024
あれから半年以上の月日が流れた。
ウィリー・ヒューズは、今も無事に延命を続けられていた。人工呼吸器を取りつけられ、点滴で栄養を補給して。心電図モニターは一定の間隔で波打ち、心臓がチャント鼓動していることを伝えている。チューブだらけのスパゲッティモンスター。
そして、彼の腹は大きく膨らんでいる。まるまると。風船のように。妊娠しているのだ。
胎児は順調に成長している。母子ともに健康だ。先日のエコー検査によると、どうやら女の子らしい。
あと4ヶ月ほどで出産予定日だ。そのときがくれば、すでに壊死しているはずの脳――視床下部で合成される子宮収縮ホルモンによって陣痛が始まり、放っておいても自然に分娩されることだろう。
ヘスターはウィリー・ヒューズの腹を、優しく手でさする。労わるように。動物をあやすように。
「ねえ、ウィル。わたし、あなたの代わりに、この子の名前を考えてみたわ――マーガレット。マーガレット・ヒューズ。イギリスの舞台に初めて登場した、女優の名前と同じ。シェイクスピア劇を女性で最初に演じたのも彼女。あなたの娘にピッタリだと思わない? まァもっとも、彼女が演じた役は『オセロー』のデズデモーナだから、あんまり縁起がいいとは言えないけれど。むしろ最悪だけれど」
手でさするのをやめると、今度は腹の上へ顔を近づけて、自分の耳を押しつけた。何かを聞き取ろうとしているように。目を閉じて。
「かわいいかわいい赤ちゃん。小さなお嬢ちゃん。わたしはあなたを祝福するわ。あなたのためにこの歌を送りたい。わたしが好きな日本人の作家、その代表作の冒頭に記されている歌なの。シェイクスピアではないけれど、あなたもきっと気に入る。だって、あなたのことを歌っているようにしか思えないんだもの」
耳元で愛をささやくように、舌で凌辱するように、刃物で刻みつけるように、ヘスターは歌う。その歌を――。
「胎児よ
胎児よ
何故躍る
母親の心がわかって
おそろしいのか」
マトリクスドリーム 木下森人 @al4ou
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