第四章
闇の王
「パーシヴァル!」
ナディアが叫んで飛び起きた。息を弾ませる彼女が見たものは、宿屋の部屋だった。
「……夢?」
だが、ゴードンに襲われたことも、闇の人影が現れたことも、すべて両腕の痣が現実だと物語っている。
ナディアが呆然としていると、部屋の扉が開いた。
「起きたか」
それはいつものパーシヴァルの姿だった。手には湯気の立ちのぼる粥が乗った盆を持っている。
「食欲は?」
「ない」
「駄目だ。食べろ」
「それよりも話がしたい」
ナディアが探るような目で彼を見た。
「お前、人間じゃないな」
パーシヴァルは肩をすくめて、盆を置いた。それは無言の肯定だった。椅子を寄せ、ナディアの傍に座る。
「何故、黙っていた?」
とがめる声に、彼は目を細める。
「お互い様だ。お前だって、精霊が見えることを黙っていただろう」
ぐっと言葉に詰まっていると、彼は「ほら」と粥をナディアの口に運ぶ。仕方なく口に入れると、優しい味が沁み入った。
「精霊には王がいるって知ってるか?」
「あぁ。だが、会ったことはない」
「そして、精霊を束ねる王たちを統べるのが、六人の帝王たちだ。王や帝王は地上の精霊と違って力が強く、人間にも姿が見えてしまう。それで『精霊界』や『冥界』に隠れ住んでいる」
じっと黙って耳を傾けるナディアに、彼は微笑んだ。
「俺の闇も、ゴードンに見えていただろう? 俺は冥界に住む『闇の王』だからだ。闇の王は、闇が見せる夢を操り、闇が見た記憶を手繰る。そして冥界の『黄泉の帝王』の跡継ぎでもある」
淡々と話しながら、また粥をすくう。大人しくそれを頬張るナディアを、闇色の瞳が見据える。
「お前に初めて会ったとき、俺の姿は闇に包まれていただろう」
「夢で見た人影のことか」
「そう、俺が夢を渡ったんだよ。お前が愛するものの温もりを欲するとき、俺を思い出すように加護を施した」
「それは変だよ。あのとき、私はセシリアの温もりを欲したんだ」
忘れもしない。十五になった明け方だった。
だが、彼は首を横に振る。
「あのとき、お前はセシリアを望んでいない。なぜなら、心のどこかで彼女はもういないとわかっているからだ。お前が欲したのは新しい誰かの愛情」
そして、彼はふっと微笑む。
「……それが俺だ。そしてお前は心を開いてくれた。だから東屋で闇を操る俺の姿が見えた」
「お前の姿は人間にも見えるんだろう? 何故、闇に隠れて見えたんだ?」
「普段は姿が見えても、闇を扱うときの俺は闇に隠れてしまう。ゴードンにだって、俺を闇の塊にしか見れなかったじゃないか。でもお前はどんなに闇に包まれても、俺を見通せるよ」
「何故? 何故、私には闇に包まれた姿が見える? 何故、お前は私に近づく?」
パーシヴァルがそっと微笑んだ。
「お前の持つ闇の力は俺の闇と同質だから、闇に隠れた俺も見て取れるんだ。意味がわかるか?」
「わかるわけがない。じらすな」
口を尖らせるナディアに、彼は愉快そうな笑みを浮かべた。
「冥界には二人の帝王がいる。俺がいずれ跡を継ぐ『黄泉の帝王』と、その妻である『時の女帝』だ。時の女帝はこれから生まれる者に天命を施す役目を担っている。そして、お前は次の時の女帝になる天命を持って生まれた」
彼はそう言うと、そっとナディアの目を見つめる。パーシヴァルが静かながら力強い声で囁いた。
「つまりお前は、俺の伴侶になる天命なんだ。俺たちは未来の冥界の帝王としての闇を持って生まれた者同士なんだよ。俺たちが心を通わせれば、闇も通じる。その闇を通して真の姿も見通せるし、声を聞くことができる。俺が願っていたように」
「伴侶だって?」
あんぐりと口を開けたナディアに、パーシヴァルが「そう」と粥を流し込んだ。
「そう決まっている」
「誰が決めた?」
「天命といえばそれまでだが、ちゃんと俺が決めた。自分の心に従って、お前を伴侶にしようって」
みるみるうちに赤くなるナディアを見て、パーシヴァルが小さく笑った。
「お前は俺が怖いか? 初めて見たときからずっと恐れていただろう」
ナディアは闇色の瞳に素直に頷いた。確かに最初は怖かった。知らないから怖いのか、それとも闇の力に怯えたのかはわからない。
ただ、その相手がパーシヴァルだと思うと、不思議と怖くなかった。
「俺も同じだ。お前とこうして話せるようになるまで怖かった。知らないだろう? 祈るような気持ちで加護を授けたことを」
彼はナディアの頬に手を当て、小さく唸った。
「俺の加護はもう消えているな。お前が心を開いたから」
ナディアは言葉もなくそれを聞いていたが、ふとため息を漏らす。
「パーシヴァル。少し頭を冷やしたい。いきなり考えることが増え過ぎて困る」
「はは、そうだな」
「湯浴みしてくるよ。あの男の感触を拭いたいしな」
パーシヴァルの顔にさっと曇りがさした。
「あぁ。俺はここで待つよ」
ナディアが立ち上がると、パーシヴァルが呼び止める。
「ナディア」
振り返った彼女に、彼はこう言った。
「戸惑うのはわかる。でも、怖がらないでくれ」
ナディアは口だけで微笑み、湯浴みへ向かった。
一糸まとわぬ姿のナディアは、その体に湯をかぶる。ゴードンに打たれた頬や手首が痛んだが、あの芋虫のような指の感触を消し去るように体中を必死に濡らした布で拭った。
知らず知らず、彼女の涙が湯に紛れた。力の差が怖いと思ったのは初めてだった。自分の精神まで破られたような屈辱に、自分の体を抱きしめ、彼女はうずくまる。
指先が二の腕に食い込んだそのとき、『怖がらないでくれ』という、パーシヴァルの声が思い出された。
ナディアは濡れた顔を上げる。まるで、そう言う彼自身が怯えているようだったことに気がついた。
自分の体を抱く腕に力をこめてみる。だが、どんなに目一杯抱きしめても、東屋で彼に抱きしめられた感触とは違っていた。
いつしか、ナディアの心が熱く脈打っていた。
部屋に戻ると、椅子の上でうたた寝をしていた彼がそっと目を開ける。
「髪は乾かしたか?」
「パーシヴァル、訊きたいことが多過ぎて……」
思わず頭を抱えるナディアに、パーシヴァルが眉を上げた。
「今度は俺が訊く番だ。何故、あんなにあっさり捕まった? 街の掲示板でこれを見なかったのか?」
彼が懐からナディアの姿絵を取り出した。ナディアが青い顎の男に声をかけられたこと、明星の精に騙されたこと、そして屋敷でのゴードンとの会話を話す。
すると、パーシヴァルが「厄介だな」と、難しい顔をした。
「その外観からいって、そいつは『狂い姫』と呼ばれている明星の精だろう。その名の通り何事にも狂気じみてるんだ。自分の名さえ忘れるくらいに」
彼は困ったようにナディアを見た。
「彼女は『自分を愛してくれない者を愛する』という天命を時の女帝から受けたせいで、冥界を憎んでいる。その矛先が俺と一緒にいたお前に向かったのかもしれない。現在の帝王たちは俺の両親なんだ」
「そんな天命を与えられたら、冥界に関わりのある者を憎みたくなる気持ちもわからないではないけど、とんだとばっちりだ」
ナディアが苦々しく言う。
「いくら闇の匂いがすると精霊たちに言われようと、私は人間なんだぞ。私が時の女帝になれるものなのか?」
「異界の食べ物を口にすれば、その世界に属する契約が結ばれる。そうすれば問題ない。もっとも、お前に覚悟があればの話だがね」
パーシヴァルは静かに続ける。
「人間も精霊も、生まれ、生きて、死んで、還る。そして穢れを払われ、また生まれる。その繰り返し。冥界の帝王と女帝は生と死を回す者だ。二人揃わなければ命は巡らない。だから、黄泉の帝王は時の女帝を見つけなければ即位できない」
彼の目は、ナディアを真っ直ぐ見つめていた。
「でも、俺は帝王になりたいからお前といたい訳じゃないんだよ」
彼はふっと笑みをこぼした。
「最初は心のどこかで反抗していた。天命なんかに踊らされてたまるかってね。けれど、探し当てたお前を見た途端、まだ子どもだったが、俺の左胸が踊った。ずっと見守ってきたんだ。精霊から昼の様子を伝え聞き、夜は闇が映し出したお前を鏡に映して」
そして、彼はおどけるように首を傾げた。
「お前の初恋に俺がどれだけ嫉妬したかわかる?」
リンとのことだろう。ナディアの顔が赤くなった。
パーシヴァルは手を伸ばし、金色の髪をそっと撫でた。
「俺は怖かった。おかしいだろう? 精霊の王といえども、すべてが思いのままにはならない。人の心なら尚更だ。だけど、お前は闇の人影にしか見えない俺を知ろうとしてくれた。だから、俺はお前の前に姿を見せようと決意した」
そしてナディアをそっと抱き寄せた。
「こうして近くにいなければ伝えられないことがある。助けられないこともある。だから来た。お前が俺に、愛されなくても、愛して欲しいと願う勇気をくれたんだ」
パーシヴァルは彼女の体から離れると、矢車菊の瞳をのぞき込んだ。
「俺が嫌か?」
「……不思議と嫌じゃない。だが、わからないことが多過ぎて怖い気もするよ」
正直に言うと、彼は笑う。
「お互い様だ。俺もまだまだお前の知らない一面がある。だから一つずつ知っていこう」
ナディアは小さく頷いた。砂漠に雨を降らすよりも奇跡だと思っていたものが目の前にあると思うと、夢のようだった。
パーシヴァルは満足そうに頷く。
「これからまだ時間はたっぷりある。少しずつ教えてやるよ。お前の加護のことや、精霊界や冥界の理をね」
「私の加護は、一体何を封じているんだ? 私の体から出て来る闇はお前のものではないのか?」
「紛れもないお前の力だよ。それは時の女帝が持つ闇の力だ。まだまだ目覚めたばかりで弱いけどな」
そう言う彼は呑気にあくびをしている。
「今日はここまでにしよう。明日は隣町に行くぞ」
「隣町? あの陶磁器の町にか?」
「当たり前だ」
パーシヴァルが眉根を寄せた。
「何故、お前の名前を知っていたか気になる。それにお前を欲しているなら尚更突き止めなきゃ。大体、お前は無自覚すぎる。もっと慎重になれ」
「どういう意味?」
「お前は今や『奇跡の踊り子』なんだ。誰もが欲しがる女を妻にするのは鼻が高いが、苦労もするんだぞ」
「まだ妻になるとは言ってないぞ」
「いいや、お前はなるよ。お前の力が強くなっているのは、俺との繋がりが深くなっているからだ。お前は俺を確かに望んでる」
あまりの自信に唖然としていると、パーシヴァルが苦々しく呟いた。
「とりあえず、隣町の町長をうんと懲らしめてやる」
「闇の王といっても、一人の男だな」
ナディアは思わず呆れて肩をすくめた。パーシヴァルの声は嫉妬まみれだった。
「当たり前だ。精霊の王は神じゃない。『神界』にはそんな者もいるらしいが、俺は見たこともない」
そこで彼は言葉を切り、ふっと眉尻を下げた。
「もっと、ゆっくり話そう。俺たちはいろんなことを知らなきゃならないんだからな、お互いに。今は落ち着いて休むといい」
「無理だよ。興奮してる」
口を尖らせるナディアに、彼は小さく笑った。そして、その指先から小さな闇を生み出した。それはまるでリスのように素早くパーシヴァルの体を駆け抜け、空気中に拡散する。一気に部屋は暗闇に包まれた。
「これで少しは落ち着くはずだよ。おやすみ」
まるで夜のような一室の中、彼はナディアの頬に口づけした。
「……本当に、無事でよかった。お前は未来の妻だ。誰にも手出しはさせない。安心して眠るといいよ」
そう言い終わると、彼は扉を静かに閉めた。
ナディアは自分の顔が熱くなるのを感じて、毛布を口許まで引き寄せた。
部屋を埋める闇はどこまでも優しく、柔らかい。まるでパーシヴァルの腕に抱かれているようだった。
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