011

「もしかしたら、あなたがシークレットサービスとしての職務を優先させて、積極的に記憶を取り戻したいと決意するかもしれないし、一応アドバイスはしておくわね。記憶喪失を治すためには、普通は馴染みのある場所とか人と交流して、呼び水にするのが定石なのだけれど、あなたみたいに素性自体不明だとその手は使えない。薬物とか催眠術を使う手もあるけれど、肉体と精神ともに負担が大きいし、あなたの場合は失敗したときのリスクが読めないから却下。そこで、何かほかに方法がないかと考えてみたのだけれど、さっき脳内に宮殿を創り上げる記憶術のことを話したでしょう。これをマスターすれば、宮殿のなかを現実と同じように探索することで、どんな記憶も見つけ出すことができる。本来は宮殿に記憶をしまうイメージによって、記憶力を高めるのが目的なわけだけれど、宮殿を建てる以前の記憶を掘り起こすことにも少なからず使えるの。だから記憶喪失の回復にも役に立つはず」

 診察を終えてヘスターが病室から出ると、入れ替わりでリンダが駆け込んできた。ひどく慌てた様子だ。

「大丈夫? あのおっぱい魔女にいじめられなかった?」

「……別に、言うほどデカくないだろ。今のおれのほうが巨乳だ」

 ヘスターはせいぜいDカップだ。対してこのカラダはFカップ近くありそうに見える。実際ハンパじゃない。妙にカラダが重いのは気絶していたせいだと思っていたが、どうやら違ったらしい。

 ところでリンダはというと、「チョット! どこ見てんの?」

「小さくたって気にするな。ムダにサイズがあっても、やたら肩がこるだけだ。むしろこんなもんは邪魔だ邪魔。そんなに欲しけりゃアくれてやる」

「だ、誰も欲しいなんて言ってないし! 思ってないし! どうでもいいしィ! 胸なんて飾りだよ。偉い人にはそれがわからないんだ」

「そうだな。おれもそう思うぜ」

「嘘つけ。いつも紳士ぶってるけど、本心ではおっぱい大好き星人のくせに。男なんてみんなそうだ。そんなに好きならママのおっぱいしゃぶってろ」

 別に嘘じゃないんだがな。あんなのはしょせん、ただの脂肪だろ。それより女は骨だとおれは思う。鎖骨、肋骨、上前腸骨棘が適度に浮き出てるのを見ると、指でなぞりたくなる。特に肋骨がいい。なぜなら神はアダムの肋骨リブからイヴを創ったからだ。

 とはいえ、今そのことを熱く語ったところで、火の油を注ぐようなものだろう。女の話には反論せず、だまってあいづちを打つにかぎる。

「ねえチョット、アタシの話チャント聞いてるっ?」

「聞いてる聞いてる。よくわかる。うん」

「アンタもせっかく女のカラダになったんだから、これを機会に少しは女のキモチってもんを理解したほうがいいよ。そのうち生理もくるだろうし」

「そいつを考えると憂鬱だぜ……」

「そういえば、トイレは困らなかった? さすがにまだ一度もしてないなんてことはないでしょ」

「ああ、案外たいしたことなかったな。座ってションベンくらい男のときもやってただろうし」

「ふーん。……じゃあオナニーは?」

「いきなりなんてことを言い出すんだ、おまえは」

「いやさ、ほんの数日前にそういう話題をしたのを思い出して。まァ当然アンタは憶えてないんだろうけど――で、どうなの? やったの? キモチよかった? オンナのカラダはオトコと全然違うんだから。出したら終わりってことがないから、延々感じ続けてられるんだよ。想像できる? それともとっくに体験した?」

「――あいにくだが、射精の伴わないオーガズムに興味はねえ」

「あ、そ。つまんない。……ところでさ、ヘスターの診察は役に立ちそう? 記憶は戻りそうかな?」

「どうも難しいみたいだ。自然に戻るのを待つしかないらしい」

 ……つい嘘をついてしまった。

 ああ、情けない。男のくせして女々しいヤツだ。もしかしたらすでにこの女の肉体から、精神が何らかの影響を受けているのかもしれない。そう考えただけでゾッとする。少しずつおれがおれでなくなっていく。

 せめて肉体の誘惑には負けたくない。だから、このカラダでオナニーしていないというのは本当だ。欲求不満のせいで、ときどき性欲が波のように押し寄せてくるが、一度でも快楽に身をまかせたら、心まで女になってしまう気がして。

 おれは自分のペニスをしごきたいのだ。穴に指を突っ込みたいわけじゃない。だが、このカラダはそれを求めている。女としての快楽を。ガマンしているといいかげん気が狂いそうだ。射精に見立てて、限界までションベンを溜めてから放出してみたが、ほんの気休め程度にしかならない。あんまり血迷いすぎて、男もできるからアナルファックは問題ないかもしれない――なんて本気で考え出す始末。

 肉体は魂の牢獄だ。こんなところにいつまでも閉じ込められていたら、記憶が戻らなかったとしても、遅かれ早かれ気が狂ってしまう。

 いっそのこと、何もかも受け入れてしまえば、ラクになれるのかもしれない。しかし、それはできない。男ならそんなことはしない。おれは男だ。けっして屈したりなんかしない。

 器によってプディングは変形しても、プディングによって器が変形することはありえない。とはいえ、それは単なる例え話だ。精神はプディングではないし、肉体はプディングのカップじゃない。肉体が精神を変質させるなら、精神が肉体を変容させたっておかしくないはずだ。何もクリトリスが肥大化してペニスになるなんて、荒唐無稽なことは望んじゃいない。肉体を精神の奴隷にするのだ。

 ヘスターの言うことなんて気にすることはない。知ったことか。医者ってヤツらは病気のことを大げさにしがちだ。それで患者を食い物にするのだ。それよりも自分自身を信じろ。ほかの何もかも忘れてしまっても、おれがおれであることだけは忘れなかった、このおれ自身を。

 おれはおれだ。おれであり続ける。

 そう信じ続けるのを、思考し続けるのをやめた瞬間にはもう、おれという存在は消え去ってしまうような気がして。

 おれは選ばなければならない。“どちらがりっぱな生き方か、このまま心のうちに暴虐な運命の矢弾をじっと耐えしのぶことか、それとも寄せくる怒涛の苦難に敢然と立ちむかい、闘ってそれに終止符をうつことか……”

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