第二十一話 再会
山の天候はなかなか回復せず、救助が再開されるのを待つ日が続いた。
笠井清はその間、松本市内のホテルに滞在し、対策本部が置かれた松本警察署に毎日顔を出していた。三笠さんも途中までは一緒だったが、清に説得されて渋々ながらも帰っていった。
宿の御主人も現地を熟知しているという理由から、日中は対策本部に常駐している。
そして私は――かなり無理を言って、清に同行させてもらっていた。
普通はそんな話は通らない。私が「関係者である」というのは無理があるし、宿の正式な従業員でもないから、そちら方面から攻めることもできない。
にも関わらず、理由はよく分からないものの、清に同行して警察署に通うことが黙認されていた。
清にその件を質問したところ、
「ああ、俺が話をしておいた」
と、特段のことでもない言い方をされたが、誰に何をどう話をしたのかは分からない。
ともかく、私は何もできないままで、警察署のパイプ椅子に座り続けた。
*
宿の御主人が警察官に質問されている。
「避難された時点で、食料や燃料はどの程度残っていましたか」
「宿なのでもちろん数日分の食料や燃料は備蓄するようにしておりましたが、なにぶんにも急なことだったので、ほとんどの備蓄品は使い切っていました」
御主人は申し訳なさそうに言う。
「食料は成人男性の二日分程度。燃料については食堂の石油ストーブを出来る限り控えめに使ったとして、やはり二日分ではないかと思います」
避難してから五日たつ。すると物資は既につきてしまったものと考えてよい。
「非常用の代替品は何かありますか」
「そうですね――食料は乾物がなんとか使えるかもしれません。燃料についてはロビーに薪ストーブがあります。煙突は通っていますが、今ではインテリアでしかありませんので、薪の準備はありません。周囲の山から調達するにしても、今では斧なんかも置いてありませんから、薪にすることができませんし」
警察官と御主人が黙り込む。
後は洋が何か非常食を持ち込んでいることを期待するぐらいだが、私は彼が簡単な手荷物程度でやってきたことを知っている。
十分な装備のない冬山での遭難は、極めて生存確率が低い。
しかし、清はいつものように飄々としていた。
「それなら大丈夫だよ」
「息子さんは登山の経験はあるのですか。例えば冬山装備を携行していたとか」
警察官がその様子を不思議そうに見つめながら、質問した。
「それはない。あいつは山に行く時は持ち物を最小限にするようにしていたからね」
「それはなぜですか。一般常識では逆だと思いますが」
「そうだなあ」
清は右の眉を少しあげる。
「簡単に言うと動きが制限されるのを避けるためだね」
警察官と御主人はとまどった顔をした。
私は、洋と一緒に行動する中で、実際には彼が山での行動に熟達していることを知っていた。また、古武道の伝承者として、それなりの修行を積んでいることも知っていた。
だから、彼にとっては装備を持っていく不自由さよりも、その場で調達することの自由さが重要であることも、なんとなく理解はできた。
しかし、今回の相手は冬山である。調達できるものは限られている。
警察官が頭を捻りながら立ち去り、宿の御主人が奥様への定時連絡のために席を外したところで、私はその疑問を清にぶつけてみた。
「あの、いくら山岳信仰の流れをくむ流派だからと言っても、冬山で装備なしの状態は過酷すぎるのではないでしょうか」
「心配いらないよ」
「でも、食料と燃料がつきた状態で冬山遭難している訳ですから」
「まあ、普通はそう思うわな」
清は眼を細めると、相変わらずの『象の笑顔』で言った。
「自分の命だけを長らえさせるだけならば、そんなに多くのものは必要ない」
私は清の物腰に圧倒されてしまったため、その時、その言葉の裏にあることに気がつかなかった。
*
避難してから一週間が経過したところで、やっと天候が回復する兆しを見せ始めた。
橋が落ちたことにより、陸路でのアプローチは谷を大きく迂回しなければならない。一週間の積雪がさらに困難に拍車をかけていた。
風さえ収まればヘリの出動はできそうだと警察官は言っていたが、宿の周辺はかなりの積雪となっており、着陸する場所があるのかどうかも怪しい。
ともかく現地の状況把握と生存確認のために、山岳遭難救助隊のヘリがスタンバイを始めていた。それにともない、清と御主人、そして今回も清が口添えをしてくれたらしく、私も松本空港で待機する。
そして、そこで神条と話す機会が出来た。
「あの時は申し訳なかった」
神条の端正な顔立ちに疲労が色濃く滲んでいた。
目の下の隈も濃い。
「謝るのは私のほうです。いろいろ皆さんに神経を使わせてしまって」
私はもうすべてを理解していた。洋や神条の判断が、あの時点では最も合理的であったことや、自分一人の正義感だけで行動したところで、状況を悪化させる以外の何もできなかったことを思い知らされていた。
「課題は十分に理解できました」
「そうですか」
「残念ですが、私にはカンビュセスの籤は引けませんし、引かせることもできません」
私はことさらに背筋を伸ばして、言った。
「皆さんのことは凄いと思いますし、私にその覚悟ができないことは、私自身の弱さによるものだと思っています。だから、私は別な方法を考えたいと思います」
「別な方法――ですか?」
「はい。だから彼にもう一度会わなければいけません」
神条への想いはあまり変わっていない。やはり凄い人だと思う。
まさかそれを上書きするような人間がいるとは思わなかった。
「私を騙したことを謝ってもらって、それから教えてもらうつもりです」
「何をですか」
「どうしたら貴方のように正義を貫くことができるのか」
*
松本空港を離陸したヘリは、不安定な大気の中を飛行していた。
ときおりすとんと高度が落ちたり、ぐらりと機体が横滑りしたりする。そのたびに操縦士が大きく体を揺すりながら立て直していた。
私はヘリに同乗していた。
正直、ここまで認められるとは思ってもいなかった。駄目元で、
「現地の様子は積雪で様変わりしているはずだが、私の瞬間視であれば捜索の役に立ちます」
と言ってはみたものの、所詮は現役高校生である。本格的な山岳救助に参加できる訳はないと思っていた。
しかし、これもどうやら清の口添えがあったらしい。
「あの老人は何者なんだ」
と、神条もこの超法規的措置を訝しんでいた。県警本部のはるか上のほうの意向らしいことはわかるが、清との接点が皆目見当がつかない。
ともかく時間がないので、細かいことは後で考えることとした。
ヘリの挙動は正直怖かったが、それよりも現場の様子が気がかりでならなかった。
既に十日が経過している。宿に備蓄されているはずの食料や燃料は、どう考えても一週間前には尽きている。
この状態で「洋が生存している」ことを前提とした救助活動を展開していることも、常識ではありえない。にもかかわらず、本件に関わっている者全員が洋の生存に疑問を持っていなかった。
これは偏に清の「大丈夫」を信じていたからである。
破壊された橋が見え始めた。積雪に覆われてはいたが、橋の名残や橋脚の痕跡ぐらいは分かった。
それにしても思ったより雪が深い。これでは民宿付近の駐車場に着地しての救助活動は困難である。
隊員がホイストで垂直降下しての救助となれば、人手も、燃料の問題からかけられる時間も大幅に制限される。
状況を見て取った神条とホイストオペレータは、既に降下準備を始めていた。
私は記憶の中にある水平方向からの民宿の姿を、三次元に置き換える。
山の斜面の角度とそこからの位置関係から、丹念に道路の配置を決め、民宿までの経路を脳内に構築する。そして、その道路が延びて行く先を現実の視界と重ね合わせて――
唖然とした。
「神条さん!」
「どうした」
「着陸して下さい」
「どこに?」
「あの、雪が平らにならされている部分に」
「どこだ?」
「指示しますから、それに従って下さい」
「問題はないのだな」
「ありません」
神条が強い視線で私を見つめる。
私はそれをさらに押し返すような気持ちで見つめる。
私のような能力がなければ、上空から見ていただけでは分からない。
ということは――
「彼は私が来ることを想定して準備していました」
神条は躊躇しなかった。
「降りるぞ」
ヘリが降下するにつれて状況が分かってきた。
ヘリ一機分のスペースが除雪されていた。
しかも、他の場所との比較から二日ぐらい前まで。
胸が痛む。
それが何を意味しているのか。
ヘリが着地するかしないかのところで、私と神条は機外に飛び出した。
民宿の大半は雪に覆われており、堆い山になっている。
救出に時間をかけることはできない。
「笠井さーん」
名前を読んでみるが反応はない。
動けるのであれば、ヘリが着陸した時点で姿を見せているはずだ。
洋はどこにいる?
探している時間はそんなにない。
可能性が一番高いのは、私が使っていた部屋だ。
正面玄関が、こちらも二日前まで除雪されていた痕跡がある。
そこから走りこんだ。
御主人には申し訳ないが凍った扉を開けている時間がもったいない。
神条がバールのようなもので人が入れるように破壊する。
土足のままロビーに駆け込む。
吹き込んだ雪が舞い上がる中、板の廊下を走った。
部屋に駆け込む。
布団が堆く積み上げられている。
そしてその中に――
*
暖かい。
世界が白い。
体がふわふわと浮いているようだ。
頭がぼんやりとしている。
手足の痛みも消えている。
ああ、これはいけない。
どうやら約束を守ることはできなかったようだ。
洋は苦笑した。
*
三日後のことである。
笠井清はやっと仙台に帰ることになった。
依然として彼は飄々としており、駅まで見送りに出た警察官に次のように言ったという。
「息子がこの地に骨を埋めようとしているのを止められなかったよ」
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