東屋の夜

 東屋に繋がれている間、屋敷から賑やかな音楽とゴードンの笑い声が響いていた。

 ナディアは懸命に手を動かそうとするが、食い込む縄が彼女の白い腕の色を変え、どうにかしようともがくほど、食い込んでいく。


「まったく胸糞悪い!」


 思わず悪態をついたあと、ナディアは軽薄さにため息を漏らした。

 同時に、あの明星の精が嘘をついていたことに、ひどく失望していた。何故かはわからないが、明星の精は自分を罠にかけたのだ。ゴードンは欲にまみれた俗物で、精霊はおろか人間にも好かれる質ではない。

 頭の中でセシリアの言葉が渦巻く。


『お前を好く精霊もいれば、妬んだり陥れようとする精霊もいるだろう。いろんな奴がいるという点では、彼らも人間と変わるまい』


 ナディアは明星のいない夜空を見上げる。


「人間も精霊も一緒だな」


 所詮は嘘をつき人を陥れる、欲にまみれた世の中だ。正直者が馬鹿を見て、信じる者がこうして足元をすくわれる。

 そんな現実に幻滅するほど純粋ではない。だが、人間だけでなく精霊ですら、そういう面を持ち合わせているのだということが、彼女を深く傷つけた。

 セシリアが何と言おうとも、彼女は精霊というのは純粋なまでに己に正直なだけだと信じていた。


「あの明星の精は何を考えていたのだろう?」


 思わずナディアが首を傾げた。自分を陥れてまで、彼女は何がしたかったのか、見当もつかない。

 そんな彼女を見守り、中庭の花の精が囁き合っていた。


「彼女、どうなるのかしら?」


 ナディアがうんざりした顔で自嘲した。


「こっちが知りたいよ」


 真夜中になると、俯いていたナディアは、砂利を踏みしめる足音に顔を上げた。

 赤ら顔のゴードンが右手に火酒の瓶を持って歩み寄ってきた。


「お前もどうだ?」


 酒臭い息に、思わず顔をしかめると、彼は太い指で彼女の顎を上げた。


「ふむ、綺麗な顔だな。あの町長にはもったいない」


 彼はにやりとし、ナディアをしげしげと見つめる。


「まぁ『夜の雫』の美しさには適わないがな。あの条件さえなきゃ、囲ってやってもいいんだがな」


 ナディアが唸るように吐き捨てる。


「反吐が出る」


 その途端、ナディアの頬が打たれて派手な音が響き渡った。

 咄嗟にゴードンを睨み返すと、彼は火酒を煽って、下品な笑みを浮かべた。


「俺は気の強い女は嫌いでな」


 ゴードンがまだ中身の残っている瓶を中庭に放り投げた。ずんぐりとした手でナディアの頬を撫でると、鼻息荒く囁いた。


「だが、それを押さえつけるのは好きだ」


「やめろ!」


 ゴードンの手が太ももをまさぐり、胸元に顔を埋めだした。

 寒気が体中を駆け抜ける。暴れても縄が軋むだけだった。膝蹴りをしようとしたが、押さえつけられ、容赦なくまた頬をはり倒された。


「離れろ!」


 心の中でセシリアの名を何度も呼んだ。だが、虚しいほど無力だった。


「うるさいなぁ。どのみち町長に手篭めにされるんだろうよ」


 彼の手が髪をつかんで、ナディアの頭を押えつけた。ナディアは狂いそうな恐怖の中、ありったけの声を振り絞って叫んだ。

 だが、そのとき口をついて出た名はセシリアのものではなかった。


「パーシヴァル!」


 ゴードンがふと手を止める。


「それはお前の男の名か?」


 涙を浮かべるナディアに、ゴードンが口の端をつり上げる。


「無駄だ。誰も屋敷には入れない。うちの使用人たちは武芸の心得がある。それに明日の朝にはお前は荷馬車で隣町へ連れて行く。その男とは二度と会えないだろうよ」


 ナディアが呆然とした。パーシヴァルとこんな形で別れるとは思ってもいなかった。

 だが、再び動き出したゴードンの手に、彼女は暴れながら叫んだ。あの闇の色をした瞳や骨張った冷たい手を心から欲した。


「パーシヴァル!」


「いくら呼んでも、正義の味方はそう簡単には現れまいよ」


 ゴードンが鼻で笑ったときだった。


「あぁ、やっと俺を呼んだ」


 ぽつりと呟くような声がした。


「誰だ!」


 ゴードンが慌てて辺りを見回す。

 『ごぼっ』と、何かが粘るような嫌な音がしたかと思うと、中庭の地面から艶めく闇の柱が立ちのぼる。

 ナディアは固唾を呑んで、それを見つめた。ゴードンの仕打ちに対するものとは違う悪寒が走る。その闇は刺々しいまでの怒気を孕んで、次第に人の形をとっていく。


「あれは、何だ?」


 ゴードンにも蛇のようにうねる闇が見えるようだった。彼はひどく怯えたようにほとばしる闇を見回している。

 憤怒を押し殺したような声が、闇の中からした。


「そうだな、正義の味方なんてそうそういないさ。いるのは、ただの一人の男だ」


 ナディアの顔に歓喜が浮かぶ。闇の中に立っていたのは、パーシヴァルだった。


「覚悟しろ。お前は俺のものに手を出した」


「なんだ、あの黒い人影は?」


 ゴードンの額には脂汗が滴り落ち、目を剥いている。どうやら彼には闇は見えても、パーシヴァルの姿は見えないようだった。

 声の主はすげなく言った。


「あぁ、終わりなき悪夢だよ」


 その刹那、中庭の花の精の悲鳴が木霊した。

 たぎる溶岩のようにうねってパーシヴァルを包んでいた闇が、ゴードンめがけて一斉に飛びかかったのだ。ナディアは恐怖をもってその光景を見ていた。

 響き渡るゴードンの悲鳴。そして彼の目、鼻、口、体中の穴という穴から闇が彼の中に滑り込んでいく。ぐちゅぐちゅと嫌な音をたてながら、わき出た闇はすべて彼の体に収まった。その直後、ゴードンは白目をむいて、その場に倒れ込んだのだった。

 呆然とするナディアに、こんな言葉が浴びせられた。


「まったく、なんでこんなにあっさり捕まってるんだ!」


 その声から怒気は消え失せているが、パーシヴァルは不機嫌そうな顔をしていた。

 ナディアは信じられないという顔で、彼を見た。


「本当にパーシヴァル?」


 ナディアがまばたきを繰り返す。


「今の闇……お前が?」


「そうだよ」


 パーシヴァルが憮然として言うと、足元から闇がまた浮かぶ。


「お前が……闇の人影?」


 ナディアの体はすっかりすくんでいた。

 確かに声色は違うが、同じ声だ。だが、人間のパーシヴァルと闇の人影を結びつけて考えることはなかったのだ。


「無事か?」


 パーシヴァルが苦虫をかみつぶしたような顔で、ナディアのはだけた衣服を正そうとした。その瞬間、ナディアの体が弾かれたように震える。二人の間に沈黙が流れ、パーシヴァルは少し悲しそうな顔をした。


「ナディア。よく見てごらん」


 彼はいたわりの光を瞳にたたえた。


「俺を見て。俺はゴードンじゃない。パーシヴァルだ。わかる?」


 ナディアが無言で頷く。


「闇の人影なんてお前は呼ぶけど、その姿だって俺の姿なんだよ」


 彼はそっとナディアの切れた唇に滲む血を拭った。


「誰よりもお前を見守って来た男なんだよ。だから、怯えないで」


 ナディアの目に涙が溢れた。沁み入るような彼の声が、指先まで温めてくれるようだった。そして、パーシヴァルは東屋の柱ごとナディアを包み込んだ。


「……間に合ってよかった」


 ナディアの唇が震えた。パーシヴァルが闇の人影だろうが、何だろうが構わない気さえする。ただ言葉では言い尽くせぬほどの安堵が押し寄せていた。


「……怖かった」


 一言呟くと、ナディアが顔を歪めて子どものように泣いた。


「怖かったよ、パーシヴァル」


 パーシヴァルは腰元の小刀を取り出し、ナディアの縄を解いた。急に自由になった体がよろめくと、パーシヴァルが支えてくれた。


「顔を打たれたな。大丈夫か?」


 パーシヴァルがナディアの頬に両手を当てる。


「大丈夫。無事だよ」


 ナディアが紫色になった手首を擦り、無理に笑う。本当はまだ足がすくんでいた。するとパーシヴァルは素早く自分の外套を彼女に纏わせる。そしてその上からもう一度、抱擁した。


「すまん。遅くなって」


「いや、助けてくれて嬉しいよ」


 するとパーシヴァルが顔を赤らめた。


「俺のほうが嬉しいよ。やっとお前は心の底から俺の名を呼んだ。この俺を求めてくれたんだから」


「パーシヴァル、お前は……」


 ナディアが口を開こうとするが、言葉が出てこない。訊きたいことがありすぎて、困惑していた。


 ナディアの問いを打ち消すように、パーシヴァルがそっと囁く。


「訊きたいことは沢山あるだろうが、後でゆっくり話すよ」


「パーシヴァル、ゴードンはどうなるの?」


 ナディアがゴードンを目で指し示すと、パーシヴァルが吐き捨てるように言った。


「闇に呪われるといい。彼はこの先、眠るたびに悪夢にうなされるだろう」


「どうしてここがわかったの?」


 ナディアが彼の外套を寄せながら訊くと、彼がふっと微笑んだ。


「お前が呼んだからだ。言ったろ? お前が心の底から呼ぶときに、俺は現れる。さぁ、行くぞ」


「行くぞって、使用人たちに捕まっちゃうわ」


「大丈夫。闇で眠らせてあるから」


 ナディアが眉をしかめる。闇の人影というものは夢を操るのだろうか。すると、パーシヴァルが目を細めた。


「眠りの闇は俺の味方だ。まずは宿に戻るぞ」


 そう言って、彼はナディアを抱きかかえた。


「ちょっと! 歩けるってば」


「足がすくんでるくせに、強がるな」


 屋敷の中を抜けると、使用人たちがうずくまって眠りこけているのが見えた。

 そっとパーシヴァルの顔を見上げる。夢の中で微かに見えた口と同じものが固く引き締まっていた。

 不思議と、闇の人影を初めて見たときのような畏怖は消えていた。

 パーシヴァルは自分を守ってくれる。そう思うと、闇すら愛しく見えてきた。ゆらりゆらりと揺れるうち、ナディアは眠りについた。パーシヴァルの腕の中は、すべてを包み込んでくれる夜の闇に似ていた。

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