待ち人
翌朝、ナディアたちは隣町に馬車を走らせていた。
手綱を握るナディアの隣で、パーシヴァルが気持ちよさそうに風に吹かれている。こうして飄々と振る舞う男が、実はあんなにも自分を探し求め、見守っていたと思うと、気恥ずかしかった。
彼は自分を『眩しい』と言ったが、本当は逆のような気がした。彼は闇でありながら、陽射しのようだ。今もこうして眩しく思えて直視できないのだから。
ふと、パーシヴァルがナディアを見る。
「どうした? そわそわしているな」
ナディアはぎこちなく笑う。パーシヴァルの過去をのぞいたからだとは口が裂けても言えなかった。
「……まぁ、気になるでしょ。自分を捜しているのはどんな奴か」
不機嫌そうに鼻を鳴らすと、パーシヴァルが足を組んだ。
「そいつのせいで、あんな騒ぎに巻き込まれたんだ。その報いはするさ」
ナディアが苦笑いし、ふとパーシヴァルに問う。
「セシリアはまだ戻ってないんだね」
「あぁ」
「今回は随分と遅いけど、大丈夫かな?」
「気にするな。あいつにも事情があるんだろう」
パーシヴァルはそう笑うと、ふとナディアに目をやる。
「ところで、お前なんだか話し方が柔らかくなったな」
「そう? 前から変わらないでしょ」
「ふぅん。そういうことにしとくけどさ」
そう言いながらも、パーシヴァルの口角が嬉しそうに上がっていた。
隣町は山々に囲まれた窪地にひっそりと佇んでいた。
巨大な山の精たちがあぐらをかいて町を囲み、押し黙っているのだった。
「山の精は本当に無口だな」
パーシヴァルが漏らした言葉に、思わず笑みが浮かんだ。自分と同じ物を見る存在がいるだけで、どんなに気持ちが楽になるか思い知る。
彼らは真っ先に町の掲示板を探したが、ここにはあのナディアの姿絵はなかった。
「ゴードンだけに依頼したのか? ここでは狙われないかな?」
パーシヴァルは訝しげだったが、ナディアは胸を撫で下ろしていた。
「今夜は宿屋に泊まれそうね」
「まぁ、どうせ寝るなら野宿より寝台がいい」
パーシヴァルも拍子抜けしたように笑う。
二人が宿屋に入ると、人のよさそうな中年の夫婦が出迎えてくれた。
部屋に荷物を置くと、彼らが歓迎の証に茶を煎れてくれた。薄い黄緑色をした茶で、爽やかな風味がした。
「この町は陶磁器しか知られてないんですけど、実は薬草の産地でもあるんですよ。これは疲労に効きますから、たんと召し上がれ」
そう微笑んで、宿屋のおかみが出て行こうとするのを、パーシヴァルが呼び止めた。
「ここに腕のいい陶磁器作家がいると聞いたんだが」
すると、おかみはまるで自分の息子を褒められたような顔で振り返る。
「町長さんのことかしら? そりゃあ、素敵な陶磁器ばかり手がけるんですよ」
「……どんな人だ?」
「去年、やっと成人なさったばかりの若い方ですよ」
「そんなに若いのか?」
パーシヴァルが思わず問い返す。すると、おかみが同情に満ちた目で頷いた。
「前の町長夫妻が亡くなって、息子の彼だけが残されたんです。とてもお優しい方で仲のいい親子だったのに、お可哀想に」
「彼に会うことはできるかな? 実は俺たちは行商人で彼の作品を幾つか仕入れたいと思ったものだから」
愛想のいい笑みを浮かべるパーシヴァルに、おかみが小さく唸る。
「どうでしょうね。最近ではお屋敷にこもりっきりってお話ですから。とりあえず今日はゆっくりして、明日の午前中にでも訪ねてみたらいいですよ」
そのとき、階下から宿屋の主人がおかみを呼ぶ声がした。
「もう少しで湯浴みできますから、もう少々お待ちくださいね」
そう言って、おかみは慌ただしく部屋を出て行った。
「なんだか町長は好かれているようだな」
またもや拍子抜けした声を上げ、パーシヴァルは寝台に寝そべった。
「ゴードンみたいな奴だと思ってたんだが、違うのか?」
仰向けのまま考え込み、彼は大きなあくびをした。
「まぁ、会いにいけばわかるでしょ」
「そうだな。湯浴みの時間まで寝るか」
パーシヴァルが寝台の上で手招きする。ナディアがそれを無視して立ち上がった。
「じゃあ、私は隣の部屋で寝るわね」
「本当につれないなぁ」
パーシヴァルは悪戯っぽく笑うと、起き上がって扉へ向かう。
「日当りがいいから、ナディアはこっちの部屋で寝るといいよ。おやすみ」
「……おやすみ」
そう戸惑いながら返すと、彼は優しく微笑んで部屋を出て行った。
ナディアは照れくささを押し殺し、寝台に横たわった。体の芯が重く、疲れがたまっている。太陽の匂いがする布団の心地よさに誘われて、彼女はすぐに寝入ってしまった。
ほどなくして、宿屋のおかみが足音を忍ばせ、パーシヴァルの部屋に近づいていった。僅かな隙間から部屋の様子をうかがうと、彼の静かな寝息が聞こえてきた。
安堵したおかみは、次いでナディアの部屋にそっと忍び込んだ。横になるナディアの寝息を確かめ、彼女は階段で待っていた夫のもとへ戻っていく。
「あんた、急いで」
彼女は宿屋の主人に耳打ちした。
「早く馬を飛ばすんだよ。町長さんにあの娘を渡すんだ」
「わかったよ。それにしても、びっくりしたな。町長さんが探してる娘がうちの宿屋に来るなんてさ」
主人が取り出したのは、ナディアの姿絵だった。
「なんであの娘を捜してるんだろう? この姿絵で見初めたのかね?」
「いいんだよ、そんなこと私たちが知らなくても」
おかみがじれったそうに夫を睨みつけた。
「あの人たちが自分で出向く前に、私らで娘を連れて行かないと礼金がもらえないんだから、しっかりするんだよ。それに、あの可哀想な町長さんの助けになるならいいじゃないか」
「まぁな。いつも一人で可哀想だからな」
「そうだよ、あんなに町のために頑張ってくれてるのにさ。義理とはいえ両親を亡くして悲しいだろうね」
おかみはちょっと目を潤ませたが、すぐに主人の尻を叩いた。
「ほら、早くあの娘を運んでおくれ!」
「わかったよ。でも、あの連れの男はどうする?」
「ほっときな。娘さんは一人で出発しましたとでも言っておけばいいんだよ」
主人が二階へ上がり、寝息をたてるナディアを見下ろした。
「こりゃあ奇跡の踊り子さんというだけあって、別嬪だ。町長さんの嫁御になってくれればいいな」
彼は「よいしょ」と小さなかけ声を出し、ナディアを抱き起こした。だが、彼女はぐっすり眠ったまま目を覚まさない。
扉が軋みながら閉められた。
宿屋の主人は荷馬車にナディアを乗せ、町長の屋敷へと向かった。
白い塀で囲まれた屋敷はひっそりとしていた。主人が門を叩くと、気むずかしそうな使用人が顔を出した。
ぐったりとしたままのナディアを抱えた使用人は、金貨の入った袋を渡しながら「住民に待ち人は見つかったと広めなさい」と言い残し、去った。
「この屋敷も、すっかり辛気くさくなったものだ」
閉ざされた門を見つめ、宿屋の主人が悲しげな顔をした。
前の町長夫妻が生きていたときは、常にこの門は開かれていた。晴れた日などには誰か彼かがここを訪れ、町長夫妻とその義理の息子たちととりとめもない会話を楽しんだものだった。
主人は、町長夫妻の朗々とした笑い声を思い出し、すっかり侘びしい気持ちになる。沢山いた使用人も、先ほどの男たった一人になってしまった。
彼は手に収まった金貨を見つめ、とぼとぼと荷馬車に戻る。
「あの娘には悪い気もするが、これで町長さんが少しでも明るくなるなら、みんな喜んでくれるさ」
屋敷の壁沿いに綺麗に植え込まれた矢車菊が、風に揺れて彼を見送っていた。
夕方になると、ナディアは奇妙な香りに包まれて目覚めた。視界がぼんやりしてよく見えない。だが、宿屋ではないことを察し、必死に目をこらした。
「ここはどこ?」
動こうとした途端、鋭い痺れが彼女を襲った。手足を動かそうとするが、まったく四肢が動かないのだった。そして自分が椅子に座らされていることに気づき、背筋が凍りついた。
縛られてはいないが、薬を盛られて拉致されたことは明白だった。
何度も瞬きをすると、ようやく部屋の様子がくっきり見えてきた。
薄暗く、質素な部屋だった。白塗りの壁沿いに棚が設けられ、そこには蒼い陶磁器が並んでいる。壁には大きな矢車菊の絵がかけられていた。
あまりの驚きに言葉を失っていたが、ふと鼻を刺激する香りに気づいた。よく見ると傍らに台が置かれ、その上にある香炉から一筋の煙が天へ昇っている。それが香りの正体らしい。
「これは何?」
眉根をひそめると、
「あぁ、目覚めたんだね」
低い、だがよく通る声だった。ナディアと同じくらいの年頃で、すらりと伸びた痩せた体つきをしている。線の細い顎と、柔らかそうな黒髪が目をひいた。
「誰?」
ナディアが噛みつくように鋭い声を上げるが、彼は歓喜の笑みを浮かべ、ゆっくりと歩み寄って来る。
「……夢みたいだ」
恍惚とした声で、彼はナディアの目の前で、そっと膝をついた。
「やっと会えたね。僕のナディア」
間近になった男の顔に、ナディアが息を呑んだ。彼の柔らかい瞳の色は晴れた空と同じ青だった。そこに懐かしい面影を見出し、顔がこわばった。
「まさか……リンなの?」
彼は返事の代わりにほんのりと頬を染めて微笑んだ。
「久しぶりだね」
彼の声はもうナディアの知っている声ではなかった。声変わりをして驚くほど低い。
「リンなの? 本当に?」
こみ上げる歓喜に震えそうになった。だが、すぐに我にかえる。
「ねぇ、これはどういうこと? 何故、私はここに? 体が動かないの」
「落ち着いて」
リンは物腰柔らかく言う。
「この町の人にお願いしてあるんだよ。ナディアが現れたら連れて来るようにね」
「どうして?」
「どうしてって、決まってる」
リンが無邪気に笑った。
「君に会いたいからさ。だから、縛ってでも連れてくるように言ってある」
違和感がナディアを襲った。リンの目は穏やかだが、その奥にある何かが、彼女を警戒させた。
「宿屋の主人は催眠作用のある茶を使ったらしいね。ここは薬草の産地だから、そういうのはお手の物なんだ。このお香もそうだよ」
リンが淡々と言い、唇をつり上げた。
「一時的に四肢の動きを麻痺させてしまうんだ」
「どうしてリンは動けるのよ?」
「解毒剤を飲まずにこの香を焚くほど馬鹿じゃないよ」
ナディアは眉根を寄せた。
「こんなことしなくても、私は逃げないわ。私だって、リンに会いたかったよ」
瞼がじわりと熱くなった。少なくとも、会いたかった人が目の前にいるからではない。今のナディアの胸の痛みは、そういうものではなかった。
「君に逃げられては困ると思ったんだよ。連れの男がいるって見張り番が言ってたしね」
肩をすくめると、リンが立ち上がる。その目に狂気と嫉妬がちらついた。
「僕は君にずっと、ここに居て欲しいんだから」
言葉を失うナディアに、リンが微笑んだ。
「ナディア、あの暖炉の上の皿が見える?」
視線を暖炉の上に移すと、そこには巨大な皿が飾られていた。夏の夜空のような黒みを帯びた深い蒼が美しい。星々のような煌めく点と天の川のように揺らぐ色彩があった。
「あれは僕の作品で、『夜の雫』と呼ばれている。みんなが僕の最高傑作だなんて言うよ」
「あれが、ゴードンの欲しがった『夜の雫』?」
「あぁ、ゴードンか。彼にはがっかりだな。物欲に負けて君を連れて来てくれると思ってたのに」
そこにいるのは、もうあの頃のリンではなかった。冷めた目とどんよりとした生気をまとう様子に、ナディアの肩がわななく。
「リン、あんた……一体、何があったの?」
「何も。何もないんだ」
リンが卑屈に笑う。
「僕は独りなんだよ。僕はずっと君を求めてた。君のその矢車菊の瞳が恋しくてたまらなかった。だから蒼い陶磁器で君の瞳を作ろうとしたんだ」
リンの手が、ナディアの顎を上に向ける。彼の青い瞳にナディアが映ると、喉を鳴らすように笑った。まるで子どものような無邪気な笑い声だった。
「だけど僕の陶磁器なんて、何の価値もない物だよ。だって、君がここにいるんだからね」
ナディアの目からいつしか涙が溢れた。自分の恋したリンは、もういないのだ。そんな声が、彼女の胸にすとんと落ちていた。
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