第九話 興味
作業開始は朝の七時だから、起床はどうしても六時前になる。
学校に行く時よりも早い時間に、最初のうちは体が悲鳴をあげていたが、それも四日で慣れた。
振動式の目覚まし時計で五時半に目を覚ますと、そのまま布団から這い出る。脳の血管と心臓に負担のかかるやり方だが、冬の信州ではここまで徹底しないと起きられない可能性がある。
空調のない室内は痛いほどに冷え切っており、枕元の着替えも強張っている。宿の御主人からはストーブの使用を持ちかけられたが、断ってしまった。
山荘ではそんなことは言っていられないかもしれないからだ。
大騒ぎをしながら着替える。いや大騒ぎをしないと冷たくて着替えができない。
なんとか服に体温が染み込むまで我慢すると、今度は顔を洗うために外に出なければならない。
カチカチに凍りついた手拭いを揉み解しながらドアを開けると、廊下をはさんで向こう側の窓から見える駐車場が全面――
深みのある白で覆われていた。
私が寝た後で降りはじめたらしい。雪が降ると耳の奥に響く音がするのだが、昨晩は気がつかなかった。駐車場にある車には十五センチほどの積雪がある。
長野近県のスキー客は宿泊せずに直接スキー場に向かうので、このような民宿には用がない。遠方からのスキー客は、移動にかなりの労力を割いているので、朝早くは起きてこない。
しかも布団内と室内の気温差は、慣れない者にとっては巨大な障害となる。従って、民宿の早朝は人影がない――いや、あった。
駐車場の片隅、木立によって積雪が妨げられ、除雪後の置場でもない空間があり、そこに誰かがいた。
こんな時間に起きるのは、玄関の雪かきを思いついた従業員ぐらいだ。しかもアルバイトはぎりぎりまで起きてこないから、御主人か女将さんだろう。
私は加勢すべく、外套を掴むと従業員用の玄関に急いだ。表玄関はあくまでもお客様用であり、除雪した後を乱すのも気が引ける。
裏側の目立たないところにあるドアに取りつくと、一気に外に向けて開く――どころか、外の積雪と夜間の凍結で、行く手を阻まれる。
おかしい。
では外の人影は誰だろう。御主人や女将さんであれば従業員用の出口はお湯で解凍された後で除雪までされているはず。誰もここからは出入りしていない。
すると正面玄関から出たことになる。従業員はそんなことはしないからお客様だ。まさか、予想外のことで早朝に到着したお客様だとすると、かなり危険な状態である可能性もなきにしもあらず。
私は正面玄関に取って返した。
*
正面玄関はわずかに除雪がされていた。入口のわきに除雪用のスコップが置いてあるので、誰でもそのくらいのことは可能である。
玄関を出て駐車場のある右手側に向かって小道が伸びていた。靴の跡が消えずに残っていて、その大きさから男性と推測される。
(足が予想外に大きい女性の可能性もあるか)
可能性の低いことはあまり深く考えすぎてはいけない。思考の迷路に入り込む前に私は足を踏み出した。
小道は整った幅で除雪されている。この丁寧さから雪国生まれであることが推測される。掻き出された雪は左右に均等に避けられている。これは珍しい。普通はどちらか一方に偏っている。
作業効率を考えると、そのほうが手っ取り早いからだが、一方方向のみ積み重なって、なかなか溶けにくくなる可能性もある。もし意図してやっているとすれば、かなり詳しい人間であると推測できる。
順を追って推測を積み上げて真相を見抜くことは、山岳救助においては遭難者の早期発見につながる。しかも、今回はなかなか順調だ。私の足取りも少しずつ早まる。
庭木によって視界が遮られているところを抜け、駐車場の向こうの木立まで見渡せるところまで出た。車の向こう側、動いているせいか部分的に見え隠れしている。
呼吸を整えて物音を立てないように近づく。
別に気づかれても問題はないのだが、命の危険性はないことがわかると、こんな早朝に外に出た目的のほうが気になってくる。
近づくにつれて、姿かたちから男性である確率が次第に高くなってくる。
(もちろん、安易な断定は禁物だ)
どうやら棒のようなものを持って、運動しているらしい。
(しかし、棒が曲がりくねっているのはなぜだろう)
外套は着ていない。セーターも着ていないようだ。
(全身から湯気のようなものが立ち上っている)
汗をかいて運動をしているようだが、冬山ではそのまま放置すると致命的である。私は声をかけようとして――
その人物に見覚えがあったので言葉を失った。
昨日やってきた「笠井」という名前の、居眠りをする熊のような男だった。それが今は、下に落ちていたらしい枯れ枝を振り回しながら踊っていた。
いや、踊っているように見えるだけかもしれない。
枯れ枝は上から下に垂直に落とされるかと思いきや、中途半端な位置で急に左に振られる。
振られる?
違う、そうではない。
振られたのではなく、男のほうが右に急に動いたのだ。枝の先は空間の一転に固定されていて、回転したかもしれないが点は動いていない。
続いて今度は枝が右に動く――先端のみ。手元のほうが今度は点で固定されたように空間上を動いていない。
先端と末端が交互に、空間の一点に固定されたかのような軌道を描いて、枯れ木は左から右へと流れている。それを見ているうちに私の方向感覚がずれ始めた。
船酔いに近い。平衡感覚が失われていくのが分かる。眩暈を起こして倒れる寸前――
私に気がついた男が、私のほうに駆け寄ろうとしているのが見えた。
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