指輪の精霊の語り

 その指輪は、レイモンドが結婚の証として妻ゾラに贈った指輪だった。

 セオドアという名前は、もとはレイモンドの育ての親の名前だ。不器用で、うまく自分の気持ちを伝えることができない人物だった。血の繋がりはないはずだったが、そこだけは自分とそっくりだったとレイモンドは笑っていた。そして、テッドもそんなところが似てしまったのだった。

 テッドから別れを切り出された本当の理由など知らないグロリアは、指輪を握りしめて泣き暮らした。

 彼女は墓場から連れ戻された夜以来、息も絶え絶えに嗚咽し続け、疲れて眠りに落ち、そして目が覚めればまた涙ぐむ、そんな毎日を送っていた。

 彼女の父は方々から高名な医師や薬師を招き、なんとか彼女の健やかさを取り戻そうとした。それは娘への愛情だけではなく、縁談がまとまりかけているせいでもあった。

 グロリアは望まぬ縁談が迫り来ることを知り、絶望の中で打ちひしがれた。


「グロリア様、せめて一口だけでもお召し上がりください」


 彼女の乳母は涙ながらに懇願したが、グロリアは食事を拒むようになった。それは『生きる』ことを拒むことと同意義だった。

 衰弱していく体とは裏腹に、セオドアへの想いは熱をもって募るばかりだった。

 グロリアの枕元には、薔薇をいけるのが習慣だったが、いくらか具合がいいと、彼女は体を起こして薔薇を一輪抜き取る。そして、一枚ずつ花弁をちぎっては、寝台に散らすようになった。

 ひらり、ひらりと白い布団の上に花びらを投げる様子は、まるでテッドのために小川に流すときのようだった。

 花瓶にいけてあったすべての薔薇を散らすと、彼女は薔薇の花びらを手ですくい、必ずこう囁くのだ。


「セオドア……どこ? 早く来て」


 そして彼女は自分が口にした名を耳にし、また涙をこぼす。赤く燃えるような花びらは、恋心そのものだった。

 彼女は翡翠の指輪を握りしめ、声にならない声を漏らす。


「息ができない」


「彼は何を望んでいたの?」


「私の幸せはそこにあるのに」


「その手の中にあるのに」


「私を救えるのは彼だけなのに」


「心からの笑みを向ける顔は、彼のもの」


「この心を預ける場所は彼の中」


「助けて」


「助けてよ、セオドア」


 そして、その想いの強さが、精霊を生んだ。

 精霊はむせながら泣くグロリアの傍に立ち、憐憫の眼差しでその華奢な肩を撫でた。生まれたばかりの精霊は、いずれ時がたてば、彼女はこの傷を抱えて足を踏み出すだろうと考えていた。


「ねぇ、グロリア。あなたの中で彼の影が完全に消えることはないでしょう。でも、それでも他の誰かが現れる。どこかセオドアに似ているかもしれない。それとも全く違う形で彼女を包み込むかもしれないわ」


 だが、その声はもちろん、人間のグロリアには届かない。それでも精霊は祈るような気持ちで、グロリアの骨張った背中を優しくさすってやった。

 セオドアのではない、他の誰かのものだとしても、結局は愛情だけが彼女を救えるのだと、精霊は考えていた。そして、いつしか彼女は誰かと愛し合い、時折セオドアを思い出して胸を切なくさせるだろう、と。


「グロリア、だから、沢山泣くといい。布団をかぶって、思う存分泣くといい。布団が、そしていつか現れる誰かが子宮となる。その流した涙が羊水となる。そして、あなたは生まれ変われるわ」


 しかし、グロリアは精霊が思う以上に、頑なだった。彼女はテッドのいない未来を考えることから逃げてしまったのだ。

 風邪をこじらせたあとも、彼女は治療を拒み続けた。薬を飲んだ振りをして捨ててしまうと、ただただ扉を見つめていた。その目には、テッドが自分の病を知って、駆けつけてくれはしないかという、淡い期待があった。

 彼女は、朦朧とする意識の中、すでにセオドアと手に手を取って逃げ出すことを諦めていた。ただ『愛している』と、もう一度だけ伝えたかった。彼女は自分の背後に忍び寄る死期を感じ取っていたのだ。『愛している』という、たったそれだけの短い言葉が、彼女のすべてになっていた。

 ある晩、キースが部屋に入ってきた。


「グロリア、気分はどうだい?」


 気丈にふるまう彼の目も、この頃では心配のあまり、すっかりくぼんでいた。

 グロリアは何も答えず、ただそっと目を伏せる。キースが傍らに残された薬を見やり、まるで懇願するように手を取った。


「グロリア、どうか薬を飲んでおくれ。どうかまた昔のお前に戻っておくれ」


 その目には光るものがあった。


「もう一度……笑顔を見せておくれ」


 すると、彼女はそっと目を閉じ、一筋の涙を流す。


「セオドアのためなら」


 キースが咄嗟に顔を歪め、怒鳴りつけた。


「いい加減にしないか、グロリア! クィントン家として生まれたものに自由がないことなど、とうにわかっていたはずだろう?」


 そして震えながら大きく深呼吸をし、彼はこう呟く。


「お前だけではないんだ!」


「知っています」


 彼女はそっと目を開け、兄を見つめた。


「お兄様とセイラが想い合っていることなど、とうに知っています」


 セイラという名を聞き、精霊はグロリア付きの女中を思い出した。彼は屋敷の使用人と恋仲だったのだ。

 キースをねめつけ、彼女は頬を濡らしていた。


「お兄様はいずれ当主となれば、セイラを愛人にでも出来るでしょう。私と違って、離れなくてもすむわ」


「だが、心から愛しているにもかかわらず、正式な妻にしてやれない」


「会うことも叶わぬ私よりはずっとよろしいはず」


 絞り出すような声だった。


「私を笑顔にできるのは、彼だけなのに」


 彼女の指に光る翡翠を見て、キースは苦々しい顔をした。


「グロリア、考えてもごらん。お前がこの屋敷を出て、彼と暮らしていけると思うのか? 生活するということが、お金を稼ぐということがどれだけ大変か。お前がそれに耐えられると思うのか?」


「彼が笑ってくれるなら、どんなことにも耐えてみせます」


「お前は勘違いしている。彼を愛することで、自由を得た気になっているんだ。だけどね、自由なんてどこにもない。この屋敷の外にも、自由なんてないんだ!」


「いいえ、お兄様。少なくとも、愛する自由があります」


 兄はため息をつき、やつれた妹を見下ろした。やせこけた頬や鎖骨の弱々しさと裏腹に、彼女の目はぎらぎらと燃えるようだ。精霊には、それがまるで命を燃やしているような光に見えて仕方なかった。

 翌日、グロリアの容態が急変し、彼女の目からその光も次第に失われていった。

 そして最期に、彼女は兄にこう訴えた。


「指輪を、彼に」


 短い遺言だった。だが、心の中では沢山の想いが渦巻いているのを、精霊はひしひしと感じていた。

 精霊は泣き崩れるキースの手の中で、この哀れな持ち主に想いを馳せた。

 グロリアは脆かったのかもしれない。クィントン家という枠から出ることが許されない定めや、生涯を共にする相手すらままならない不自由に結局は潰されてしまった。

 だが、精霊には、グロリアがテッドを通して自由を得ていたと伝わっていた。テッドといるときは、その目に映るすべてが輝いて見え、息苦しい毎日から、いつか連れ出してくれると信じていた。セオドアが希望のすべてだったのだ。

 同時に、テッドが自分と同じ孤独と不自由を抱えていることも、グロリアは勘づいていた。墓守という肩書きのせいにして、何かに怯えて人と交わらないテッドの中に、自分と同じ匂いを嗅ぎ取っていたのだ。

 そして、精霊は墓場でテッドに対面し、グロリアが感じていたのは、精霊の血に怯える姿だったのだと合点がいった。テッドの中に、クィントン家の血でがんじがらめに縛られたグロリアと似ているものを見たのだった。


 精霊はそこまで話すと、こう言った。


「だからこそ、彼女はあなたに魅かれた。私はそう思うんですよ」


 テッドが「皮肉なことですね」と、苦々しく呟く。


「二人を裂いた原因こそが、惹かれ合った理由だなんて」


「ねぇ、セオドア。彼女の最後の望みを伝えます。意識を失う間際、グロリアが心から望んだことです」


 テッドが固唾を呑んでいると、彼女は凜とした声で言った。


「あなたに『誰かと心を通わせる日々の中で生きて』と、願ったのです。あなたが誰よりも自由に、誰よりも強く生きるように」


 グロリアは後悔していた。セオドアが自分を愛しているなら、想うだけではなく、この手をとってほしかった。だが、自分も逃げずに願うだけでなく、セオドアの手をとって走ればよかったのだ。

 自分を責めながらも、彼女はテッドが心から笑って生きることを望んだ。クィントン家の中から出ることができなかった自分の分も、セオドアに勇気を出して飛び出して欲しかったのだ。


「物憑きの精霊になど、生まれるものじゃありませんね。だって、こんなにも切ない。健気なあの子が、そして不器用なあなたが愛しいほど、切なく痛い」


 指輪の精霊は、声を震わせた。


「この心に終止符を打てるのは、あなただけなんです。グロリアに安息を与えられるのも、あなたの心に再び光を灯せるのも、他の誰でもないあなた自身。人間は脆い。だからこそ、誰かと寄り添うのです。そして、強さを手に入れる」


 黙ったままのテッドの手を取り、精霊は涙を浮かべて微笑んだ。


「あなたはその血を憎んでいるかもしれない。けれど、それをあなたに授けた父や母もまた、脆さから立ち上がった。どうか、踏み出す勇気を持ってください。これを伝えることで、私は魂に還ります」


 そっと顔を寄せ、精霊は彼に優しい口づけを落とした。


「あなたに祝福を。愛し、愛されることに懸命に生きた血族に」


 テッドは手を伸ばし、彼女の頬をなぞる。その仕草は、グロリアが好きだったものだ。


「お願いです。もう一度、その声で僕の名を呼んでください。もう一度、笑ってください。彼女を思い出すとき、真っ先に浮かぶのが笑顔であるように」


 最後に見たグロリアの泣き叫ぶ顔が、彼の心を切り裂いていた。

 そんな彼に、優しい精霊が目を細めて微笑む。


「……セオドア」


 彼の頬を涙が伝った。彼女がその笑みを浮かべて生きていくことを願ったはずなのに、と嘆く。


「愛しているとは言わないわ。私はグロリアではないから。だけど、いつでも見守っているわ。あなたがグロリアを愛したように、また誰かを愛せる日まで」


 そう言い終わらないうちに、彼女の体が光っていく。


「待って! もう少しだけ」


 せがむテッドを見つめ、彼女がグロリアと同じ顔で微笑んだ。


「セオドア、さよならも言わないことにするわ。だって、ずっと傍にいるから」


 そんな言葉を残し、光はするすると縮んでいく。そしてテッドの手元には象牙色の魂が残った。それはまるでグロリアの肌のような色だった。

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