021
生まれたときから、おれは
――違う。おれは男だ。おれは男だ。おれは男だ。
ぬいぐるみよりもミニカーが好きだし、ママゴトよりも戦争ごっこが好きだった。スカートよりもズボンがはきたくて、おさげよりもショートカットにしたかった。ペニスよりもクリトリスとヴァギナが大好きで、だから突っ込むためのペニスが欲しかった。いずれ生えてくるのだと、みんなより成長が遅いのだと信じていた。
だが、現実は無情だ。
神はおれに試練を与えた。この弱々しい女の肉体で生きることを。――
おれは男だ。こんなのはおれのカラダじゃない。
……フロイトは言った。人間は嫌なことを忘れる傾向がある。つまりそういうことだ。おれは自分が女なのだと忘れたかった。名実ともに男でありたかったのだ。あまりに儚い夢だったが。
「ミスター・サヴェッジというのは」ヘスター・モフェットは見透かしたように言う。「あなたの殺し屋としての所業をおそれた連中がつけた名ね。それに対して、ウィリー・ヒューズは自称でしょう。『ソネット集』『W.H.氏の肖像』ウィリー・ヒューズとは、シェイクスピア劇の少年俳優だと言われているわ」
シェイクスピアが活躍していた時代、役者は男しかいなかった。しかし、当然ながら登場人物は男女関係なく用意されている。誰かが女性役を演じなければならない。
ならばどうするか? ――まだ声変わりをしておらず、体格も筋肉質でない少年にやらせればいい。
中性的な美貌はある意味、本物の女よりも美しく、女らしくなる。上演題目によっては女が男装をするシーンもあり、男のフリをする女を男が演じるという、複雑怪奇な役どころも演じなければならなかった。
「あなたはそんなウィリー・ヒューズのことを、自分自身の境遇と重ね合わせていたのでしょう? 男でありながら女の姿で生きなければならず、周囲には女として扱われる自分と」
「さすがは精神科医、心理分析はお手の物ってわけだ。……だが、犯罪者の逮捕には向いているとは思えないね。ましてや相手はプロの殺し屋だ。たかが精神科医ひとりに何ができる?」
「わたしも本音を言えば、こんなことは本職のシークレットサービスにまかせてしまいたかったのだけれど」
「組織のどこに内通者がいるかわからなかったからな。おれとヘスターだけで対処するしかなかった」
「同情するぜ。だがそうは言っても、人間にはできることとできないことがある。だいたいヘスター、おまえにそこまでする理由があるか? おまえに取り憑いている
「……さっき、連絡があったわ。クラリスと、ウィンストニアの死体が見つかったと」
「へえ、思ったより早かったな」
「やはりあなたが殺したのね」
「そうだと言ったら?」
「絶対に許さないわ」
「そうかい」
銃は使えない。いくらセレモニーの真っ最中とはいえ、銃声が聞こえたら、すぐさま警備の者たちが駆けつけてくる。というか、ヘスターもこの段階では内通者を警戒するより、会場に詰めているシークレットサービスを呼び出してしまったほうが賢い選択だ。まだ意地を張っているのかヘスターは選んでいないが、ヘスターがそうする前に始末する必要がある。
おれはナイフを抜いて、
姿を消して……足音を消して……息を殺して……ヘスターの背後へまわる。うしろから頸動脈を切り裂いて、悲鳴を上げる間もなく仕留める。
だが、おれがつかみかかろうとした寸前で、ヘスターはうしろを振り向きつつ飛び退き、おれから距離を取った。
どういうことだ? この女、おれが見えていたのか?
「実を言うと、ウィンストニアに関しては、むしろ感謝していたくらいなの。どうせ口封じしないといけなかったのだし。……けれど、クラリスを手にかけたのはいただけないわね。彼女は、わたしの獲物だったのに」
ヘスターは持っていた長い袋から、中身を取り出す。
「普段は手軽なハーピーナイフばかり使っているのだけれど、あなたはかなり手強い相手のようだから、今回は本気でいかせてもらうわ」
それは、なんと日本刀だった。鞘から抜き放たれた刃は肉厚で鋭く、今にも噛みついてきそうな迫力がある。
この女、正気じゃないのか? まさか本気で、そんな時代遅れのシロモノを振りまわすつもりだと? 仮にも銃を所持している敵に対して?
「“その腰のものを抜いて守られるがいい、あなたがいかなる侮辱を加えられたかは存ぜぬが、庭先にあなたを待ち伏せている男がおる、怒りに狂う形相は血に飢えた猟犬さながらだ。鞘を払い、いざという場合に備えられよ。あなたを狙う男は抜く手も見せぬ剣の達人、血を見ずにはおかんといきまいておる。”」
そう『十二夜』の一節をそらんじるやいなや――ヘスターは一瞬にして間合いを詰めてきた。長大な刃を振りかぶり、おれに斬りかかってくる。この女、やはりおれのことが見えている。どこにいるか把握している。
「せっかくの隠れ蓑も、そんなふうに殺気がダダもれじゃア、大声で叫んでいるのと変わらないわ」
おれは思いっきり飛び退いて、どうにか一撃をかわす。しかしヘスターの攻勢はそれで終わらない。さらに踏み込み、何度も何度もおれのカラダを真っ二つにしようと、刀を振り下ろす。
だからといって、それで形勢を覆せるわけではない。この日本刀の前では、おれが手に持っているナイフはまるでオモチャだ。バターナイフ並みに頼りなく思える。
こうなったら銃を使うか? だが、おれの黄金銃は単発式だ。1発外せばそこで終わる。ましてや、この距離で息つく暇もなく攻めかかってくるのでは。
「〈
「まさか、おまえがそうだっていうのかっ」
「知られてしまったからには、生かしておくわけにはいかないわね」
悪い冗談にしか聞こえない。殺人鬼だって? だからどうした。それと、このとてつもない戦闘力に何のつながりがある? まったく理由になっていない。しかし事実として脅威なのは確かだ。
……しかたがない。なるべくこれには頼りたくないのだが、背に腹は代えられない。おれは
白刃をくぐり抜け、懐へ踏み込む。ヘスターの目が驚きに染まる。
一撃で仕留めるつもりだったが、首筋の薄皮1枚切り裂いただけだった。やはり日本刀の威圧感はとてつもないな。つい気圧されて間合いを見誤ったようだ。あと1歩足りなかった。
けれども、ここまでだ。返す刃で今度こそヘスターの急所を狙う。
「もらったァーッ!」
甲高い金属音。飛び散る火花。ナイフはギリギリ刀に防がれた。
……狙いがあからさま過ぎたか。こちらが一撃で終わらせたがっているのを、見抜かれてしまったのだ。そうに違いない。なにせ相手は人間の心理を読むプロだ。かならずそこにくるとわかっていれば、守り切れないことはない。
だが、しょせんは悪あがき。そういうことなら、圧倒的な速さで切り刻んでやる。何なら服を引き裂いてハダカにしてやろう。そしたら泣けよ女。戦いなんかそっちのけで胸とアソコを隠して、もうやめてと許しを乞え。恥ずかしさに顔を赤らめながら。女にはそれがお似合いだ。
「――だから、殺気がダダもれだと言ったでしょう?」
おれの文字どおり目にも留まらぬ連撃を、ヘスターはすべて防いだ。
ありえない。何なんだ? 何がどうなってる? なんでこの女はおれの攻撃を全部しのげるんだ? 精神感応でこちらの動きを読み取れるウィンストニアでさえ、このスピードにはまったくついてこれなかったっていうのに。
「視線の動き、呼吸、足運び、筋肉の張りと緩み、表情の変化――思考を読めなくても、相手の行動を予測する手がかりは腐るほどあるわ。加えて、今のあなたは薬物のせいで攻撃が単調になっている。まるで獣のようね。一流の狩人なら、先読みするくらい造作もないのよ」
だまれ怪物め。おまえみたいに牙剥き出しの、獰猛で血に飢えた狩人がいてたまるか。なんて眼をしていやがる。今にもよだれがこぼれそうだぞ。女のくせに恥じらいってもんがない。
おれのカラダに欲情しているんだ。おれの肉を食うつもりなんだ。
その怖気が奔るほどに邪悪な笑顔――“人はほほえみ、ほほえみ、しかも悪党たりうる”
「なめるなよ殺人鬼ィ! お遊びのアマチュアふぜいが、プロの人殺しに勝てると思うなァ――ッ!」
何だかよくわからない理屈だが、とにかくおれの攻撃はすべて読まれている。だがどんなに先読みしたところで、防御が間に合わなければ意味がない。つまり、この程度では速さが足りないのだ。もっと速く、速く。
おれはふたつめの
ここまでやっても、まだヘスターはねばる。だんだんナイフがかすり始めてきたが、どれも深手には至らない。ギリギリのところで攻撃を捌いている。
ならばとダメ押しに、三つめの
ついにおれのスピードが、ヘスターの先読みを上まわった。彼女の手の甲を切り裂き、日本刀を取り落とさせることに成功する。これで丸腰かと思いきや、ハーピーナイフを袖に仕込んでいたらしい。だが、それがどうした。今さらそんなチャチなオモチャで何ができる?
遅い。遅すぎる。まるでカメだ。止まって見えるぜ。
おれは今度こそ勝利を確信して――ふいに、後頭部を誰かに鈍器で殴られた。
新手かっ――!? おれはすぐさまヘスターと背後の敵から距離を取る。絶好のチャンスを邪魔されてムカつくが、たとえ2対1になろうと、今のおれに敵うはずはない。仲良くまとめて殺してやる。
バカなヤツだ。今の一撃で仕留めていれば、死なずに済んだものを――けれども奇妙なことに、そこにはヘスターひとりしかいなかった。
どういうことだ? どこだ? 2人めの敵はどこへ消えた? かならずどこかにいるはずだ。まさか透明人間のしわざか? ふざけやがって。
「隠れてないで出てきやがれ。この腰抜け野郎ォ――」
自分で思ったよりダメージがあったのか、殴られたあたりに、強い痛みが出てきた。どんどん激しくなる。さらにめまいと吐き気まで。
もしかして、こんなときに免疫抑制剤の副作用だろうか。感染症に罹ってしまったのかもしれない。拒絶反応が起きたのか、右眼の視界も霞んできた。
意識が遠のく。……ダメだ。まだ倒れるわけにはいかない。あの女を殺さなければ――違う。あんな女はどうでもいい。殺すのは大統領だ。大統領を殺せば、大金が手に入るんだ。
しかし、あらがえない。襲い来る猛烈な眠気に――“底なしの眠りよ。これは数多くのイギリス国王から黄金の冠を奪い去った眠りだ。”
落ちる。落ちていく――“おそらくは夢を見る”
暗闇へと沈んでいく――“永の眠りにつき、そこでどんな夢を見る?”
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