009

 リンダに案内されて、おれがいるという病室へやって来た。

 ベッドにはひとりの色男が横たわっている。人工呼吸器をはじめ、カラダのあちこちにチューブがつながれている。その姿はさしずめスパデッティモンスターだ。

 目は見開かれ、何もない虚空を見つめているよう。

 死体には何度も触ったことがある。あの冷たさは、冷蔵保存された肉の触り心地と同じだった。それがこいつはどうだ? 文字どおり人肌の温かさ。蒼褪めているどころか、むしろ血色がいいくらい。

 心電図モニターは一定の間隔で波打っている。心臓が動いている。時計のような正確さで。未だ血液を送り続けている。生き続けようとしている。

「何か思い出した?」

「……いや、何も」こいつがおれだとしたら実にしっくりくるのだが、やはりまったく見覚えのない顔だ。

 というか、これは何かの間違いであってほしかった。本当のおれの肉体は、今もその辺をほっつき歩いている――そう信じていたかった。

「あいにくだけど、間違いないよ。彼がヘンリー・ケイスだ」

「……治る見込みは?」

「医者が言うには、可能性はゼロ。このまま延命を続けたとしても、もってあと数日だってさ。ただし、希望がまったくなくなったわけでもないけど。厳密に言うと、まだ脳死って確定してはいないの」

「ハァ? さっきは脳死だって言ったじゃねえか」

「脳死っていうのはね、言うなれば臓器提供するドナーになるための肩書きなんだよ。だからドナーになる気がないなら、脳死判定はされない」

「……よくわからないな。ドナーになろうがなるまいが、今の状態が正確にどうなのか、きちんと知っておくに越したことはないだろフツー」

「だったら試してみる? ほら、そこの人工呼吸器を外してみなよ」

「いやいや、そんなことしたらまずいんじゃないのか?」

「アタリマエでしょ。まずいなんてもんじゃないわ。そこが植物状態との大きな違い。脳死っていうのは、植物状態と違って脳幹がやられてるから、自発呼吸ができないの。つまり人工呼吸器をつけてないと生きられない。逆に言えば、自力で呼吸できなければ脳死ってこと」

「とすると、もし脳死寸前でギリギリ持ちこたえてたとして、人工呼吸器を外したらそれがトドメになりかねないな。……うわ、なんだそれ。完全に詰んでるチェックメイトじゃねえか。どん詰まりだ」

「そんなことない。脳死判定ってけっこういい加減だし。実際、脳死って診断されてから復活した人の例は山ほどあるんだから。エドガー・ポーの小説みたいに。ケイスだってきっと」

 そこへ、新たな人物がこの病室に入って来た。「その通りだリンダ。彼にはまだ、いろいろと語ってもらわなければならないことがあるからな。目覚めてもらわなければ困る。できるかぎりさっさとA.S.A.P.

「ホリガン局長」

「局長?」

「シークレットサービス局長、フランク・ホリガン。アタシたちのボス」

 ホリガンは太陽がまぶしいように顔をしかめて、「どういうことだリンダ? なぜウィリー・ヒューズが拘束もされずにこんなところにいる?」


「いやはや、驚いたな――。このマリリン・モンロー並みにナイスバディの美女が、あのヘンリー・ケイスだって? こいつはケッサクだ」

「アタシも同じ気分です。ええ、このナマイキなおっぱいむしり取ってやりたい……。ところで局長、精神感応能力者の手配はどうなってます?」

「芳しくない。もともと喉から手が出るくらい欲しかったくらいだ。今になってそう都合よく見つかるはずもない」

「FBIとCIAへの協力要請は?」

「FBIから回答があった。1人いるそうだ」

「おお! ホントですか!」

「優秀な元捜査官だ。ただし今はボルティモアの精神病院で、火星人と交信するのに忙しいらしい」

「やっぱり心を読む能力はレアってことですかね……」

「ただでさえ少ない上に、正気を保っている者となるとさらに稀少だ。記憶を読むだけなら残留思念を読む能力者もアリだが、そっちもそっちで数がいない」

「まァ結果的に言えば、精神感応能力者は必要なかったかもしれません。ケイスの精神がこっちの身体にいるなら、本体の思考と記憶をいくら読み取ったところで無意味だったんじゃアないかと」

「なるほど道理だ。ウィリー・ヒューズの身体に憑依してから、一度も戻っていないわけだからな」

「おい、チョット待てアンタら。おれを無視して話を進めてんじゃねえ。チャントわかるように説明しろ」

「脳死状態のケイスの肉体から、ウィリー・ヒューズの雇い主に関する情報を引き出せないかどうか、試そうと思ってたんだ。脳がダメになったとはいえ、ケイスは精神だけで活動できる。だったら今の状態でも思考を続けていて、意思疎通が可能かもしれないでしょ。もっとも、肝心のケイスはそこにいなかったわけだけど」

「そうだな。おかげでよけいなタイムリミットを気にする必要はなくなった」

「タイムリミット?」リンダは怪訝そうに、「何の話です?」

 ホリガンは言いにくそうにしながらも告げた。「ケイスの臓器摘出が決まった」

「そ、それはつまり、臓器移植のドナーにされるってことですか?」

「ああ。レシピエント側の準備ができしだい、手術が行われる」

 その言葉に、おれは危うく心臓が止まりかけた。臓器摘出? おれがいつそんな書類にサインしたって?

「おまえはすっかり忘れているだろうが、ヘンリー・ケイスは以前、心臓を含むあらゆる部位の臓器提供に同意している。これが書類の写しだ」

 そこには3年前の日付と、おれの名前がハッキリとサインしてある。かつてのおれはいったい何を考えて、こんな書類にサインをしたんだ?

「冗談じゃない。そんなのは過去の話だ。過去のおれがしたことだ。今のおれはそんなこと望んじゃアいない」

「もちろんそうだろうとも。だが裁判所は、法的におまえをヘンリー・ケイスと認めてはくれないだろう」

「……まるでシャイロックになった気分だぜ。“待て、まだあとがある。この証文によれば、血は一滴も許されていないな――文面にははっきり「一ポンドの肉」とある。よろしい、証文のとおりにするがよい、憎い男の肉を切りとるがよい。ただし、そのさい、クリスト教徒の血を一滴でも流したなら、お前の土地も財産も、ヴェニスの法律にしたがい、国庫に没収する。”」

「今のおまえは、どちらかというとポーシャだがな」

 最悪だ。心臓を取り出されちまったら、今度こそ確実におれの本体は死ぬ。そしたらもとのカラダに、男に戻るって希望は永遠に失われる。

「……でも局長、ケイスの肉体は貴重な情報源ですよ――もっとも、ケイスの精神はよそに避難していたわけですが。局長の口ぶりだと、そんなことはおかまいなくケイスがドナーにされてしまったように聞こえます」

「おまえの言うとおりだリンダ。私も何とか決定を覆してもらおうとしたんだが、残念ながらムダだった。大統領の命令には逆らえない」

「なんでそこで大統領が出てくるんですかっ」

「心臓を移植される予定のレシピエントが、海兵隊員の娘でな……」

 ようするにアレか? 海兵隊OBの大統領が、後輩のために便宜を図ったってわけだ。まったく、泣けてくるぜ。自分のために今まで尽くしてきたシークレットサービスを、くだらない見栄のために殺すってか。上等だチクショウ。

「わかったよ。欲しけりゃ全部くれてやる。どうせもとに戻る方法がわかったって、そんな使い物にならないカラダに戻ってもしょうがないからな」

「だけどケイス、まだ意識が戻る可能性だってゼロじゃないんだよ」

「そんなミジンコ並みにささいな希望に賭けて、大統領に楯突く? そいつはジョークで終わらせるべきだぜリンダ。――思い出せ。おれたちは何だ?」

「……シークレットサービス」

「そうとも。おれたちはシークレットサービスだろ。大統領の護衛をするおれたちが、その大統領に嫌われるようなことがあっちゃダメだ。護衛対象がチャント守られてくれなけりゃア、おれたちにできることなんてたかがしれてる。シークレットサービスは大統領にとって、最も頼れるパートナーであるべきだ」

「ケイスの言うとおりだリンダ。たとえ大統領が古巣の海兵隊を大事にしようと、それを口実にわれわれの職務をおろそかにしてはいけない」

 記憶は何ひとつ思い出せない。カラダは他人の、それも女のもの。しかし、こんなザマでもハッキリしていることがある――おれはおれだ。たとえ何があろうと、それだけはけっして変わらないということがわかった。なら、おれはおれとしての役目を果たすだけ。シークレットサービスとしての使命を果たす。

「……こうなったら、是が非でも記憶を取り戻してもらわなきゃねケイス。副大統領の暗殺を阻止できるかどうかは、アンタの記憶にかかってるんだ」

「そうだな……。だがどうやって? 記憶ってやつは、氷みたいにただ時間が経てば溶けるってもんでもないだろ。なんか手があるのか?」

「氷を溶かしたければ、火で熱したほうが早いよ」するとリンダは心底うんざりした顔でため息をつき、「こうなったら、アイツに頼るしかない、かァ……」

「アイツ?」

「アイツって言ったらアイツだよ。アンタも知ってるでしょ」

「おれは記憶喪失だ」

「そうだった忘れてた……ってことは、アタシから連絡しないといけないわけね……あー、ヤダヤダ……」

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