第二十二話 密談
同日、私は信濃大学附属病院の中を歩いていた。
洋が約束を守らなかったことに腹をたてていた。
厚手の、内貼りが起毛したスリッパがぺたぺたと微かな音をたてる。
そのままの勢いで四人部屋に入った。
「あれだけ個室にして下さいとお願いしたのに、約束を守って頂けなかったのですか」
「あ――」
目の前でぐるぐる巻きにされた男が、すまなそうな声をあげる。
「いや、その、ちょっと手持ちが――」
「そのくらい私がなんとかします!」
「やあ、もう夫婦喧嘩かね」
隣のベッドに腰を下ろしていた中年男性が、にやにやしながら言った。
「違います! まだ夫婦じゃありません」
「ほう」
「ほう」
「ほう」
同室の男たちから声があがる。私も自分が言ったことの重大さに気がついて赤くなった。包帯の奥からも忍び笑いが聞こえる。
「先生に掛け合ってきます」
男たちの、
「頑張れよ―」
という声を背中に受けながら、私は病室を後にした。
柔らかい日差しが差し込む廊下を歩く。最初の勢いが次第に姿を消していき、歩みが遅くなる。
発見された時、洋は心肺停止寸前の危険な状態だった。そして、どうしたらそうなるのか分からないほど、手や足に骨折やひび、打撲の跡が無数にあった。
神条が抱えだしてヘリに載せると、そのまま信濃大学付属病院まで直行した。
屋上ヘリポートから集中治療室に運びこんで、全身におよぶ凍傷の処置や点滴が行われる。そして、そこで同時に右腕に筋弛緩剤が投与された。
なぜなら、そうでもしなければ右手が開かなかったからだった。
私は自分の掌の中にあるバッチを見つめる。
彼が大切に握りしめて、意識を失っていても決して手放そうとしなかった私との大切な約束の品。
正義の味方だと思っていた人からもらった、正義の味方の証。
正義の味方が命を懸けて取り戻してくれた、正義の味方の証。
財布の中に大切にしまうと、私は病院の事務にかけあうべく、足を速める。
なにしろ、個室でないと恥ずかしくて彼に愛を語ることができない。
*
話は少しだけ遡る。
笠井清は、洋の枕元で彼にしか聞こえないぐらいの声で言った。
「死なないだろうとは思っていたが、ずいぶんやられたなあ」
「すいません。さすがに大変でした」
包帯の向こうで洋が苦笑する。
「――これじゃあ無理だなあ」
「――そうですね。私もそう思います」
「簡単に言うなよ」
「はあ、すいません」
「いくら寒いからといっても、手刀で薪づくりしちゃいかんわな」
「……」
「しかも、集めるのが面倒だから足で立木を折る、というのも限度があるわな」
「……」
「医者に聞いたら、まあ治るだろうが多少の後遺症は残るかもしれないという話だし」
「……」
「さすがに帝釈天の修行を続けるわけにはいかんわな」
「……」
「……というのはまあ、表向きの理由として。何か言えよ」
「はあ、すいません」
「家のほうは俺がなんとかするから」
「構いませんか」
「どうせもう決めたんだろ」
「はい」
洋はしっかりとした声で宣言する。
「ここで彼女の正義を守ることにします」
「どうしてそこまで肩入れすることにしたんだよ」
「そう、ですね――」
しばし、頭を整理しているらしい間があいて、洋は答えた。
「最も困難な道を最も困難な方法で歩む、その覚悟を見たからです」
「まあ、そうだわな。不器用だし、危険だし。誰かが見守っていないとダメになるわな」
清は続けて言った。
「最終的に、我々の障害となる可能性もあるしな」
パパは覆面作家 第四章 カンビュセスの籤 阿井上夫 @Aiueo
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