第十七話 別離
食料の備蓄が付きかけた三日目になって、やっと松本市から救援が出ることとなった。
周囲の雲の流れから、山の天気が一瞬だけ穏やかになる可能性がある。そこを逃すと、その先も厚い雲が続いておりいつ雲が切れるのか分からない。
そこで、近隣のヘリをかき集めて松本空港とのピストン輸送を行なう。そういう計画だった。
ヘリは輸送可能な量に限度がある。
「できるだけ短い時間で大量の人員を運びたいので、荷物は本当に大切なものの他は、決して携行しないでほしい」
という救援対策本部からの指示に、宿泊客の中から不満の声が上がったが、私と笠井でなんとか説得した。
本当に穏やかになるのかと不安になるほど、外では横殴りの吹雪が続いている。それを横目で見ながら宿泊客は荷物を選り分けている。
私は事の成り行き上、私物はすべて置いていこうと覚悟していたので、他の人の避難準備を手伝っていた。
縫いぐるみを手放したくないと嘆く子供に、できる限り静かな口調で話しかける。
その縫いぐるみのウサギさんの重さで、誰かが一人、ここに残らなければならないかもしれないこと。
ウサギさんは春に迎えに来られるかもしれないが、残った人は迎えに来ても多分生きてはいないこと。
そのような現実を、できる限り柔らかい表現を使いながらも、理由が確実に伝わるように話した。子供は我儘だが、決して非情ではない。最後にはちゃんとわかってくれた。
残された荷物たちは、後で回収する時のことを考えて、大広間の舞台上にまとめて置かれることになった。
準備が完了した宿泊客と、やはり退避要請があった従業員たちは、食堂に集まって外の景色を眺めていた。
私もぼおっと外を眺めていたのだが、窓際にいる三笠の姿が目に入った。彼女は仲良しになった幼稚園の女の子と楽しそうに話をしていた。
(赤い糸、かあ)
なんだか実感がない。それ以前に、一方的な赤い糸は迷惑だと思う。いつもの私なら、そう言って怒っているはずなのに、その時は何故かその糸を見てみたいと思っていた。
私の小指から糸を辿っていくと、あたりを巡りに巡って、その先には――
いない。
そういえば笠井の姿を食堂では見ていなかった。
私は立ち上がると、民宿の中を歩き回った。
客室には、彼の姿はない。
宴会場にもない。
風呂場にもない。
まさかと思い、民宿の事務所に入ってみると、ご主人と笠井が紙と電卓を目の前に置いて腕組みをしていた。
「あの――」
「ああ、鞠子ちゃん。どうかした?」
「いえ、どうということでもないのですが」
笠井を探しに来たとは言えない。
「そう。じゃあお客さんの様子を見ていてくれないかな」
「はい。分かりました」
そう言いながら部屋を出る。笠井が電卓をものすごい速さで操作しているのが見える。その横顔がとても真剣で、声もかけられなかった。
*
それからしばらくして、吹雪の勢いが衰え始めた。
食堂の中に安堵の溜息が溢れる。そこに笠井とご主人が大きな紙を抱えて入ってきた。壁にそれを貼りつける。それはヘリに乗る人の割り振りを記した表だった。
そういえば前日、風呂場の体重計で各自の体重を量ってほしいと言われた。ヘリでの救助活動にぜひ必要だからということだったので、最後まで渋っていた女性も、最後は了解していた。
それを使っての割り振り表と思う。
私は最初のほうのヘリで退避することになっていた。
そして、ご主人と女将さん、笠井が最後まで残ることになっていた。
私は違和感を受ける。
「あの、提案があるのですが」
ご主人の方がびくっと震えたのが分かった。笠井も、彼にしては珍しく厳しい顔をしている。それでも私は気圧されることなく言い切ることにした。
「御主人か女将さんは民宿の責任者として、できれば先に退避されたほうがよいのではないでしょうか。向こうでの説明等々、必要でしょうし」
それから女将さんを見つめる。
「失礼ですが、女将さんの体型からすると、私と体重は殆ど変らないように思います。ですから、私の順番と女将さんの順番を入れ替えるのが、筋としてはよろしいのではないでしょうか」
御主人や笠井であれば、てっきりそう考えるものと思っていたので、少々力が入ってしまった。周りの宿泊客からも同意の声があがる。ご主人が困った表情で笠井を見つめている。
どうやらこの計画表は、彼の立案したものらしい。
「もう一度計算し直すのは無駄だと思いますので、最小限の修正でいかがでしょうか」
私は駄目押しをした。
*
風が収まりはじめた。
電話でヘリの到着予定時刻が通知されてくる。それが食堂の模造紙に転記されていった。
順番は私が言った通りとなり女将さんはなんだか申し訳なさそうな姿で、最初のほうに到着したヘリに乗り込んでいった。 三笠が幼稚園児に手を引かれながら乗り込んでゆく。その視線の先には笠井がいた。子供、女、老人が先行して避難してゆく。それが終わってから男が乗り込んでゆく。
笠井が計算した割り振り表は、若干の誤差を考慮したものではあったが、すべてのヘリの搭載可能重量をぎりぎりでクリアしていった。
それには救援にあたった隊員たちが驚いていた。
途中、一人だけ中年女性が申告体重を低めに申告したために割り振りに狂いが生じそうになったが、順次席をつめていくことで、なんとか最後のヘリに一名追加することで全員が無事乗れることになったという。
ご主人が真っ白な顔でその進捗を見つめえていたのが印象的だった。
天候はなんとか小康状態を保っていたが、次第にまた風が勢いを増してゆく。
避難は順調に行われていたが、予想したよりも天候が崩れる時間が早かった。
*
遠くのほうでヘリが雪を巻き上げながら待っていた。
御主人ともう一人の男性(これは最終的に『医者の卵』さんになっていた)は既に乗り込んだ後らしい。
側面の扉を開け放して、中から神条が身を乗り出している。私たちの姿を見て、一瞬「はっ」とした後、険しい表情になった。
その時、私には彼がそんな表情をする意味が分からなかったが、笠井は分かったらしい。
指を一本だけ神条に示す。
(そうか、一分だけ待ってほしいという意味か)
私は懸命に走る。貴重な時間を無駄にしてはいけない。笠井の息遣いが聞こえる。外套の上なのに、私を抱える彼の温もりが伝わってくる。
ヘリが生み出す激しい向かい風を押しのけながら、私たちはやっとヘリのそばまでたどり着いた。
笠井が私を先に乗せようと前に押し出す。
中から神条が手を伸ばしてくる。
私はそれを掴む。
強い力で引き上げられる。
神条に手を引かれて赤くなった私が、なんなくヘリに収まったところで、外に立ったままの笠井が尋ねた。
「ところで、忘れ物はありませんか」
「あ――」
そこでやっと私は思い出した。神条から貰ったバッチが荷物の中に入っている。しかし、この状況で私だけが荷物を取りに戻ることはできない。その一瞬の逡巡に気づいたように笠井は言った。
「何を忘れたのですか」
「バッチです。私の大切な正義の味方のバッチです」
「どこにあるのですか」
「私の部屋の、私の荷物の中」
「分かりました。部屋は先日のところですね。そのバッチは私が探してきます」
「でも、もう時間が――」
「大丈夫です、先に行って下さい」
ダウンウォッシュに癖毛をなぶられながら、笠井は叫んだ。
「でも、もう天気が――」
「大丈夫です」
笠井はいつもの落ち着いた顔で即答した。
「必ず探してお渡しします。約束です」
「――分かりました。約束ですから必ず守ってください」
「承知しました」
ヘリの扉が閉まる。
ローター音が急に大きくなり、瞬間、重力が軽くなる。笠井の姿が舞い上がる雪に掻き消される。私は窓にへばりつくが、途切れ途切れに隙間から黒い影が見えるのみ。それも次第に点となってゆく。
私はヘリに乗り込んでからの出来事を、永久保存版の映像として記憶にとどめる。
映像の中の彼は、最後まで笑っていた。
*
ある程度まで高度を取ると、ヘリは水平方向への移動に移る。
それまで窓の外を凝視し続けていた私は、緊張で体が強張っていることに気がついた。神条の隣にある硬いシートに身を完全に預ける。体から力が抜けると、他のことが気になりはじめた。
「笠井さんは何分遅れになるのですか」
誰も答えない。
騒音がひどいので聞こえなかったのだろうと思った私は、声を張り上げる。
「あの――笠井さんはいつ救助されますか」
誰も答えない。
神条が私のほうを見つめる。
「あの――」
「まさか、貴方が当事者になるとは思いませんでした」
神条の顔が、苦痛に歪む。右眉の上には荒っぽく血止めの処置が行われていたが、彼の表情は決して怪我の痛みによるものではないと分かった。
私は途轍もない不安を感じた。
「何のことですか」
神条は即座には答えられない。
鞠子は叫ぶように繰り返す。
「当事者とは何のことですか。言って下さい。お願いします!」
「――籤を引く者のことです」
ヘリのローター音や風の音が周囲でけたたましく鳴り響いているはずなのに、その時はその声だけがはっきりと聞こえたような気がした。
「意味が分かりません。誰も籤を引いては――」
鞠子は固まる。絞り出すように、吐き出すように言う。
「このヘリコプターの定員は何名ですか?」
「六名です」
「後続のヘリは」
「天候が悪化しており、飛行禁止の指示が出ています」
それで、ようやく意味が分かった。
私だけが知らないうちに籤が引かれていたのだ。
笠井が指で示した数は「一分」ではなく「一人」だ。
長野県警山岳遭難救助隊のヘリは、常識的に操縦士と救急隊員の他に、ホイストオペレータ兼整備士が同乗することを彼女は前から知っていた。
つまり、乗員以外に乗れるのは三名。
前でなにか不都合が生じた場合、最後の乗員にしわ寄せが来る。
そして、笠井はわざと私に忘れ物の有無を聞いたのだ。
自分だけが残ることを、私が不自然に感じないように。
みんな、ずるい。
ひどい。
顔から血の気が引いてゆく。
手が震えているのか視線が定まらないのか、分からない。
すべてのものが中心を失って、細かく蠕動しはじめる。
なぜ誰も真実を語らなかった。
教えてくれなかった。
そして、神条はすべてを理解していたはずだ。
感情が真っ白に爆発する寸前――神条と目が合う。彼の眼は悲しみに満ちていた。
そうだ。彼はこの瞬間のことを、一生忘れることはできないのだった。
その認識と同時に、神条が言った『カンビュセスの籤』が、救助隊員にとってどれほど非情かつ悲惨な出来事なのかが瞬間的に理解できた。
鞠子の心中は急速に冷えきっていく。
何が言いたかったのか理解できた。
誰かが籤を引く瞬間、彼らは『正義の味方』であってはいけないのだ。
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