パパは覆面作家 第四章 カンビュセスの籤

阿井上夫

第一話 回想

 小学六年生の鞠子の目には、それは点にしか見えなかった。

 山の中腹にあるわずかばかりの平地を利用して作ったドライブインは、夏休みの休日ということもあり車も人も多かった。

 そして、そこにいた観光客のほとんどが展望台に集まって、同じ方向を見つめていた。

 二十分前に爆音を響かせてヘリが一機、展望台の向こうにそびえ立つ北アルプスの山肌めがけて飛んでいった。(鞠子のいるところからは、そこは見上げる位置にあった)

 今、空中に浮かんだヘリからは、点が降下し始めていた。

 ロープまでは見えない。

 ややもすると見逃してしまいそうなぐらいの頼りなげなオレンジ色の点は、万年雪の残る山肌へ着実に降りてゆく。

 そして、どうやら着地に成功したらしく、岩に溶け込んで見えにくいものの、時おり隙間から明るいオレンジ色の点がちらついていた。

 ドライブインの駐車場にはサイレンを鳴らした救急車が入ってくる。

 野次馬の中の空気が変わった。

 場外放送のスピーカーからヘリの着地場所についてのアナウンスが入り、その周辺に停車している車両に念のため移動の指示がなされた。

 長野県では、公共性の高い施設にはだいたいヘリの着地場所が確保されており、ドライブインの隣にも整地はされているもののアスファルトは敷かれていない平地があった。

 その側に停まっている救急車のサイレンと、車を移動しようと小走りになる人とで、ドライブインは騒然とし始めた。


 前方の山肌では、今度は点が上昇し始めていた。遭難した人を引き上げているらしい。点は先程よりも大きく見えた。

 回転しているのだろうか。オレンジと青が交互に見えた。上昇するにつれて、忙しく色彩が変化する。

 やっと点がヘリの中に消えると、今まで同じ場所に浮かんでいたヘリは機体をひるがえした。

 光を反射して輝く。

 次第に大きくなる音とともに、ヘリはドライブインめがけて、一本の矢のように飛んできた。

 救急車の後ろ側にある観音開きのハッチが開けられ、担架が準備された。

 その間にも爆音は耳が痛くなるほどに大きくなっている。

 かなりの速度で侵入してきたヘリは、芝生の切れた砂地の上でひらりと機体を傾けて速度を殺すと、砂埃を舞い揚げながら柔らかく着地した。

 機体側面のスライドドアが開放されて、中から人を背負った身体の大きい男性隊員が走り出す。

 鞠子も堪りかねて、父親の制止を振り切って、救急車のほうに近づいた。

 隊員は、ヘリのダウンフォースに対抗するために、わずかに体を傾けていたが、確実な足取りで救急車に近づいてくる。鞠子にはその姿がスローモーションのように思えた。

 彼は救急車のところまでくると、救急隊員の手を借りて遭難者を担架に載せる。

 何か早口で喋っているようだが、ヘリのローター音がうるさすぎて聞き取れない。

 救急車は遭難者を収容すると、再びサイレンを鳴らしながら走り去っていった。


 鞠子は、救急車の行方を見守るように立っていた山岳救助隊員の背中を見つめていた。

 その視線に気づいたのか、隊員は鞠子のほうを振り返る。汗まみれの日焼けした顔がくしゃりと微笑むと、彼は右腕をあげて敬礼のポーズを取り、

「長野県警察本部山岳遭難救助隊員、神条。任務完了しましたぁ!」

 と、澄んだ夏空のような声で言った。

 鞠子もつられて、

「ご、ご苦労様でしたぁ」

 と敬礼する。

 そして、お互いに目を見つめると、大きな声で笑った。


 神条の胸の辺りから、

(ザッ)

 という音がする。無線が入ったらしい。即座に引き締まった表情に戻った神条は、無線の音声をイヤホンで聞き取ると、

「神条、了解」

 と短く返信した。そして、鞠子に向かって再度敬礼すると、

「これより中央アルプス方面に出動します!」

 と言い切り、走り去っていった。

「あ――お気をつけて」

 鞠子は少し遅れて返答する。顔が赤くなっているのが、自分でもわかる。

 ヘリは、ノイズの多い松田聖子の「蒼い珊瑚礁」が流れているドライブインから、蒼く高い夏空の中に急上昇すると、次の任務に向けて再び矢のような勢いで東の空に消えていった。

 これが鞠子の初恋だった。

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