第十話 三好の休日
「浅月の様子がおかしい」と言い出したのは沢渡だった。
浅月と後輩がいない部室は、なかなか珍しい。その瞬間的な間を見計らっての発言だった。
副務として新入部員のフォローに忙しかった三好はまったく気がつかなかった。
いや、実際は視線の片隅で時折深刻そうな顔をしている浅月を認識していたが、忙しさを理由にそれを意識することを避けていたように思う。自分の身勝手さに慄然とした。
本当に気がついていなかったらしい野沢がまぜかえす。
「いつもおかしいだろ」
「そうじゃない。発言じゃなくて様子と言っただろう」
「あ」
「あ、じゃない。本当に工学部か。論理的思考はいらんのか」
「理系だから文字情報に弱いんだよ。信号とか数値じゃないと」
「音声なんだから信号だろ」
「あ」
「だから、あじゃないって。しかもその声で言われると、なんだか深遠な謎でも解き明かしたかのように聞こえるから、余計に腹が立つ」
「今、音声情報の本質について何か新しい認識が――」
「やかましい」
本筋ではない議論の応酬をしているが、その実、沢渡と野沢は別回路で浅月の様子を高速度再生しているに違いない。
「言われて気がついたが、確かに最近の浅月の様子はおかしい」
三好も参戦する。
「そうだろう」
沢渡が胸をそらす。自慢しているらしいが、その姿勢は恰幅のよい紳士向けだ。細身で七三分け、神経質な銀行員にしか見えない沢渡がやっても様にはならない。
折れた立木のような格好で、沢渡が続ける。
「しかし、直接正面から問い質しても、あいつのことだからまともに答えることはないだろう。この間のイベントのようにさらりと後ろに回られるだけだ」
三人とも同じ光景を思い浮かべる。場内にいた同好会の上級生や、親交のある近隣大学の同好会の連中に聞いてみても、誰もあのような技を持つ格闘技を答えることができなかった。
リング上の三人は何か言っていたようだが、リング外の人間には聞こえなかった。浅月の会話回避スキルは、あの女性覆面格闘家の身の躱し方に匹敵する。
真剣な話題になるほど、浅月は他人を巻き込むことを極度に嫌う。それは、彼女の置かれた生育環境と無縁ではないのだろう。
これまで自分の不用意な発言で巻き込まれた第三者が、甚大な被害を蒙るところを数多く経験してきたに違いない。これは決して大げさな推測ではない。浅月家に関してはかなり確度の高い推測だ。
なにしろ同じ同好会に所属しているという理由だけで、三好たちのアパートにお中元が届いた。
そして、黒々とした墨痕鮮やかな毛筆で大書された「中元」の文字からは、無言かつ極めて雄弁に「お嬢様に手を出したらただではすまないよ、情報はすべて管理しているよ」という圧力が醸し出されていた。
それが理由で同好会をやめた同期もいる。また、浅月の背景が判明したきっかけでもあった。最後まで浅月に喰らいついて、なんとか「お家の事情」を聴き出したのが、三好、沢渡、野沢の三人だった。
「そこでだ。何か気晴らしの方法を提案できないかと思うわけだが、どうだろうか」
沢渡は続ける。
「何かとは何か」と野沢。
「何かだ」と沢渡。
「禅問答じゃないんだから偉そうに言っても分からないものは分からない。つまり、浅月の気が晴れそうなことをやろうと言うんだろ」
平行線をたどりそうな気配に、三好がまとめに入る。
沢渡と野沢が見つめ返す。
「なんだよ」
「「まかせた」」
沢渡と野沢がハモった。
*
「で、どこに行くの」
土曜日の朝。野沢が運転する車に乗ってから、やっと浅月が疑問の声をあげた。
「内緒」
野沢が渋い声で答える。やはり、なんだか深遠な謎がありそうな気分になる。
「――分かった。じゃあ楽しみに待つけど、つまらないところに連れていったら容赦はしないからね」
浅月の声が怖い。いっきにハードルが急上昇したことで、沢渡が(本当に大丈夫かよ)という気配を三好に送っている。
(大丈夫――だと思う。おそらくお嬢様なら経験したことはないはずだ)
運転席に野沢。助手席に沢渡。運転手の後方座席に三好が座り、そこが定位置と言わんばかりに左側後部座席に浅月が座る。
上座は右側後部座席だが、女性の場合は乗り込んだ後に車内で移動させないために、左側にしなければならないという。これは浅月から学んだことだ。
そのまま、なんだか重苦しい空気を内包したままで、野沢の軽自動車は松本市から国道十六号線を長野市方面に走った。
一時間ほど走り、途中の犀川が蛇行しているところで、人気のない山道方向に左折する。男三人が女性一人を連れ込むには不適切な方向である。
もちろん我々にはそのような意図はないし、浅月にも緊張した様子は見えない。それはそれで、非常に憂慮すべき状況ではあるのだが、車は粛々と山道に入ってゆく。
そして、三好の指示により道端にある雑草の生えた空き地に車を止めた。
全員が車から降りる。
三好以外の三人は置かれた環境に戸惑いを隠せない。その認識は正しいと三好も思う。
なにしろ、猫の額のような畑や田圃はあるものの、周囲に人家らしきものや人影はまったくない。道端の空き地から斜面が伸びていて、崖下の清流につながっているのが見える。
つまりは何もない田舎の山道の風景である。ここで何か言わせると不味いと判断した三好は、躊躇せず沢のほうに斜面を下りていく。三人も引きずられるように動いた。
坂を降りきったところにある沢は、やはり何の変哲もない。水量もさほど激しくなく、どこかのどかな空気の中をさらさらと澄んだ水が流れてゆく。
「で、ここで何をするのかな」
三人の気持ちを代弁して、沢渡が発言した。
三好は無言で、
(まあ見ていろ)
という風に右手をさっと目線の高さまであげる。そして、やおら沢の中に足を踏み入れると、近くにある大人の頭ほどもある石を持ち上げた。
途端、沢の中を素早く横切る影。しかもそれが四つ。
「あっ、サワガ二!」
浅月が歓声をあげる。沢渡と野沢も周囲の石を持ち上げはじめた。すると途端に大小さまざまなサワガニが逃げ出してゆく。まだ冷たい信州の沢の水の中で、四人はサワガニを追いかけて走り回った。
三好が持ってきた水槽に、捕獲したサワガニを放り込んでゆく。
最初はカニのスピードに追い付けなかった四人も、次第に要領を掴んで、先回りしたり全員で囲い込んでから石をあげたりすることで、大量のサワガニを捕まえることが出来た。
野沢はその小太りの体に似合わず、身軽に石の上を飛んでいく。彼は持ち前のポジティブな物言いで、場の雰囲気がネガティブになるのを回避する役割を果たしている。
話している内容と声の落差は笑いを生むが、彼が実は細かい配慮の元に空気を読んでいることを他の三人は知っている。
沢渡は慎重に石の上を歩いてゆく。しかし、たまに滑って体勢を崩しそうになっては、寸前で持ち直すことを繰り返している。物言いはネガティブで粘着質だが、彼は細かい変化を見逃さない。
なにか普段と違う傾向を見つけ出して、その原因を追究して解決方法を見つけ出そうという彼の本質は、決して口から出てくる言葉のようにネガティブではないことも、他の三人は了解している。
三好は川の真ん中を突っ切って、濡れることも厭わずに手足を真っ赤にしながらカニを追いかけている。彼はおそらくこう推測したに違いない。
浅月は確かに信州の生まれだが、このような子供の遊びは決して許されていなかったに違いなく、逆にこのような信州でしかできない子供の遊びこそが、彼女の一番楽しめることに違いない、と。
優柔不断さが先般のイベントで拭い去られた後、彼のその洞察力の鋭さは次第に輝きを増している。そう他の三人は理解していた。
そして、浅月自身は、そのような心の動きをすべて察しながらも、どうしても素直になれない自分の心を洞察していた。これ以上、自分の闇に彼らに立ち入らせてはならない。
そうしないと必ず自分は後悔する。 しかし、今、この時だけは彼らの配慮を十分に受け取りたい。楽しいというこの気持ちを味わっておきたい。
こういう休日も悪くない、と後で思い出すために。
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