016

 フォーマイルの捜索は市警に一任して、おれたちはバージニア州ノーフォークのセンタラ心臓病院へとやって来た。精神科医の意見が欲しかったため、ヘスターにも同行してもらっている。くだんのレシピエントは海兵隊員の娘という話だが、ノーフォーク海軍基地にはアメリカ海兵隊総軍があるから、ひょっとしたら父親はそこに勤めるお偉いさんなのかもしれない。

 そのレシピエントはタイニー・ウッドマン、21歳。証言によれば、移植手術を受けて目覚めるまでのあいだに、精神が肉体を離れる経験をしたという。本人も最初は単なる夢だと思っていたそうだが、そのとき見舞いに来ていた家族の会話を、一字一句たがえず憶えていたことで、幽体離脱が現実だと確信したとのことだ。

 しかも、彼女に起きた事態は、幽体離脱だけではない。

「どう思う? ヘスター」

「……さて、どうかしらね。そう珍しい事例ではないわ。例えばクレア・シルヴィアという女性はそういう体験について自伝を出版してる。とはいえ、本人と会って直接話してみないことには」

「……ねえ、今さらなんだけど、こんな大勢で押しかけて大丈夫かな? まだ手術直後なわけでしょ」

「そうね。単純に体力の問題もあるけれど、彼女の場合は臓器移植を受けたわけだから。すでに免疫抑制剤の投与を開始しているでしょう。あまり多くの人間と接触するのは控えたほうがいいわ」

「だったら、病室に入るのはおれとヘスターだけにしておこう。ウィンストニアもそれでいいか?」

「…………」

「ウィンストニア?」

「……ああ、なんだ?」

「おいおい、話を聞いてなかったのか? 患者の負担にならないように、おれとヘスターだけ面会するから、おまえはリンダと病室の外で待機しててほしいんだが」

「わかった。私はかまわない」

 さっきからウィンストニアの様子が変だ。何か考え事をしていて、心ここにあらずといったカンジ。別にフォーマイルの捜索に加わりたかったわけでもないだろう。この女の目的はあくまでウィリー・ヒューズを捕まえることだ。だからこそ彼女はこちらについて来たはず。もしタイニー・ウッドマンが幽体離脱を使いこなせるのなら、このカラダからウィリー・ヒューズの記憶を読み取ることができるかもしれない。それによって、ウィンストニアもあえておれの身柄に固執する気がなくなってくれればいいが。

 ――と、ウィンストニアの視線が、ごまかそうとはしつつも、ヘスターから離れないことに気がついた。さしずめ恋する乙女のように。だがその瞳に宿る感情は、好意というよりは敵意? いや、嫌悪すらにじみ出ている。

 まァ確かに、ヘスターの人格はほめられたものではないだろうし、思考を読んだとすれば、そういう感情を抱くのもムリはない。そもそも精神感応能力者は、その性質のせいで人間不信に陥りやすいという。正気を保つのが難しいほどに。

 ウィンストニアが近づいてきて、耳元でささやく。「よけいな気づかいをするな。そんなんじゃない」

「それならどんなんだよ? なんでヘスターを気にしてる?」

「……言っても貴様らは信じないだろうさ」

「わたしが何か?」ヘスターが割って入ってくる。「ふたりで内緒話なんてずるいわ。わたしも混ぜて」

「別になんでもない」

「そう? なら別にいいのだけれど」

 そうこうしているうちに、病室の前へたどりついた。事前の打ち合わせ通り、おれとヘスターだけでなかへ入る。

「はじめまして。あなたがタイニー・ウッドマンね。タイニーって呼んでいいかしら。わたしは精神科医のヘスター・モフェット。こっちはシークレットサービスのヘンリー・ケイス」

「男の人みたいな名前ですね」

「男だからな」

「エッ?」タイニーは目を白黒させて混乱している様子。おおかた女装かニューハーフだとでも思っているんだろう。まァわざわざ説明する必要もないか。

「おれのことは気にしないでくれ。それより君の話を訊きたい」

「あの……なんでシークレットサービスの人が、あたしなんかのところに……シークレットサービスって、大統領のボディガードですよね……?」

 困惑するのもムリはない。FBIや麻薬取締局、連邦保安官ならまだしも、一般市民がシークレットサービスに関わる機会はそうそうない。……CIA? アンタの旦那がそうだよ。

「今の段階であまり話せることはないんだが、君に起きたっていう出来事が、おれたちの捜査に役立つかもしれないんだ。協力してくれないか?」

「幽体離脱のこと、信じてくれるんですか?」

「幽体離脱だけじゃないわ。心臓移植を受けて以降、あなたの身に起きた不思議なことすべてよ。包み隠さず、すべて残らず話してほしいの」

「……わかりました。別にいいですよ。まわりのみんなは誰も信じてくれなくて、ムシャクシャしてたし。それで何かの役に立てるなら」

「まずは幽体離脱について聞かせて」

 タイニーはそのときの体験を事細かに語ってみせた。内容は事前に伝え聞いていたものと特に違いはない。何も知らない人間が聞いたら笑ってすますような与太話だが、幽体離脱の実在を知る人間にとっては、かなり信憑性のある話だと思う。

 つまり、こういうことだ。ウィリー・ヒューズが透視能力者の角膜を移植して、その力を獲得したように、彼女も心臓を移植されたことで、超能力者になったのだ。

「それで、幽体離脱を今ここでやってみせることはできる?」

「いえ、できたのはあのとき1回だけで」

「そう。――じゃあ話を変えるけれど、新しい心臓になってから、ほかにも何か変化があったそうね?」

「はい、えっと……」タイニーが口ごもって、おれのほうをチラチラと見る。

「おれの顏に何か付いてるか?」

「いえ、そうじゃなくて」

「ああ、彼女のことは気にしないで。さっきは変なこと言ったけど、ただ男ぶりたいだけだから」

 ムキになって反論しようとしたが、ヘスターに視線で制される。

 ……なるほど、察しの悪いヤツだなおれは。ようするに、男の前だとしゃべりにくい話題ってわけか。

「この心臓になってから。なんだかいろいろおかしいんです。なんていうか、その――自分が男の人になっちゃったみたい、っていうか」

「具体的にはどんな?」

「例えば、美人の看護婦とか女医さんを見ると妙に興奮しちゃったりとか、のどが渇くと水よりもビールが飲みたくなったりとか、揚げ物とか脂っこいものが食べたくなっちゃったりとか。前はそんなこと全然なかったのに」

「あなたはそれが、移植された心臓に影響されていると考えているのかしら? ドナーの嗜好がうつってしまったと」

「だって、それ以外考えられないじゃないですか」

 嗜好は五感に左右される。食べ物の好物は味覚、イイ女に欲情するのは視覚。つまり嗜好とは精神ではなく、肉体に由来するってことだな。

「そうね。心臓移植を受けてあなたと同じような体験をした人は、けっして少なくないわ。ところで、そういう人たちのなかには、夢でドナーに会ったとか、自分のなかにドナーの魂が宿って、生き続けているのを感じるとか言う人もいるのだけれど、あなたの場合はどう?」

「うーん……そういうのは今のところない、ですかねェ……」

 それは当然だ。なにせ心臓を摘出した際には、すでにドナーの肉体は抜け殻だったのだから。ひょっとしたら、代わりにウィリー・ヒューズの魂がそこにいるかもしれないと思っていたが、それはなさそうだ。

「ただ……ドナーの魂は感じないですけど、心臓に意思のようなものを感じることはあります」

「それがつまり、魂ってことではないかしら」

「違います。上手く言えないけど、そういうんじゃなくて……自分のカラダのなかに、何か別の生き物が棲みついているような……。あたし自身の感情にたいして、心臓の鼓動が1歩遅れるんですよ。一体感がない」

「それはしかたないわ。心臓移植では血管をつなぐけれど、神経はつなぎなおさないで放置しておくから。主治医もそう説明していなかった?」

「それは、そうですけど、でも、そうじゃないんです。あたし、手術前はこんなじゃなかった。女の人に欲情するなんて、あたしが感じてるわけじゃない。この心臓が勝手に欲情しているんです。あたしじゃない。……こわくてしかたないんですよ。バカみたいに聞こえるかもしれないけど、この心臓がそのうちあたしのカラダを乗っ取って、あたしに成り変わってしまうんじゃないかって。あたしがあたしでなくなるんじゃないかって」

 身につまされる告白だ。この娘は、おれとまったく同じ恐怖を抱いている。自分が自分でなくなるかもしれない恐怖。ある意味、死よりも怖ろしい。

「落ち着いて。あなたが心臓に恐怖を抱くのは、なぜ心臓のせいでそんなことになるのか理解できていないから。チャント理解すれば、その恐怖は消える」

「理解? 何を理解するっていうんですか。心臓なんてしょせん全身に血液を送るためのポンプでしょ。たかが筋肉のカタマリでしょ。主治医の先生もそう言ってた。きっとあたしが神経質になってるだけなんだわ」

「その認識は正しいわ。拒絶反応を起こすのが心臓ではなく、異物に反応したあなた自身の免疫機能であるように、あなたの精神が心臓に過剰反応しているの。心臓に影響されているという点で、原因は心臓に違いないけれど、今の事態を引き起こしているのは、あくまであなた自身よ」

「ええ、わかってます。そんなことは。ホントは誰に言われなくてもわかってるんです。結局、あたしが弱いからいけないんだって。あたしの心が、弱いから。せっかく強い心臓が手に入ったって、これじゃア何の意味もない」

「それよ。自分を弱いとなじるその卑屈さこそが、まさしくあなたが恐怖に囚われる原因」

「だから、そう言ってるじゃない!」

「いいえ。全然違うわ。問題はあなたの弱さそのものではなくて、あなたが自分の弱さを殊更恥じていること。そして強い心臓を手に入れたという事実が、その気持ちを強めている」

 おれのときと同じだ。こちらの言い分を全面的に否定したうえで、正しい認識をすり込んでくる。この女の話術におれも丸め込まれたのだ。

「あなたの今の状態は、ディドロ効果で説明がつくわ」

「ディドロ効果? 何それ?」

「知らなくてもムリないわ。経済学のマイナーな概念だから。意外に思うかもしれないけれど、経済学というのは心理学よりも、はるかに人間の心理を簡潔に解き明かしてくれる。というか、わたしは心理学なんて信用していないし、その専門家を気取る心理学者はさらに胡散臭いと思っているけれど。一流の精神科医になりたかったら、心理学よりも経済学を学ぶべきと言っても過言ではないでしょうね」

「そ、そうなんですかァ……」

「話を戻すわ。それでディドロ効果のことだけれど、これはグラント・マクラッケンが提唱した概念で、作家のドゥニ・ディドロのとあるエッセーに由来するの。ある日ディドロは友人から贈り物として緋色のドレシングガウンをもらった。ディドロはうれしくなって、もともと持っていた“ぼろになった、みすぼらしい、心地よい、古いラッパー”を捨てたのだけれど、問題はここから始まった。“ドレシング・ガウンが到着して1週間か2週間後、ディドロは机がまったく標準にも充たないと思い、それをとりかえた。すると書斎の壁のタピストリがちょっと傷んでいるようにみえ、新しいのをみつけなければならなかった。しだいに、椅子、版画、本棚、時計をふくめて書斎全体が判定され、不充分とわかり、とりかえられた。”この話からマクラッケンは、“個々人を、彼/彼女の消費財補完体全体に文化的一貫性を保つよううながす力”を、ディドロ効果と名付けた。もう少しわかりやすくいうと、新たに手に入れた物品に合わせて購買欲を促進する力――といったところかしら」

「ごめんなさい。あたしには難しすぎて……もうチョットだけわかりやすく説明してもらえると……」

「つまり、これをあなたの場合に置き換えると、新たに手に入れた強い心臓に合わせて、あなた自身がふさわしくなろうと欲してしまっているということ。女性に対して情欲をかきたてられたり、男が好みそうな飲食物に食欲をそそられたりするのも、ようするにディドロ効果によるもの。そしてディドロ自身がそうであったように、不相応なものがすべて取り換えられ、きっかけとなった物品との統一がなされたとき、ディドロ効果は停止するわ。むしろ逆に、統一性を保つために働くようになる。また別の物品を手に入れることで起こり続けるローリング・ディドロ効果とか、統一するために手に入れた物品に基準が置き換わり続けて延々と終わらないスパイラルな状態も起こりえるけれど、あなたの場合は心臓という強い基準があるから、過激化する可能性は低いでしょう」

「……ようするに、あたしはやっぱり変わってしまうってことですか? 今までのあたしじゃなくなっちゃうってこと? もうもとには戻れないの?」

「そうね。ディドロ効果にはラチェット的な機能がある。基準の物品より下回る価値の物を許さない力が。そして統一が完了するまで、けっして止まることはない。けれどカンチガイしないで。これはあくまで、心臓の強さに見合う自分になろうとする、あなた自身の意志であり努力なの。変化をおそれてはいけないわ。あなたは別の誰かになってしまうわけじゃない。今より強いあなたになるの。だから安心していい。あなたはかならず強くなれる」

 タイニーの口から嗚咽がもれる。

「……あたし、心臓のせいで自分が自分でなくなるなんて、そんなこと考える自分が嫌だったんです。せっかくドナーが犠牲になってくれて、心臓を提供してくれたっていうのに。残り半年の余命から解放されて、うれしかったはずなのに……そんな、恩を仇で返すような……でも、違ったんですね。あたしはこの心臓に、チャント感謝できるんですね。頼りにして、いいんですね」

「ええ。あなたはその心臓とともに、これからずっと生きていくのだから」

「ああ、よかった――」

 緊張の糸が切れてしまったのか、タイニーは幼い子供のように泣き崩れた。こういう姿を見ると、彼女に心臓を提供できてよかったと思える。

 だが、一方でおれは知っている。おれが疑似透視アナザーマン・アイを維持するために、たかが移植された角膜1枚守るためだけに、多大な時間と労力をしいられるということを。免疫抑制剤の影響で感染症になれば、拒絶反応に怯えながらも投薬を中止しなければならない。おれの場合は透視と片目の視力をあきらめれば済む話だが、彼女は心臓だ。拒絶反応が即、死に直結する。新たにふたたび移植手術を受けられる保証もない。彼女はかぎられた余命から解放された代わりに、いつ炸裂するかわからない爆弾を背負うハメになったのだ。

 いずれ本当の意味で、彼女はおれの心臓を恨む日が来るかもしれない。

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