005
大学の同期に、ヘスター・モフェットという女がいる。この女ときたらかなりの変人だった。医学部のくせして愛読書が『金枝篇』だと言えば理解できるだろうか。単位とは無関係に、趣味でフレーザー流の人類学研究をしていたほどだ。
とはいえ、その興味は医学にまったく無関係というわけでもなかった。例えば彼女はこんなことを話していた。「ジャック・アタリいわく、カニバリズムというのは時に医療目的で行われていたそうよ。原始社会において、病気とは死者の魂が悪さをすることで、その対抗策としてその屍を食べたの。そうして魂は本体へ戻れなくなり、かつその屍ごと死者の力を奪い取る意味合いもあった。こういう共感呪術はごくありふれているわ。脚の速い人間の肉を食べれば脚が速くなる、とか」
「だったら、例えばおれの脳を食ったヤツは、幽体離脱できるようになるのか」
「どうかしら。仮に上手くいくとしても、部位は脳じゃなくて心臓かもしれない。あるいは肝臓かもしれないわ。ところで、アタリは著書で移植手術を現代のカニバリズムと評しているけれど、移植もカニバリズムと同じく、古くから共感呪術的な捉えられ方をしているのよね。というか速い脚を食べて消化するより。直接挿げ替えたほうが手っ取り早そうだと思わない?」
透明人間から剥いだ皮を被れば、透明になれる。ただし、被っているかぎり外の様子は見えない。
だが透視能力があれば話は別だ。問題は解決する。
では、ウィリー・ヒューズは透視能力者なのか? 答えはおそらくノーだ。ゆえに透視能力者であるメアリーを殺し、その眼球を奪った。
――そう、透明人間の皮を加工して光学迷彩が作れるのなら、透視能力者の角膜を移植して能力が使えるようになるとしても、なんら不思議ではない。本来のパフォーマンスを発揮できるとは思えないが、この場合、かぶった皮1枚透かせればそれで充分役に立つのだ。
そして、この角膜移植という手段は、もうひとつの疑問を氷解させる。ターゲットを警戒させかねないリスクを冒してまで、メアリーを殺害したのはなぜか。言い換えれば、暗殺決行の土壇場といってもいいタイミングに、透視能力者の眼球を回収しなければならなかったのか。
「カンタンなことだ。それまで使ってた角膜が、突然ダメになったんだ」
移植片は免疫に異物と判断され、排除されてしまう。つまりは拒絶反応。一卵性双生児かクローンのものでもないかぎり、素直に受け入れることはまずありえない。免疫型の適応度合によって、多少は抑制できなくもないが、それでも完璧にはほど遠い。むしろ焼け石に水、付け焼刃と言っても過言ではない。
ゆえに移植手術の成功率は、免疫抑制剤の開発によって、ようやく実用に耐えるようになった。しかしこの免疫抑制剤には強い副作用に加え、そもそも免疫を抑えるせいで感染症に罹りやすくなってしまい、運が悪ければ命に関わる。そして、結局のところ拒絶反応を100%防げるわけでもない。
拒絶反応は定期的な検査によって、発生の予兆を読み取ることが不可能ではない。けれどもウィリー・ヒューズのように、殺し屋という職業ではそれがおろそかになってもムリないだろう。
心臓や腎臓などの臓器と違って、角膜に拒絶反応が起きたとしても死につながるわけではないが、透視どころか視力自体失われてしまったはずだ。もっともそのリスクを考えれば、さすがに両目とも移植するほど間抜けではないだろうが。
ヤツは一刻も早く新たな角膜を移植したがるはずだ。だが、人を殺して奪った眼球を持ち込むなんて、まっとうな病院を頼るわけにはいかない。当然、闇医者を使うはず。
それと、術後すぐは拒絶反応のリスクが高い。もともと用意してあった分では免疫抑制剤の量が心もとないだろう。服用者はさすがにそう多くはないから、購入した人間を割り出すくらい時間をかければ充分可能だ。
ひとまず免疫抑制剤の線は市警に協力を要請して任せたので――ウィリー・ヒューズのことは教えず、〈
闇医者というのはとにかく口が堅い。患者が患者だけに下手をすると、まっとうな病院以上に個人情報の流出が命取りになるからだ。中立を気取って誰でも診ているヤツの場合は、特に用心深い。おれたちが追っているのはよそ者で、地元の組織とは無関係だと説明してもムダだろう。――もっとも、本当に無関係かは現時点で断言できない。闇医者に渡りをつけるのも含め、何から何まで自分ひとりで手配できるとは思えない。ゆえに非合法な組織を利用している可能性は高いし、あるいはそれが、大統領暗殺の依頼者ということもありうる。
とにかくまともに聞き込みをしていたら、小一時間押し問答した末、結局有用な情報はひとつも手に入らなかったに違いない。だがおれの超能力は、こういうときこそ真価を発揮する。
おれの
「……おい、リンダ。いいか? 聞いて驚くなよ」
「何がわかったの? もしかして、暗殺の依頼人がヤバいヤツだったとか?」
「ウィリー・ヒューズは――女だ。若い女」
リンダは拍子抜けした様子で、「女ぁ? まァ呼び名で勝手に男だと思い込んでたし意外ではあったけど、別にそこまで驚くほどのことじゃア――」
「いや、それだけじゃない。おまけに彼女、かなりの美人で、おっぱいがデカい。おっぱいがすごくデカい」
「あァン?」
「デカい、デカいんだ……」
まったく、惚れ惚れする。やっぱり女ってヤツはこうでなくちゃアな。おっぱいのない女なんて、タマなしの男みたいなもんだ。お呼びじゃない。
まァそれはともかくとして、顔さえわかればこっちのもんだぜ。捜査官を総動員して、副大統領のハートを射抜く美女の捜索に尽力した。
そして、メアリーの死から3日後――。おれたちはとうとう、ウィリー・ヒューズの居場所を突き止めることに成功したんだ。
やはり殺し屋という職業は、実際かなり儲かるらしい。なにしろ街1番の高級ホテルに宿泊できるのだから。実にうらやましいかぎり。
手術からまもないことだし、部屋におとなしく引きこもっている可能性は高い。とはいえ大人数で押しかけると、踏み込む前に気取られてしまうかもしれない。ここは少数精鋭に絞る。――まァようするに、毎度おなじみおれとリンダのコンビだが。
「101号室――ここだな」
時刻は午後10時。フロントから読み取った記憶によれば、標的は1時間前に戻って来て以降、ホテルを出ていない。おそらく室内にいるはずだ。これからいつものようにおれが
おれは
室内の灯りは消えていた。暗い部屋で、テレビだけが光を放っている。テレビにはクリント・イーストウッドが若いころの西部劇が映っている。
そこには誰もいなかった。誰もいないように見えた。だが、もっとよく捜そうとしてベッドのところまで進むと、突如おれの目の前に女が現れた。間違いない、ウィリー・ヒューズだ。ベッドの上に座った状態で光学迷彩をかぶっていて、その内側へおれがすり抜けたのだ。
しかし、ほかに誰もいない室内でまで透明になっているなんて、よっぽどの臆病者か偏執狂か――そうであればずっとマシだった。こいつは雷に怯えて布団をかぶるような、小さな女の子じゃない。こいつは人間の皮の下で、例の黄金銃をかまえていた。右目だけ開き、銃口はドアのほうを向いている。
嫌な予感がして、おれはすぐさま女のカラダへ
すると案の定、開かれた右眼はドアを透視して、リンダへと照準を合わせていたのだった。しかも、このアマが使っているのは厳密にはトンプソン・コンテンダーではなく、後継のトンプソン・アンコールだ。パッと見では区別がつかないくらいよく似ているが、より強力な弾丸を使用できる。今このピストルには、308ウィンチェスター弾が込められている。あんなドアなら軽く貫通して、リンダの脳天を吹っ飛ばすだろう。
ウィリー・ヒューズは勝ち誇った笑みをその美貌に浮かべて、つぶやく。「“阿呆という隠れ蓑をつけ、その陰から機知の矢を放つのだな。”」
おれとしたことが、失敗した――。ここはさっさと自分のカラダへ戻って、なりふりかまわず逃げるべきだった。もし狙われているのがおれだったら、ギリギリ避けられたかもしれない。だが今から戻ってリンダに危険を知らせるのでは、さすがに間に合わない。こいつは今にも引き金を引こうとしているのだ。
だからおれにできることは、引き金にかかる指の制御を奪うくらいしかなかった。おれの能力では、抵抗されると全身を乗っ取るのはムリだが、指先1本くらいならどうにか操れる。
むろん、単に
しかし逆に言えば、もうコソコソする必要はないということだ。
「突入しろリンダ!」ウィリー・ヒューズの口を使って叫んだ。
「こンの――ひとのカラダをォ、勝手に!」
とはいえ、これでウィリー・ヒューズには完全に状況を把握されてしまった。加えてカンがいいことに、反対の手で引き金にかかる指を押し込もうとする。これじゃアたいした時間稼ぎもできそうにない。
「急げリンダ! 早く、早く!」
時間の流れが異様に遅く感じる。まだか。まだか――。
おれは必死に狙いを逸らそうと試みた。結果、発砲した瞬間にピストルが手のひらからすっぽ抜ける。
まずいと思ったときにはもう遅い。手から飛んだピストルは、ウィリー・ヒューズの脳天を直撃する。「うぎゃっ」
灼熱のような痛みに反して、うっすらと遠のいていく意識。このままだとこいつは気絶する。そうしたらおれはこの肉体に閉じ込められてしまう。
だから早く、ここから離脱――
……ああ? どういう、ことだ……おかしい……。どうなっているんだ……? こいつの記憶は……
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