第八話 山田家の休日
「きゃっ」という声が聞こえた。
続いて、アルミ製らしき器が雪崩落ちる音が続く。
いつものことである。
意識の十分の一を音に振り分けて、陶器の割れる音がなかったことを確認した山田幸一は、ごく自然に「そのまま流す」ことにして意識を目の前の雑誌に戻した。
これは山田家においては反射神経といってよい。
この家に住んでいると、脳の特定部位におけるシナプス連合が、瀬戸大橋を支えるワイヤー並みに太く、超高密度の光ケーブルのように早くなる。
聡子も読書をやめていない。
(ちなみに幸一は、最近になって聡子が児玉水力の本を読む時に、必ずローマ字表記をマジックペンで消していることに気がついた)
ペトロニウスも目すらあけずに箪笥の上で香箱を作っていた。
(ちなみに幸一は、この「香箱」という表現が大のお気に入りである)
人間はともかく猫が動じないというのは本能としていかがなものかと思うものの、一方で人間に換算すると既に老人であるペトロニウスにとって安住の地であるという考え方もできる。
ただし、澄江が歩かなければという条件付きだが。
澄江の母親が既にそうであり、澄江の実家にお邪魔した時の祖母がそうだった。代々女系に受け継がれていたこの遺伝形質が、聡子に遺伝しなかったのは不思議だった。
澄江のお姉さんのほうにはしっかり受け継がれているようなので、どうも自分の遺伝形質の中にその機能を停止させる何かがあったらしい。
*
「お父さん」
「なんだい」
聡子が声をかけてきたので、幸一は答える。
「一度聞きたいと思っていたのだけれど、どうしてパパじゃなくてお父さんなの」
「ほう、やっとその点について審議する気になったのかな」
「審議ではなく素朴な疑問」
「なんだ」
「なんだじゃなくて」
「理由なんか。一目瞭然、ほれ、お父さんを一目見たら他の表現が当てはまらないことがすぐに分かるじゃないか」
聡子は嘆息する。
普段は論理的なくせに、なぜか自分のことになると非論理的になるのが幸一の癖である。
外見からいったら「パパ」「ダディ」が順当であることを決して本人は認めない。
逆に「親父」を強要されそうになったため、反対弁論と澄江の証人喚問でなんとか逃げ切ったほどである。
「トコちゃんちのパパのほうが、よほどお父さんぽいじゃない」
「ああ、あの人はなんでもOKだから」
幸一はそっけなく言う。
彼は洋に対して特に関心がないように見えるし、そのようにふるまっているが、その実、ものすごく気にかけていることは周囲にいるとバレバレである。
『お父さん』も、洋に対抗してのことではないかと思う。
聡子にとっては、幸一は幸一で極めて魅力的であり、自慢できる父親であると認識しているが、面白くないので本人には言ったことがない。
むしろ、澄江と共同で、幸一の対応心を煽るがごとく洋を賛美していたところ、いつのまにか気がついたら本気で賛美していた。
一方で覚めた意識が、洋と鞠子の関係に自分の入り込む隙間なんかないことを正確に測定している。
聡子の中には「自分A」と「自分B」がいて、二つの自分は共存している。
必要に応じて双方の主張を照らし合わせることもできる。
たまには鬱陶しく、たまに頼りになる。
自分Aがアクティブのときには、自分Bは右斜め上後方に控えていて、なにかあるとそこから若手芸人のように前に出てくる。
どうもこれは幸一とも共通しているらしい。
澄江に話したら、
「そんなの私にいるわけないじゃないの」
と、いっそ清々しいほどに大笑いされた。
*
ジンジャークッキーがいい具合に焼けてきた。
澄江はこの焼き上がり寸前の香ばしい香りと、焼きあがった直後のサクサク感が大好きである。
大好きだから、家族にすぐに食べてほしくてたまらない。
だから急いでリビングに運ぶ。
心はまっすぐにテーブルに向かっているため、たまにペトロニウスの尻尾に向かないことがある。
それだけである。澄江の心の中には面倒なものがない。
司法試験を受ける時にも、集中して必要なことを覚えたら合格した。
(他の人にそう言ったら、大変に怒られた)
弁護士となってからは、クライアントの話を最後まで聞いた後、その中に含まれる枝葉をちょっと取り払って、メインの物語を提示するようにしている。
それだけで喜ばれてしまうことがある。はて、自分はそんなに特殊なことはしていないんだが、と考えるが、長続きはしない。
まあ、喜ばれているんだからいいか。
澄江の基本はそれである。
*
いい香りがしてきた。
しばらくすると、またあのうるさいのが近づいてくるだろう。
まあ、すでに高いところにいるから大丈夫だが。
それにしても、さくさくしたやつはおいしい。
米よりは硬いが魚よりは硬くない。
たまにしか出てこないけど。
毎日作らないかな。
まあ、それだと飽きるか。
ペトロニウスは思う。
こういう休日も悪くない。
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