。別に頭部への衝撃そのものは、記憶喪失の典型的な原因だし、あなたにとっても無関係とは言えない。だけどあなたの場合、頭を打ったことよりも考慮すべき点が、ほかにあるとは思わない?」
「憑依中に本体が脳死したショックが原因だっていうのか?」
「いいえ。もっと根本的なこと。精神は魂であり、思考であり、心であり、意識であり、人格でもある。けれど、はたして肉体に備わっていると現代科学が想定している機能のうち、いったいどの程度が精神に由来するのかしら。例えば、記憶を蓄積するのは脳? それとも精神? 手がないから物に触れられず、脚がないから地面を歩けない精神が、脳を持たないがゆえに記憶を保持できないとしたら」
この女が長々と語って来たことの意味が、ようやくつかめた気がした。ようするに、ヘスターは精神の可能性を疑っているのだ。この世の何よりも疑いえない、信じざるをえない存在である自己の精神の能力を疑っている。限界を見極めようとしている。しかしこの女は気づいているのか? 精神でもって精神を疑うことの不毛さを。だからこそデカルトは精神に対して白旗を挙げ、実在を認めるしかなかったというのに。
だいたい、ヘスターの仮説には矛盾がある。
「いや、だって、おれは確かに記憶喪失だが、自分のことなんて何ひとつ憶えていないが、それでも自分が男だってことは、チャント憶えているんだぜ?」
「だからこそよ」ヘスターはおれの指摘をアッサリ否定した。「あなたは生まれてからずっと、男の肉体で生きてきた。型に流し込まれたプディングはしっかり固まっている。それが突然別の型に――女の肉体に詰め込まれたら、違和感を感じるに決まっているでしょう。記憶喪失の原因は、本体とのつながりが断たれてしまって、記憶を引き出せなくなったからと考えたほうが妥当じゃない? あるいは、精神にも最低限のアイデンティティを維持するための、多少の
なるほど、理屈はわかる。筋は通っていると思う。ゆえに否定したくても否定できない。理解せざるをえない。
しかしそうなると、新たな問題が浮かび上がってくる。
「……チョット待て。おまえの言うことがもし事実だとしたら、おれはどうやって記憶を取り戻せばいい? おれの記憶は、もとの肉体の脳に蓄積されているんだろ。だったらいくら思い出そうとしたって」
「今のあなたはウィリー・ヒューズの肉体に宿って、ウィリー・ヒューズの脳を使っているわ。当然、そこから引き出されるのはあなたの記憶ではなく、ウィリー・ヒューズの記憶ということになるでしょうね。かつて他者の肉体に憑依して、記憶を盗み出していたときと同じように」
「…………」
何とも釈然としない。身に覚えのない借金の取り立てを受けた気分。自業自得だとでも言うつもりかよジーザス? 冗談じゃない。冗談じゃないぜチクショウ!
不幸中の幸いは、記憶を取り戻すことが捜査に役立つことは変わりないことくらいか。むしろウィリー・ヒューズ自身の記憶を思い出せるなら、おれが盗み出した断片よりも、情報としてはるかに価値がある。
……なァに、例えるなら前世の記憶みたいなもんだろ。今世の記憶を取り戻せないのは残念だが、このまま記憶喪失のままよりは、役に立つ情報が手に入るほうがまだマシだ。
「話はわかった。そういうことなら仕方がない。こんな理不尽に心底腹が立つのは確かだが、神を何度呪っても気が済まないに違いないが、それでも納得するしかないってことは理解できた。――で、肝心の記憶を取り戻す方法は? いいかげんもったいぶるのはやめて、さっさと教えろ」
「覚悟は出来た、と判断してかまわないのかしら」
「覚悟?」その言葉が適切には思えなかった。この状況で必要なのは、覚悟というより妥協だろう。生きているだけでも儲けものだと、現実に妥協して受け入れること。どんなに祈っても、もうかつての自分には戻れないのだから。
「その様子だと、どうやらまだ理解できていないようね……」
「おまえの小難しい話を全部理解しろってのがムリな話だ」
「わかってないわね。今の記憶喪失でまっさらな状態のところに、他者の全記憶が流れ込んできたら、どうなってしまうと思う? 本来は男であることから違和感なんて、やわらかいプディングみたいなもの。型に合わせて容易に変形する。ウィリー・ヒューズとしての記憶を取り戻したとき、あなたの精神に残ったアイデンティティが残っていられる保証はどこにもない。だからそうなれば、あなたはウィリー・ヒューズになってしまうかもしれない。冷酷非情な殺し屋に」
「……まっさかァ」笑い飛ばそうとして、上手くいかなかった。
カラダが別人になっただけじゃ飽き足らず、ココロまで別人になるって? そうなったときのことが想像もつかない。それはホントにおれのなのか? いや、真の意味でおれじゃアなくなるのだ。おれという存在はこの世から消えてなくなる。ようするに今度こそ死ぬってことだろう。
「もちろん、かつての記憶は失ってしまったけれど、あなたには目覚めてからの記憶がある。自分が自分だということを知っている。ウィリー・ヒューズの記憶を思い出したからといって、その記憶まで失うわけじゃないわ。だから必ずしも、今言ったようなことになるとはかぎらない。可能性は五分五分といったところかしら。あくまで最悪の場合の話。ただし、最初に教えた通り、あなたのタイプの記憶喪失は軽度な部類なの。積極的に記憶を取り戻そうとしなくても、大半は次第に回復していくケースが多い」
「つまり?」
「おそらく猶予はそれほど長くないでしょうね。できるだけ早く覚悟を決めることをオススメするわ」
心臓の鼓動が急激に早まるのを感じた。残り時間がどんどんなくなっていく。
チクタク、チクタク、チクタク――
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