左胸の声

 闇の中で横たわるナディアの目は、一向に閉じることはなかった。ただじっと宿屋の天井を見上げている。

 パーシヴァルの闇は温かい。ゴードンに向けたものは刺々しかったが、少なくとも自分を包むときは春の日だまりのような安らぎがある。

 彼女はもの言わず、そっと空中に手を伸ばした。自分の体から出る闇は、他者からすれば、禍々しいものに見えるのだろうか。彼の闇の瞳には、どう映るのだろう。


「……パーシヴァル」


 祈るような気持ちで名を呼ぶ。その瞬間、彼女の指先にするりと闇のひとかけらが生まれ出て、巻き付いた。まるで小動物がじゃれるように、ちょろちょろとナディアの指と戯れる。


「お前は私が不安なのがわかるのね?」


 ナディアが思わず微笑む。セシリアに話しかけるように闇にそうするとは、以前の彼女なら想像もしなかったことだ。


「パーシヴァルは何故、私を伴侶に選んだのかしら?」


 すると、指先の闇が震え、空中に離れた。彼女が見守る中、その姿が薄い盤のような形に変わっていく。みるみるうちに、闇の盤にぼんやりと不思議な光景が映り出した。この闇が見てきた王の姿が、そこにあった。


 そこは闇の世界だった。だが、漆黒の闇ではない。

 空中に溢れる蛍のような無数の光と、地面を埋め尽くすぼんやり光る花々の微かな明かりが、暗さを和らげている。

 その上をあどけない顔をした幼少時代のパーシヴァルが歩いていた。


「天命なんてくだらない。自分の花嫁くらい自分で選びたいよ。化け物みたいな子だったらどう責任とってくれるんだ」


 幼いパーシヴァルがぶつぶつ呟いていると、突然たき火の爆ぜるような鳥の鳴き声がした。天を仰ぐと、セシリアによく似た鳥が旋回している。ナディアの鳥と違っているのは、長い尾がないことと、その足に何やら光る玉を持っていることだった。

 白い鳥はパーシヴァルの上を優雅に羽ばたき、闇の向こうへ消えていく。それを見送るパーシヴァルがぼやく。


「たとえ俺が好いたって、彼女が拒んだらどうすればいいんだよ?」


 その顔は今にも泣き出しそうだった。怯えるように、右手を見つめる。


「この手をとってくれなかったら? 俺はずっと独りなの?」


 彼はその場にうずくまり、光る花を蹴飛ばした。


「親父もお袋も親である前に帝王だ。天命ばかり気にして、ちゃんと俺を見てくれない。愛してくれてなんかないんだ。俺は……ひとりぼっちだ」


 その呟きは無数の光の中に消え、不意に闇の盤に映る景色が揺れた。

 次に見えたのは、ナディアの生まれた屋敷だった。

 パーシヴァルが子ども部屋の隅から沸き立つように現れた。先ほどの姿よりは少し成長した顔つきだ。


「……まさか、こんなところにいるとはな。見つからないはずだ。まさか人の子だとは」


 寝台の手すりに右手を置き、幼いナディアを見下ろした瞬間、彼が息を呑む。ふっと目を細め、穏やかなものを唇に浮かべた。


「間違いないようだ。俺の左胸がそう言っている」


「……だぁれ?」


 目覚めたナディアの寝ぼけ声に、パーシヴァルが笑みをこぼした。


「……賭けをしよう。お前が闇の温もりを欲するとき、俺と会った記憶が甦るだろう。そしてその心が開けば、闇を脱ぎ捨てた俺の姿が見えるはずだ」


 そして幼いナディアの額に手をかざし、加護を施した。

 再び寝息をたて始めたナディアに、パーシヴァルが短いため息を漏らす。


「いつか俺の手をとってくれるなら……」と、祈るように囁く。


「心の底から俺を願うとき、お前のもとへ行くよ」


 彼は眠れるナディアの手を取り、口づけをした。出逢えた悦びを隠さぬ笑みを浮かべたまま。


「……待っているよ。この手をとってくれることを」


 そこで景色がまた移り変わり、今度は薄暗い神殿が映された。

 石造りの小さな部屋の寝台に、パーシヴァルが寝そべっている。

 体に不釣り合いなほど巨大な寝台に、小さな枕が幾つも並べられている。燭台の光は蝋燭の炎ではなく、不思議な丸い玉の発するものだった。

 彼は無言で起き上がり、寝台の端に這っていく。そこから降りると靴も履かずに、壁際の大きな黒い鏡の前に立った。


「見せておくれ。あの子を」


 そう言うや否や、彼の手から闇が飛び出した。そのまま鏡に吸い込まれ、まるで水たまりに石を投げ入れたかのように黒い波紋が広がる。

 そこに映し出されたのは、リンと話しているナディアの姿だった。矢車菊の瞳はリンをまっすぐ捉え、その頬が染まっている。

 パーシヴァルは唇をきつく噛むと、咄嗟にそばにあった壺を投げつける。派手な音と共に、鏡と壷の破片が散らばった。

 彼は肩をふるわせ、拳を握りしめる。


「俺はここで何をしてるんだ」


 寝台に駆け戻り、枕に顔を埋めると、消え入りそうな声で呟く。


「会いに行きたいのに、なんで、こんなに怖いんだろう?」


 そこでまた景色が歪み、今度の彼は違う服で鏡の前に立っていた。その傍に黒い顔をした従者がいる。


「パーシヴァル様、ナディア様が施設を抜け出したそうです。都市を出ることには成功したようですが、施設長の追っ手が向かっているようです」


「わかった。引き続き、様子を見るように。何か危険が迫ったらまた知らせておくれ」


「御意」


 従者が闇をまとって、すっと姿を消した。

 パーシヴァルが鏡に手をかざすと、そこにはセシリアの馬車でうずくまるナディアがいた。


「あの子は、自分で道を切り開いたのか」


 半ば感嘆するような声を漏らし、彼は鏡を覗き込む。その鏡面は施設長の放った追っ手を映し出していた。柄の悪い男たちが松明を片手に走り回っている。


「俺の闇で隠してしまえば、追っ手には見えないだろう」


 彼が何かを念じた途端、セシリアの馬車やたき火もろとも巨大な闇に包まれていくのが鏡に映った。

 ほっと胸を撫で下ろしながら、彼は猫のように丸くなるナディアを見つめる。


「本当は……傍で守ってあげたいんだけど」


 その声はもどかしさに震えていた。


 次に闇の盤が映し出したパーシヴァルは、すっかり大人びた顔をしていた。

 ふと、彼の耳に、闇を通じてナディアの声が届いたのだ。


「誰かがあの家族のように私を愛してくれるなら。私が誰かを愛せる定めなら、私はここで死にはしないだろう」


「私は会いたいのだ。温もりに。温もりを与えてくれる誰かに。雨が降るのを待つように、焦がれているのだ」


 パーシヴァルが「あぁ」と天を仰ぐ。やっと、彼女の声が届いた。そのことが彼を笑顔にさせた。


「ナディア、それは俺も同じだよ」


 彼は自分の手のひらを見た。あふれ出る闇が蛇のようにぬるりとまとわりつく。


「こんな臆病な俺でも、君を求めていいかい?」


 パーシヴァルはしばらく目を閉じていたが、やがて決意したように目を開ける。その途端、彼の姿を闇が覆った。

 パーシヴァルが意識を人間界に飛ばす間、まるで酔いそうなほどの勢いで景色が流れ、辺りはあっという間に砂漠と化した。パーシヴァルの目の前で、あの日のナディアがどす黒い闇をうねらせているところだった。


「お前は誰にも愛されないだろう。お前のような者に、愛などいらぬ。私と同じように、愛されぬ人生を生きるがいい」


 その呟きに、パーシヴァルが憐憫の目をした。


「いけないね、ナディア。そんなに簡単に呪いの言霊を口にしては」


 彼は言う。どこまでも悲しそうな笑顔で。


「この雨が降るように、愛が降る日を待ち望んでいる。そして、それがいつになるのかわからなくて怖いと震えているんだ」


 彼がそうナディアを言い当てたとき、その目には光るものがあった。

 その後、パーシヴァルは砂漠から冥界へ意識を戻すと、深くため息を漏らして呟いた。


「俺も同じなんだ。君に呼んで欲しいなんて願うだけの臆病者のくせに。『愛されぬ人生だなんて、言わないでくれ』と伝えたいだけなのに怖くてたまらない」


 そこで闇の盤が、今度は見覚えがある景色を映し出した。

 目の前に広がるのは、ナディアがいつか黒い人影に名前を問いかけた夢だった。

 あのときは黒い人影の姿は闇に包まれていたが、今のナディアにはパーシヴァルの顔つきがよく見えた。

 彼はナディアと対峙しながら、今までに見せたことのない不安げな顔をしていた。怯えるような、それでいてナディアに見蕩れるような顔つきだった。


「お前の名は?」


 夢の中のナディアが問う。


「俺の名?」


 パーシヴァルがその顔に歓喜の笑みを浮かべた。


「……俺の名を知りたいのか? 少しは興味が出てきたかな」


「あぁ。その顔が見たい。お前を知りたい。私が知らないことを知るお前を」


 パーシヴァルは、まるで子どものように頬を染めている。


「……そうか、俺に興味が出てきたか」


 パーシヴァルが意を決したようにナディアに歩み寄った。唇が動いて、何かを口走るが、声が漏れることはなかった。だが、ナディアにはその唇の形でなんとなくわかってしまった。


『会いに行くよ』


 彼はそう言ったのだ。だが、あのときのナディアが戸惑いながら問う。


「何を言った?」


「いずれわかる」


 彼は目元を綻ばせ、すっとナディアの額に口づけをした。思わずのけぞるナディアに、黒い人影が両手を広げて笑った。


「今はこれで我慢してやるよ」


 その瞬間、彼は夢の景色から自分の部屋に戻ったようだった。彼はそのまま寝台に倒れ込み、満ち足りた顔で目を閉じる。


「ナディアは俺に足掻いてみる勇気をくれたんだ」


 そして、次に現れた光景は湖のある街の宿屋だった。

 パーシヴァルはじっと頬杖をついて、宿屋の扉を凝視している。扉が開く度に期待のこもった目で誰が入ってきたか確認し、何度も肩を落とす。

 そして、ナディアが入って来たとき、彼の顔が途端に晴れやかになった。ナディアの一挙一動を目に焼き付けるように、目で追っている。


「おい、あの金髪女を見ろよ。すげえ美人だぞ。お前、声かけてこいよ」


 隣の席にいた男たちが話しているのが聞こえ、パーシヴァルが慌てて立ち上がった。そして、彼は緊張を押し隠しながら食事をしているナディアの前に腰を下ろしたのだ。


 それから幾つかの景色が走り抜け、宿屋の部屋に寝転がるパーシヴァルの姿が映った。仰向けになりながら、自らが描いたナディアの姿絵を見ている。


「お前は眩しいからねだなんて、我ながら気障ったらしい」


 だが、目を閉じた彼は満足そうだった。


「あぁ、でも、遠くで見ているよりもずっと眩しいよ。あの子は闇の中で瞬く希望の光だ」


 そのあとは、闇の盤が何も映さなくなった。

 気がつけばパーシヴァルの用意した闇はすっかり消え失せ、辺りは本物の闇に包まれている。

 彼女は起き上がり、ふと自分が泣いていることに気づいた。

 闇が見せたパーシヴァルの過去を見ている間、彼の感情がナディアの胸に伝わっていた。

 普通の家族ではない、帝王という定めの隔たりによる孤独。王という立場が生んだ友のいない孤独。そして、ナディアに触れ合えぬ孤独。それが痛いほどわかってしまった。


「わからないから怖いのも、この手をとってくれるか不安なのも、人間だけじゃないのね」


 するりと闇の盤が元の小さな姿になり、ナディアの鼻先をかすめて消えた。まるで『ご主人様をよろしく』と言っているようだと、ナディアは笑みを漏らす。


「私、パーシヴァルに勇気をあげたつもりなんてないのに」


 パーシヴァルのように、ただ願っただけだ。それでも、確かに彼は勇気だと言った。実際にパーシヴァルの胸が熱くなるのが、ナディアにまで伝わって来たのだ。


「私たち、似た者同士なのかな?」


 ナディアが小さく笑い、胸に手を当てた。奥底から熱いものがたぎるようだった。


「彼はずっと私を守ってくれていたのね。私は、一人じゃなかったのね」


 彼女の左胸が脈打ち、息も出来ぬほど締めつけられる。吟遊詩人がくれた温もりとはまた違う喜びが、そこにあった。

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