018
目が覚めると、おれは見知らぬ部屋にいた。どうやら気絶させられていたらしい。ベッドの上に仰向けで寝かせられている。両手をベッドの柵にロープで縛られて、身動きが取れない。
そしてそんなおれの姿を、下卑た笑みを浮かべた男が見下ろしている。
「よォく眠れたか? どうせあんまり捜査が忙しくて、最近ロクに寝てなかったんだろ。そういうムチャは美容によくないから、やめたほうがいい」
「おまえはガリヴァー・フォーマイル」
「そういうてめえはウィリー・ヒューズだ」
「違う。おれはヘンリー・ケイスだ」反射的に言い返してしまってから、ウィリー・ヒューズになりすまして情報を訊き出せばよかったと後悔した。
だがもっとよく考えてみれば、あの状況でこいつがああいう介入をしてきたということは、こちらの事情など承知の上に違いないのだ。
「なんで彼女を――タイニーを殺した」
「おっと、カンチガイしないでくれよ。俺様だって、あんなかわいい娘を殺したくなんかなかったんだ。俺は悪くない。悪いのはてめえらだ。無関係な一般人を、自分たちの利益のために巻き込んだ」
「否定はしないさ……。おまえの言うとおりだ。けどな、キッカケがどうあれ、罪もない女を殺したのはおまえらだ。おれは絶対に許さない」
「許さない? 許さないだって? だったらどうする? 俺を殺すか? それとも逮捕して裁判にかけるか? そんな情けないザマでか? 今のてめえに、いったい何ができるっていうんだ?」
フォーマイルは下品な声で笑う。とても耳障りだ。ああ、今すぐにでもぶち殺してやりたい。
「いいねえ、その眼――。ゾクゾクする。なんだ、記憶喪失だとか、精神が別人と入れ替わったとか聞いてたが、何も変わっちゃアいないじゃないか。以前会ったときとまったく同じ眼だ」
「そうかい。そいつはよかったな」
「とはいえ、善人になったフリをして、シークレットサービスをスパイしてたってわけでもないんだろ? ヘンリー・ケイス。てめえはウィリー・ヒューズの仕事を阻止するために、そんなナリになっても頑張って来たってわけだ。たとえ記憶を失っても、シークレットサービスとしての誇りは失わない。感動的すぎて涙が出そうだぜ」
「感動ついでに、おまえたちの雇い主のことを教えてくれないか?」
どうせまともに答えはしないだろうと思っていたのだが、返って言葉は、「いいとも。教えてやる」
「なに?」
ずいぶんアッサリしている。この男は、おれを生かして帰すつもりがないってことか? いや、それならどうしてまだ殺されていない? おれから搾り取れる情報なんかないことくらい、当然わかっているはずだが……。
「ただし、教えるのは俺じゃない。てめえ自身だ。知りたきゃてめえで思い出せ。ウィリー・ヒューズの記憶を」
「……なるほど、そういうことか。悪いが、そうカンタンに思い出せたら苦労しないさ。できたらとっくにやってる」
「嘘だな。大嘘つきめ。てめえは記憶を取り戻すことを怖れている。もしすべて思い出せば、ヘンリー・ケイスとしての自我が消失して、正真正銘のウィリー・ヒューズになっちまうんじゃないかってな」
どうやら、こちらの事情を完全に把握しているのは間違いないらしい。内通者どころか、おそらくどこもかしこも盗聴器だらけなのだった。
「こうしててめえをさらったのは、実のところそのためなんだ。てめえの記憶を取り戻すために、俺が協力してやる。雇い主はいいかげんしびれを切らしてんだ。期日が迫ってる。さっさと仕事に戻れってよ」
「そうは言うが、いったいどうやって記憶を思い出そうっていうんだ? 優秀な精神科医でさえさじを投げたっていうのに」
「なァに、専門家になんざイチイチ頼らなくても、今どきはネットで調べりゃア何だってわかるんだぜ。記憶喪失をどうにかする方法だって、すぐにわかった」
……嫌な予感がする。「へえ、じゃあグーグル先生はなんて言ってた?」
「至極カンタンだ。てめえみたいなタイプの記憶喪失は、肉体的なショックが精神にダメージを与えたせいで起こる。だから手っ取り早く治す方法は、ショック療法だ。記憶を失ったときと同等か、それ以上のショックを与えることで、記憶は回復する。ブラウン管テレビの映りを、叩いて直すみてえに」
「……知ってるか? そういうのを民間療法って言ってな、科学的根拠のない迷信なんだぞ。効果なんざいっさいない」
「んなもん、実際試してみなきゃアわかんねえだろうが」
「ようするに拷問しようってんだろ。こんな見目麗しい美女の姿のおれを。さっすが醜男は趣味が悪い」
「まァ有り体に言っちまうとそうなる。ただし醜男ってのは聞き捨てならねえ。どうやらよっぽど痛くしてほしいらしい。やれやれ、とんだマゾだな」
――
だが、待てよ? 拷問されたくらいで、いくらなんでもそうカンタンに記憶が戻るだろうか。とてもそうは思えない。拷問というレベルでなくとも、肉体にショックを与えることに効果があるなら、ヘスターが一言触れていてもおかしくない。
となると、ここは下手に抵抗せずに、何とか拷問に耐えて、脱出のチャンスを待ったほうが利口かもしれない。あるいは適度なタイミングで記憶が戻ったフリをすれば、より可能性は高まるだろう。
そうと決まれば、あとは覚悟を決めるだけだ。拷問というが、具体的にはいったい何をされる? 仮に拷問された経験なんてあったとしても、まったく憶えていない。だが、ある程度は想像もつく。鞭打ち? 電気ショック? 少なくとも、このあと暗殺に支障が出るほどの真似はしないはずだ。けっして耐えられないレベルじゃないだろう。いや、きっと耐えてみせる。おれは悪党に屈したりはしない。
さァ、かかってこいフォーマイル――。
しかし、フォーマイルは鞭とかスタンガンとか、拷問道具を取り出そうとする様子はなく、おれの上に馬乗りになった。もしかして素手で殴るつもりか? 確かに拷問としては悪くない手段だろうが、自分の拳も痛めるぞ。それでもいいのか?
かと思いきや、なぜか自分のズボンのベルトを弄り始めた。ああ、なるほど、革のベルトを鞭代わりに使おうってわけだな。そいつは痛いだろうな。
けれどもおれの予想に反して、フォーマイルはベルトをズボンから抜き取らず、あろうことかチャックを下ろして、自分の汚らしいナニを露出させた。凶悪なまでに屹立している。
「おいィ! おまえ、いったいどういうつもりだっ」
「どういうつもりって、だから言っただろうが。これからてめえを拷問するんだよ。ヒイヒイ言わせてやる」
そう告げるや、フォーマイルはおれが身に着けた衣服を乱暴に破り捨てて、あられもない姿にした。
「チョット待て――チョット待てェ! おいコラこの野郎、まさかおまえ、おまえ――」
「拷問なんて別に小難しいこと考えなくても、女相手だったらこれが一番カンタンだし効果的だ」
「バッ――バカかおまえ! 正気かよ? アタマおかしいんじゃねえのかっ? おれは男だぞ!」
「バカなのはてめえだ。胸にそんな立派なモンふたつもぶら下げといて、アホ抜かせ。中身が男どうだろうと何だろうと、カラダは立派な女だ」
「ふざけんなホモ野郎! そんなにお望みなら、おまえのケツにぶち込んでやろうか!“情け知らずの、恩知らずの、女たらしの、人でなしの、大悪党め!”」
「やれるもんならやってみな」
……ムリだ。両手が縛られているからってだけじゃない。男と女じゃ明らかに腕力の差が歴然だ。まともに力比べして勝てるわけがない。
「当然てめえは何も知らないだろうが、前回ウィリー・ヒューズと会ったとき、イギリス人に合わせて紳士的に誘ってみたんだが、あのアマはあろうことかこの俺に、容赦なく金的くらわせやがった。危うく大事なタマが潰れちまったかと思ったぜ俺は。その雪辱を果たさせてもらう」
またか。また身に覚えのない負債を背負わされるのか。“そのとおりだ。運命の車はみごとひとまわりし、おれはこのとおりどん底だ”このカラダのおかげで生き永らえたから、自業自得だって? ふざけるな。誰がそんなこと頼んだ? こんなカラダになりたいって誰が頼んだ!
「一応拷問って名目だし、優しくする必要はねえよなァ」
そう言って、フォーマイルはおれの股を力ずくでこじ開けると、前戯もなしにいきなり突っ込んできた。メリメリと肉が裂けるような感触。痛みに声を上げそうになるのを、必死にこらえる。せめてもの抵抗だ。女みたいに泣き叫んでたまるか。
もっとも、叫んだのはフォーマイルのほうだった。
「――痛ぅ! あァン? なんか当たったぞ?」いったんペニスを抜いて、フォーマイルが穴のなかへ無遠慮に指を突き入れる。そうして何か異物を探る。上手く届かないのか、どんどん深く掘り進めて、拳ごと侵入しかねない様子。“情欲って悪魔がまるまるとした尻といやらしい指先で”
「ひぐぅ、いぎ、うぎぃ」
「よし、取れた取れた。――なんだこりゃア? 2セント銅貨?」
すぐに興味を失ったのか、フォーマイルは見つけたコインをその辺に放り捨てて、セックスを再開した。
腹をえぐるられるような衝撃。何度も何度も。頭のなかが真っ白になって、何も考えられなくなりそう。
「なんだかんだ言って、気持ちよさそうじゃアねえか。ぬるぬるした蜜がどんどんあふれ出てきやがるぜ。これじゃア拷問にならねえな」
「うる、さいっ――殺してやるぅ――あくぁ!」
「ほら、そこの鏡を見ろよ。何が映ってる? 女だ。快感に喘ぐメスブタだ。初めての経験に戸惑う処女だ。これのどこが男だって? チャンチャラおかしいぜ!」
――憎い。このカラダが憎い。おれの精神とは無関係に、快楽によがり狂うこの肉体が憎い。ああ、ホントに女ってヤツはロクでもない。“恥知らずの淫売め!”
くやしい。でも感じてしまう。その一方で、おれの心は空虚になっていく。カラダの奥を掘られていくほど、心に深く穴が穿たれていく。“ミソサザイもやっておる、金蝿などはわしの目の前で平然と番いおる”
鏡を見る。これがおれ? ――違う。これはおれじゃない。こんな快感に溺れているだけの獣が、おれであるはずがない。だらしなく舌を垂らして、犬みたいによだれをこぼしているヤツが。“だがな、さかりのついた猫だって種馬だって、その女ほどがつがつはせぬぞ。半人半馬の怪獣ケンタウロスだ、腰から下は馬で上半身だけ女なのだ。帯のところまでが神々の治めたもうご領地で、それから下は悪魔のものだ。そこは地獄だ、暗闇だ、硫黄の穴だ、燃えあがり、焼きこがし、悪臭を放ち、腐りただれ、ああ、いやだ、いやだ、ペッ、ペッ! 麝香を一オンスくれ、薬屋、わしの胸の思いを清めるのだ”
「“さかりのついた猿め!”よくも、よくもォ、おれを女にしやがったなァ――あ、あ、あ」
セックスの熱で頭が沸騰すればするほど、言葉が浮かび上がってくる。これは――そう、シェイクスピアだ。何も今にかぎったことじゃない。ことあるごとに、するりと流れ落ちてきていた。
おれは宮殿にいる。そこには本棚が並んでいて、シェイクスピアの戯曲がいくつも収められている。おれはそれを手に取って、ページを開き、読み上げる。“なんてすばらしい! りっぱな人たちがこんなにおおぜい! 人間がこうも美しいとは! ああ、なんてすばらしい新世界、こういう人たちがいるとは!”
「そろそろクるか? キそうなのか? わかるぜ。てめえのナカがビクビク震えてやがる。イイぞ。天国までイかせてやる」
腹のなかにほとばしる灼熱。同時に全身を電流が走る。電気ショックをくらったときみたいに。そこから鋭い衝撃が、脳天を突き抜けた――。
「……こいつはしまった。俺としたことが、つい目的を忘れてすっかり愉しんじまったぜ。いやはや、だが実にサイコーだった。まさかこれほどまでの名器とはな。こりゃハマっちまいそうだ」
……冷や水を浴びせかけられて、酔いが醒めたときと似た感覚。ずっと立ち込めていた霧が晴れた。
ああ、イイ気分だ。サイコーに気分爽快。
お笑い草だぜ、まったく……。民間療法ってヤツもバカにならない。
まァとりあえず、これだけはハッキリ言える。
――おれは、おれだ。
「で、どうだ? 何か思い出したか?」
「2人か……。少ないな」
おれの言葉に、フォーマイルは怪訝そうに眉間のしわを寄せる。昔は海兵隊だったらしいが、カンが鈍ったな。この程度の気配を察知できないとは。
おれはかまわず話し続ける。「おまえのことは、おれがこの手でぶち殺してやるつもりだったが――まァいいさ。ここは紳士らしくレディーたちに譲ろう」
次の瞬間、フォーマイルの全身が激しい炎の包まれた。
「ギャアアアアアアアアア――ッ!」
フォーマイルは半狂乱になってのたうちまわったが、そのうち瞬間移動して消えた。おそらく近くの川にでも逃げたのだろう。だが、あそこまでやけどを負っては手遅れだ。すぐに治療しても助かるかどうか。少なくとも、今回の舞台からは退場せざるをえない。
玄関の錠を破壊するショットガンの銃声。床を踏み鳴らす荒々しい足音。
「ケイス! 無事っ?」ドアを蹴破る勢いで、リンダが部屋に駆け込んできた。ベッドの上のおれのザマを見て絶句する。
「おいリンダ、そんなとこ突っ立ってないで、さっさとこいつをほどいてくれないか」
「……あ、そうだった。ごめん」
リンダのひとにらみで、おれの自由を奪っていたロープは一瞬で灰になった。おれはさっそく2セント銅貨を拾う。
「でも、生きててよかった」リンダは安堵した様子で微笑む。
遅れてウィンストニアが現れる。「リンダに感謝しろヘンリー・ケイス。ホリガン局長の命令を無視してまで、貴様を救出に駆けつけたんだぞ」
「そうそう。だから、あとで一緒に謝ってよね」
「ああ、いいぜ。助けてもらったし」おれは適当に返事をしつつ、リンダのそばへ近寄る。
「――そいつから離れろリンダ!」
「エッ?」
気づかれたか。やはり精神感応は厄介だ。
だが遅い。おれは不意を突いて、リンダの手からソードオフ・ショットガンを奪い取ると、彼女の鼻先に銃口を突きつけて引き金を引いた。
拡散しようとする散弾を至近距離でモロにくらい、リンダの顔面は完膚なきまでに跡形もなくなった。
「き――貴様ァ、よくもリンダをォ!」
すかさずウィンストニアも仕留めようと銃口を向けるが、引き金を引くよりも早く遮蔽物に避けられてしまう。
「フォーマイルにレイプされたようだな。このままだと妊娠してしまうぞ? 女は孕まされて、子を産んでいればいいんだ。貴様にはそれがお似合いだ」
そして
だがそんな戯言は、今のおれには効かない。聞かない。何を言っているのかまったく理解できない。
「“いや、そうではない、時はそれぞれの人によってそれぞれの速さで歩むものです。”」
おれはすでに奥の手を使っていた。おれの膣に仕込まれていた2セント銅貨は、アタッシュケースに入れてあったのと同じ物だ。あれには細工がしてあって、薄く2枚に割った上で内部を削り取り、小さな紙片を隠せるようになっている。メモを入れておくにも悪くないが、おれはその紙片に、特別性の強力なマリファナを染み込ませておいた。口に含めば即効でキマる。
ただし欠点も多い。まず、心臓に負担がかかりすぎる。それとマリファナである以上、使用中はどうしてもラリってしまい、複雑な思考が難しくなる。だが、目の前の敵を1人始末するには充分な力だ。
今のおれには、周囲のすべてがスローモーションに感じる。もちろん音も。ウィンストニアが何を言っているのか、遅すぎて意味の通じる言葉に聞こえない。意識して注意深く耳を傾けないかぎり。だから
トップスピードで駆け出して、ウィンストニアに突撃する。おれの思考を読み取ったところで、早回しすぎて不明瞭だろうが、それでも何とか解読したのか、おれの動きに対応してみせようとする。
しかし遅い。あまりにも遅い。おまえには速さが足りない。おれはウィンストニアを押し倒して、ショットガンをあごの下に押しつけた。
「俺の考えを読んだな。それで俺の次の行動を読み取ったというわけだ。だがどっちにしても、俺は勝ったぞ」ウィンストニアにもチャント理解できるように、ゆっくりしゃべる。
「……なぜだ? なぜ裏切った、002……あなたほど、女王陛下に忠実な騎士はいなかったというのに……」
ウィンストニアの声は遅すぎてわけがわからない。けれど表情から、何を言っているのかは何となく伝わった。
だからおれは答えてやる。冥途の土産に教えてやる。
「おれがおまえたちを裏切ったんじゃない。おまえたちがおれを裏切ったんだ。女王陛下のために汚れ仕事をしてきたおれを、幼いころから人生のすべて捧げてきたこのおれを、おまえたちはアッサリ切り捨てた」
ウィンストニアの顏が驚愕に歪む。「……そんな……まさか、そんなことが……」
過去のおれ自身のバカさ加減に、涙が出そうだ。“そこに喜びを見いだせばつらさは忘れられる”“卑しい仕事も誇りをもってやってのければ、つまらぬことからりっぱな結果が得られるのだ”なんて、かつては本気で考えていたなんて。
「
赤い花が咲く。真っ赤な花が。“見わたすかぎり波また波の大海原を朱に染め”て――。
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