第十六話 誰かの休日
俺の記憶が確かならば、今日は金曜日だが「バイトの休日」のはずだ。
そして明日の土曜日も休日のはずだが、婆さんから用事を言いつかってしまい、日野のバス停からアルピコ交通の高速バスに乗って、松本方面に向かっている。
何で中華料理屋のバイトでしかない俺が、こんなことをしなければならないのか。意味が全く分からない。
電話で兄貴にぼやいたら、確実に「それはお前の宿命だろう」と穏やかに笑われるに違いないが、だいたい俺がこんなことをやっているのは、兄貴が無理をして怪我をしてしまったせいだと思う。
いや、まあ、かなり遠い原因だが、そういうことにしておこう。
高速道路は金曜日の渋滞で都内を抜けるのに時間がかかったらしい。日野のバス停で三十分遅れていた。到着は予定では二十二時四十分だったが、二十三時を超えるだろう。
婆さんに無理を言って駅前のスーパーホテル代を出させたのは正解だった。夜中に兄貴の家に顔を出すのは申し訳ない。
明日の早朝の用事をさっさと済まして、午前から午後にかけて兄貴の家に寄ってから帰ろう。
この間はあの女のせいで散々な目にあった上、時間もないからとんぼ返りだったしな。
さて、次は中央道の双葉サービスエリアで休憩のはずだから、そこでコーヒーかお茶を調達しよう。
*
長身の彼には不幸なことに、高速バスの席が車の中央部の「五B」しか残っていなかった。
窓側の「五A」には飲み会帰りらしい太ったサラリーマンが座っており、いびきをかいて寝ている。
前の「四B」は中年女性が座っていたが、新宿から乗り込むなりリクライニングシートを最大限に倒したらしい。日野で途中乗車した彼にはいかんともしがたかった。
後ろの「六B」からは性別や国籍からしてなんだかよく分からない人物が座っており、ぶつぶつとした囁き声が聞こえてくる。
にもかかわらず、着席するや彼はのんびりと寛いだ。
元来、彼は周囲の状況がどうであっても影響されない。隣のサラリーマンが物理的にはみ出しているのならばともかく、細身の彼が座るには十分な空間が開いていた。
前の座席についても「空気を読むことができないという奇病に侵された可愛そうな女」で、後ろの席は念仏かなんかの愛好家だろう。
そう割り切ると彼は谷崎潤一郎の『陰影礼賛』を読み始めた。
途端に周囲は京間の薄暗い和室となり、目の前には白味噌出汁の汁物が入った塗椀が現れる。
こんな休日も悪くないかもしれないと彼は思っているようだが、彼の次の次の災厄はこの時点で既に種が巻かれて発芽寸前だった。
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