第三話 講演
高校に入学するやいなや、私はある計画を実行に移すことにした。
長野県松本市にある深志第一高校では、文化祭で地域出身の文化人や著名人による講演会を開催している。
かつ、その講演者を決定する権限が基本的には生徒会に委ねられていることを把握した私は、まずは生徒会に潜り込むべく、書記の選挙に自薦で立候補した。
小説世界でなければ、普通は生徒会には誰も興味を示さない。対抗馬もなくまんまと生徒会に潜り込むことに成功した私は、秋に行われる文化祭に向けて、会長および副会長の洗脳に取り掛かった。
まずは、長野県の最大の観光資源であるところの北アルプスとそこを訪れる登山客の皆様に対して、長野県内の高校に通学する者としては、安全についての啓発活動を行なうのが当然ではないかと演説をうった。
前の世代とは違った特色を出したい生徒会長にとって、その提案は非常に魅力的に映ったようで、初夏に「駅前での安全啓発活動」という軽い実績を作るにはさほど苦労することはなかった。
また、この活動は市民タイムスの格好のネタとなり、記事となった。こちらの思う壺である。
続いては実地訓練。事故が発生した際の応急措置について、こちらは救急救命であることから松本消防署の協力を得て、研修会を開催した。
こちらも市民タイムスの記事となり、深志第一高校の特徴として大いに喧伝されたわけだが、今回はさすがに「高校生が応急措置をする機会はあるのか」という疑問の声があがった。
そこは「もしあったらどうする」と、なかば強引に押し切る。
こうして、現行生徒会の行動方針が「地域とそこを訪れる観光客の安全を推進する活動」ということになったところで、最終目的を繰り出した。
*
その日は朝から気合が入っていた。
前日までの深夜に及ぶ文化祭の準備もなんのその、起き上がった直後にバスルームに飛び込む。
母親の「朝から何ばたばたやってるの」という声を聞き流しながら、体中を泡だらけにして磨きに磨く。歯磨きも三回繰り返した。
これぐらいやれば皮膚も最新のものに更新されただろうというぐらいまでこすりあげて、自室に戻り、今度は念入りに化粧をする。
とはいっても高校生のことなので、無駄毛を念入りに刈り取ったり、制汗剤を振りまいたり、髪を念入りにとかしたりするぐらいなのだが、いつもは数分で片づけるところを一時間かけた。
長い黒髪をポニーテールにまとめるために、いつもの武骨な黒ゴムではなく、赤いリボンを準備してあった。
制服を着たところで、鏡の前で一回転する。
(よし、完璧だ)
*
壇上に神条が向かう。すっきりと伸びた背中と筋肉質であるにもかかわらず滑らかな動きに、男女を問わず感嘆の声があがる。
「本日はお呼び頂きましてありがとうございます。長野県警察山岳遭難救助隊の神条と申します」
張りのある低音でそう言うと、深々とお辞儀をする。
「さて、私の仕事の話をする前に、まずは質問です」
いたずらをする前の子供のように微笑む。つられて生徒の中からも「えーっ」という声が上がった。
「そんなに心配しなくても結構ですよ。長野県に年間でどのぐらいの登山客が来ているかという質問ですから。ではまず、年間五万人ぐらいだと思う方は手を挙げて下さい。ちなみに長野県諏訪市の人口が五万人ぐらいです」
数人が手をあげる。
「有り難うございます、手を降ろしてください。それでは続いて、年間十五万人ぐらいだと思う方は手を挙げて下さい。ちなみに関ヶ原の戦いで東軍と西軍を併せた武士の数がだいたい十六万人ぐらいです」
今度はさきほどよりも多くの生徒が挙手したが、大半はまだ様子見だ。
「有り難うございます、手を降ろしてください。なかなかしぶといですね。それでは続いて、年間二十五万人ぐらいだと思う方は手を挙げて下さい。ちなみに、松本市の人口が二十四万人ぐらいです」
松本市の人口と聞いて、かなりの数の生徒が手をあげた。
私はまだ手を挙げていない。
「さすがに大勢の方が手をあげましたね。降ろしてください。では、それ以上と思う方は挙手願います」
私は勢いよく手を挙げた。他には手を挙げそびれた十数人が、おずおずと手を挙げただけだったので、私の勢いは目立ったらしい。神条が(ほう)という顔で私のほうを見た。顔が赤くなる。
「なかなか元気な方がおりますね。では、そちらの方にどのぐらいの数か聞いてみましょう」
マイクがやってくる間、神条が暖かい視線で自分を見つめている。まずい。顔が赤くなって、鼓動が激しくなっている。
マイクが手渡された。
「さて、どのくらいだと思いますか」
「はっ、はい。あの、一九九〇年の登山客数が約五十万人で、最大が一九七〇年代の百万人です」
声が上ずる。大声すぎてスピーカーからハウリングが漏れた。
百万人と聞いて、観客からひときわ大きい驚きの声があがる。神条が苦笑いしているのが分かった。
(しまった、余計なことを言い過ぎた)
と思ったがもう遅い。
「まさかご存じの方がいるとは思いませんでした。正解です。有り難うございました」
私は正解したにも関わらず、悄然と腰を降ろす。
「しかも一番おいしいところを先に持っていかれてしまいましたね。その通りです。長野県の山岳地帯は最高で年間五十万人から百万人が訪れる地域なのです」
言葉が浸透するのを待つように、神条は少しだけ間をあけた。生徒はおのおの、松本市の人口の二倍から四倍の登山客が、長野県の山岳地帯を訪れているところを想像する。
その様子を満足そうに見つめた神条は話を続けた。
「本日はとても素直な聴衆のようで、非常にありがたいです。ではもう少しだけ長野県の話をしましょう」
*
以下、神条の話を要約する。
長野県で発生する山岳遭難は年間で約百件。死者は三十名前後になる。
登山者の九割が県外の方であり、どうしても『せっかく長野県までやって来たのだから、行けるところまで行ってみよう』と無理をして遭難することが多々見られる。
また、昔は山岳部だった方が体力を過信し、往路は良くても復路で力尽きることがある。事故が起きるのは圧倒的に下山中が多い。
また、遭難者は圧倒的に男性が多い。登山者自体、男性が多いのだが、それ以上に避難者数の割合は大きい。おそらく男性の方が無理な行動をする可能性があるからだろう。
遭難の原因としては「転落や滑落、転倒」などが多いが、病気による遭難、特に心臓疾患での遭難が見られる。ほとんどが高齢の日帰り登山客で、普段は特にトレーニングをしていないと思われる方が多い。
登山は慎重に計画し、事前に体調管理を万全に行う必要がある。
そして、山という巨大な自然に挑みかかる以上、どんなに短時間で高度の低いものであって、遭難を想定することは必要だ。
万が一の非常食はもちろん、紐や小さなスコップでも持っていれば役に立つことがある。しかし、最低限の準備すら怠っている登山者は多い。
*
山岳遭難についての概要を説明し終えると、神条は少し水を飲んで間合いをあけた。話が変わるらしい。私はさきほどの失敗をとりあえずわきに置いておいて、背筋を伸ばす。
「さて、長野県警察山岳遭難救助隊は、昭和二十九年に『長野県警山岳パトロール隊』として発足しました」
こころなしか神条の背筋も伸びる。
「その名の通り長野県警察本部に属しています。実際の救助にあたる救助隊員ですが――」
神条は壇上から穏やかな視線で語りかける。
「実は正確には機動隊員なのです」
生徒の中から驚きの声があがった。
機動隊というと、暴動やデモがあった時に最前線で金属製の盾を構え、ヘルメットや防護服を着用している姿がすぐに浮かんでくるが、檀上の神条からはそのような威圧的な雰囲気はしない。
「隊員は二十名後半から三十名前半で推移していますが、そのうち隊長、副隊長、女性隊員二名は、警察本部の地域課に所属しています。松本空港には航空隊二名が常駐しており、ヘリコプターでの救助を担当します。そして、機動隊員が実際の救助活動の中核となっています。他に地域別担当として茅野署、駒ヶ根署、安曇野署、大町署に隊員が勤務しております。ゴールデンウィークや夏山期間中といった登山シーズンには涸沢や白馬岳、常念岳、唐松岳などに隊員が常駐しています」
神条はいったんそこで言葉を切り、観衆を見回した。
「何名かの方はお気づきのようですね。そうなんです。長野県警察山岳遭難救助隊は組織としては常設ですが、事件がなければ隊員は通常の業務に従事しているのです。日本国内で常に隊員が待機している山岳救助隊、正確には山岳警備隊という名称ですが、これは富山県警にしかありません。地域課に属する隊員は市街地での勤務日がありますし、機動隊から選抜されている隊員は、普段は機動隊の任務についております。もちろん、長野県警は出動頻度が高いため、訓練などの頻度は多いのですが、常に山で待機しているわけではありません」
*
以下、神条は警察の山岳救助隊について語った。
警察の山岳救助隊は、遭難時の救助活動が最大の設置目的ではあるものの、警察である以上、治安維持や交通安全が本来の業務となっている。
従って、登山道の危険な場所を発見したり、入山届を受け付けたりすることも業務に含まれる。
変わったところでは、高山植物の無断採集を取り締まることも警察官としての職務の一部なのだ。
そのような山での職務の他に、警察官としての通常業務を遂行しながら、山岳遭難救助隊員は緊急自体の発生に備えており、第一報が入った途端に、山岳遭難救助隊としての活動に専念することになるのだ。
(携帯電話の普及により、現在であれば遭難者の位置を探し出すことも比較的容易になったが、携帯電話のない時代は)山荘からの電話や無線が第一報のほとんどであり、まずは遭難者の現在位置を確認することになる。
ヘリコプターによる上空からの視認がまずは考えられるが、冬山であれば雪崩の可能性や、地上班の行動に影響を与えることも考慮しなければならない。
天候が良くて条件が整っていれば、ヘリによる救助動が一番迅速であるが、そうでなければ近くまでヘリや車両にて移動し、その後は徒歩で現地に急行することとなる。
遭難現場は、事故が発生していることからもわかるように、そもそも安全なところではない。
また、遭難者の現在位置が不確定であったり、ヘリでの救出が困難である場合には、人海戦術をとらざるをえない。
警察の救助隊は公費で出動しているが、警察から民間の救助隊に協力要請を出さなければならない規模になると、民間救助隊の費用は遭難者(またはその親族)の負担となる。
救助の規模と期間によるが、保険に加入していなければ数百万円は覚悟しなければならない。
*
神条は最後のしめくくりとして、改めて姿勢を正すと、次のように語った。
「山岳遭難救助隊員は遭難者の命を救うために、夜間や雨天であっても出動します。それは本人もさることながら、帰りを待っているご家族のためでもあります。しかしながら、その山岳遭難救助隊員にも帰りを待っている家族がおります。ですから、すべての安全と安心を守るために、登山をされる皆さんにも登山中の安全について考えて頂きたいと思っています」
神条が頭を下げると、場内からは強制されたわけではない自然な拍手が沸き起こった。
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