第十五話 連帯
かすかな振動が伝わってきた。
私は飛び起きて身構える。
(雪崩か?)
それにしては時間が短いような気がする。カーテンを開けて外を覗き込んでみたが、真っ暗でまったく先が分からない。
枕元に置いた時計は朝の四時頃を指している。いつもよりも早いが、気になってもう眠れないだろう。
私は布団から抜け出すと、控えめに大騒ぎしながら着替えた。
民宿の玄関に向かうと、そこに人影があった。私はなんとなく予感がしていたので、後ろからそっと声をかける。
「笠井さん、気がついたんですか」
憎らしいことに、笠井はまったく動じることもなく振りかえって言った。
「蓮谷さんも気がつきましたか」
「はい、なんだか嫌な揺れでした。地震や津波にしては揺れている時間が短すぎるし」
「この辺の地形には詳しいですか」
「さほどではありませんが、暇を見ては散歩をしていますから」
「だいたいこちらの方角だと思うのです」
笠井は民宿の玄関から左四十五度くらいの方向を指した。
「そちらの方向には民宿に向かってくる道があります。さっきの振動による雪崩の心配もないと思います」
「ならば行ってみませんか」
よくみると笠井は、既に外套を着こんで帽子まで被っている。
「ちょっと待って下さい」
私は踵を返して部屋に外套を取りに行く。
頭の中に、お父さんと約束した三条件のうち「危険なことはしない」「変な男には近づかない」を破ることになってしまったという自責の念がこみ上げてきたが、なぜか怖いとは思わなかった。
真冬の夜中に見知らぬ山道を見知らぬ男と歩くことになるというのに、春先のハイキングよりも心穏やかだった。
笠井が懐中電灯を持ってきて周囲を照らす。
雪は止んでいた。しかし、昨日の夕方、寝る前に除雪したところは「周囲より窪んだ」程度にしか分からない。新たな積雪があったということだ。私は足元をスノーシューにする。
雪国育ちには御用達の、靴底に滑り止め金具がついたやつである。笠井の足元は一見するとなんともない靴だったが、彼は新雪の上で危なげなく歩きはじめた。
アイスバーンむき出しよりは新雪があったほうが歩きやすいのだが、それにしても無造作な動きに驚かされる。
「笠井さんは雪国出身ですか」
「宮城県仙台市ですから、ぎりぎり北国ですが雪はほとんど降りませんよ」
そう言いながらもハイペースで足を進めていく。
「それにしては雪に慣れているような」
「あ、これは古武道の修行の成果みたいなもんです」
いやいや、それはおかしいだろうと思いつつも、私は突っ込むのをやめた。意外なことに、笠井の歩きに私はついていくのがやっとだったのだ。
舗装したのかと見間違うような滑らかな路面の上を、笠井の後ろから追いかける。周りには民家もなければ街灯もない。笠井が持つ懐中電灯だけが周囲の闇から世界を切り出してゆく。
その姿を後ろから追いかけながら、私には疑問が一つ浮かんだ。
「笠井さん、道が分かるんですか」
「ああ、いえ。車道を辿っているだけですから」
笠井の進む方向を眺める。私にはどこからが車道で、どこからが道の外なのかが、すぐには判別できなかった。早歩きしながら頭の中で平面画像を立体画像に置き直してみる。
動きながらのメンタルローテーションに、いつもよりも長く処理時間がかかったが、彼が雪面のおうとつと、周囲の木々の枝の高さを手掛かりとして車道を判断していることが分かった。
真っ直ぐな地面で、横が三メートル、高さが二メートル程度の空間が確保されていれば、そこが車道である。
これだけのことを把握するのに、私の瞬間視とメンタルローテーションの能力を使っても三分はかかった。
「よく地面と木の枝の僅かな変化だけで、道路が分かりますね」
「おや、気がつきましたか。私にはあなたのその能力のほうが驚きです」
急いでいるはずなのに、笠井の声はやはり長閑に聞こえる。
「時間をかければ私にも分かりますが――」
途中で言葉を失う。
何か風景とは異質なものが感じられる。笠井もそうなのだろう。速度が少しだけ緩んだような気がする。
そして、その違和感の正体がまもなく分かった。
臭いだ。建築物が壊れたような粉末臭に、なんだかいがらっぽい薬品のような臭いが混じっている。それが歩く先から流れてきている。進むにつれて臭いが強くなることが分かる。
曲がり角を過ぎて前方が見渡せる場所まで来た時、前を進んでいた笠井が足を止めた。私はその隣に並んで前方を見つめ、そして沈黙した。
橋が真ん中から完全に倒壊、消失していた。
全体が三十メートルぐらいだったが、そのうち橋の三メートル程度がこちら側と向こう側に残っているにすぎない。
見事なまでの壊れ方に、私はしばらく呆然としていたが、やがてそのことが意味する事実に気がついた。
自然現象によって物はこんなに綺麗には壊れない。そう、人為的な何かがこの橋を壊したのだ。
笠井のほうを見ると、彼はいつもよりも厳しい目をしていた。
「なるほど。橋が爆破されたようですね。しかもこの香りは無煙火薬だ」
そうして、なぜか周囲の山々に懐中電灯の光を向ける。無論、闇に溶け込むばかりで何も分からなかった。
「戻りましょう。状況が分かったので宿の親父さんに報告して対応を考えないといけません」
「待ってください。それは必要だと思うのですが、その――」
「橋が爆破されたのに呑気に対策を考えていて大丈夫か、ということですね」
「そうです」
「大丈夫です」
笠井は即答する。
「根拠は」
「ありませんが、現時点で橋を爆破するに足る動機が誰にもありません。であれば、不発弾の誤爆など過去の遺物を疑うことのほうが合理的ではないかと思います」
「その根拠は論理的ではありません。だから私には完全には合意できないのですが、あなたを信じます」
「有り難う」
そして笠井が微笑む。私も急に肩から力が抜け落ちた。
「このことは皆さんには言わないほうがいいですよね」
「まあ、そうですね。振動を感じた人が他にいなければ、爆破ではなく自然倒壊だと無理やりこじつけることもできるかもしれません」
私はその言葉を聞いて笑った。
「なにか可笑しかったでしょうか」
「いえ――『もできるかもしれない』ではなく、『にする』だろうなと思ったものですから」
「ひどいなあ。私はそんなに口がうまいほうではありません」
そう言いながら笠井は鼻を掻く。私はその姿を見ながら考えていた。
(おそらく、その上手くない口調が真実味を増すためのツールの一つに違いない)
帰り道は私が先導して走ることにした。急いでいるので、私が転んでも分からない可能性があるからだと笠井は言う。
微妙に見くびられたような気がしたが、言い争っている場合でもないので、その通りにした。この時間になってまた雪が降りはじめたこともある。
来た時の足跡を逆にたどりながら、私は走った。笠井は私のすぐななめ後ろを走る。後で気がついたのだが、転んだ時に助けることができるような、絶妙な間合いであったと思う。
雪すらも落ちた冬枯れの木立の中を、緊急事態発生の情報を携えて、息を弾ませながら二人で走る。非常時にも関わらず、あるいは非常時ゆえに、それは二人の間の強い連帯感を思わせるような出来事だった。
宿に戻った時には六時を少しだけまわっていた。朝食の準備が進められており、御主人と女将さんはそちらのほうにかかりきりになっていた。
私のことは「珍しく寝坊している」と思っていたらしい。息を切らして玄関から飛び込んできた姿を見て、仰天していた。女将さんの手元でお椀が湯気を上げている。
落ち着かない呼吸の合間から話をしようとする。
「あのっ――そのっ――」
「まあ、ちょっとご報告があるので、奥のほうで話をさせて頂けませんか」
横から笠井がかっさらっていった。恨めしい視線を送ると笠井は片手で拝む。まあ、確かに玄関では不味かろうと思い直した私は、三人につづいて民宿の奥にある従業員用の休憩室に向かった。
笠井がどうして息を切らしてさえいなかったのか、気がつきもしなかった。
*
さて、そこから様々な混乱が生じたわけであるが、ここではその煩雑な出来事は語らない。
橋が落ちたことを聞いた御主人と女将さんは、固定電話で松本市の消防署や警察署に第一報を入れようとしたが、そちらの回線も断絶していた。関連があるかどうかは定かではない。
まだ携帯電話は普及していない時代だったので、他に連絡手段といえば無線しかなかった。そして、山荘や山奥の民宿では一応、緊急用に無線設備を所持していた。
無線での第一報の後、状況把握のために警察と消防が動き始めたところで、山の天気が一変した。
猛烈な吹雪が民宿のある一帯から松本市の間の区間を横切り、救助活動はおろか、現状確認作業すらままならなくなった。
道路が使えない以上、宿泊客は全員帰宅できない。冬休み中だったこともあり、大半のお客さんは諦め顔で救助を待つ体制に入ったが、何人かのお客さんが「どうしても帰る」と言い出して聞かなかった。
そちらは笠井が機転を利かせて、まとめて車に乗せると橋の倒壊現場まで吹雪の中を押し出していった。
帰ってきた時、誰も「帰る」とは言わなかった。
緊急事態とのことで、民宿の御主人は宿泊費を取らないことにした。幸い、食料は十分に備蓄されていたので、一週間程度であれば困ることはない。
閉塞した状況の中で、宿泊客の数名が体調を崩し始めたが、その対応に笠井の同行者が役に立った。もう一人の男性が医者の卵。女性が看護婦の卵と先生の卵だった。
この際、卵でもいないよりはましである。しかも彼らは非常に優秀な学生だったようで、応急措置は適切であったし、環境に飽き始めた子供たちは、先生の卵が繰り出す工作教室に嵌っていた。
*
雑事の合間を見て、先生の卵――三笠祥子と話をした。
「ああ、笠井君の話でいいのかな」
三笠はすぐに私の真意を見抜いてしまった。冷やかされるかと思ったら、彼女は柔らかい視線で話を始める。
「私と彼は大学で同じ研究室の四年生です。他の二人は私と同じ部の部員ですから、彼だけがちょっと異質といえば異質かな。長野でスキーをするからついて来いと言ったら、自分はスキーをしたこともなければ興味もないと言い切ったので、本を読んでいてもいいからついて来いと、無理やり誘いました」
「あの」
「はい」
「大変失礼なことをお聞きするかもしれませんが」
「構いませんよ」
「つまり三笠さんは笠井さんと思い出づくりのために来たと」
「そうです。その通りです」
三笠は堂々と胸を張って認めた。潔いにもほどがある。
「君には授業のノートを大量に借りるという大変な恩義があるので、それを卒業前までに返させろとまで言いました」
借りを返せはよく聞くが、借りを返させろは珍しい。
「普通はそれで『ははあぁん』とか思うじゃない」
「はあ、そこまで露骨でしたら」
「でも、彼は飄々としている訳ですよ」
「はあ、それはそれは」
「本当に読書するために来た様子ですし」
「はあ、確かに荷物は少なかったですね」
「あら、よく見てるわね」
「あ、たまたまです」
「しかも、来た途端に女子高生に手を出すし」
「はあ、それは大変で――いやいや、手は出されていません」
三笠は私の頭を優しく撫でると言った。
「分かってますよ、お姉さんには」
そして、彼女は子供たちが散らかした色鉛筆を入れ物に並べながら、
「ただね、彼には不思議なところがあるの」
と言った。私は合いの手を入れることを躊躇う。なぜか微笑んでいる割に三笠は悲しそうに見えた。
「いつもは全然物事に拘っていないのに、ある時急に、一つのことに集中しはじめるの。そして他のことには全然見向きもしなくなる。まるでそれが宿命か、前世からの因縁か、赤い糸で結ばれていたかのように」
橙色の色鉛筆が手元からころんと転がり出る。
「赤い糸は言い過ぎね。いままで女の子関係はとんと話を聞かなかったから。だからお姉さんが赤く塗ったワイヤーロープで雁字搦めにしてしまおうかと思ったわけですけれども」
言葉が途切れる。色鉛筆も転がったまま。
「まさか連れ出した先で、赤い糸を見つけ出されるとは思わなかったなあ」
三笠はそう言うと、やっと橙色の色鉛筆をケースにしまった。
それは、なんだか大切な想いを箱にしまうかのような仕草に見えた。
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