第三章
火の女帝
「ジゼル、危ない!」
次元の狭間から飛び出そうとしたジゼルに、セシリアが鋭い声を上げた。
危うく次元の狭間から海へ真っ逆さまになるというところで、慌てて踏みとどまる。
「まったく、ぼんやりしてるんじゃないよ。しっかりしておくれ。ここは初めてじゃないだろう?」
「ごめん、セシリア」
地の神殿へベアトリスの書簡を届け、すぐに海の神殿へ行くことになったのだが、ジゼルはずっと上の空だった。
あの水鏡を見て以来、ジゼルはことあるごとにセオドアの姿を思い描いていた。同時に、彼が頬を染めてみつめる少女の姿も。
「ねぇ、綺麗な海ね」
ジゼルが水平線を眺め、ぼんやり呟く。潮風が黒髪をなびかせ、耳元にびゅうびゅうという音を残していた。
「この景色を見せてあげたいわ。けれど、きっと彼は彼女にも見せたがるでしょうね」
思わず声に出してしまったが、セシリアは何も言わなかった。それが今のジゼルにとっては有り難かった。
水の神殿の中に入ると、帝王ディランは相変わらず玉座にだらしなく腰掛けていた。気だるそうに、頬杖をつきながら声をかけてくる。
「これはこれは、伝令の女王。今日は何用かな?」
顔は笑っているが、その目はまるで井戸水のように暗く、冷ややかだ。
「天の女帝と黄泉の帝王からの書簡を預かっております」
ディランは二通の書簡に素早く目を通す。
「ほう。金剛石の玉座が選んだのはベアトリスだったか。先代の帝王は頑なだったが、気のいい男だった。残念だ」
そう言うと、読み終えた書簡を懐にねじ込み、ジゼルを見据えた。
「それで、そなたは神界へ行きたいと?」
「はい。火の女帝ミネルヴァ様にお会いしたいのです。神界への立ち入りを許可願えますか」
「構わぬよ。むしろ、あんな退屈な場所へ行かねばならぬことに同情する」
「どんな場所なのですか?」
「なに、あそこは時間が止まったような場所だ。この世界が出来てからずっとね。余は変化のないことは嫌いでね」
そう言うと、ディランがにっと唇をつり上げた。
「神界なんぞより、そなたのほうがよっぽど面白い。ずいぶんと変わったな」
「私がですか? 確かに少しは背も伸びましたが……」
ディランは「違う」と短く言い、舌打ちを三度した。
「恋をしたと見える」
「恋……ですか? 確かに私は重く苦しいものを抱えています。ですが、これが恋と呼べるのかわかりません」
「そなたがどう自覚していようが、それは恋をする者の顔だよ。いいか、ジゼル。よき淑女というものは無垢なままではならぬのだ。おぞましいものに打ち勝つ強さが美しさの秘訣だからね」
帝王の蒼い瞳は虚ろに天を仰ぐ。
「ミネルヴァもそうだな。あの情念の炎は熱く美しい。だが、余は背筋が凍りつく」
「ミネルヴァ様とは、どのようなお方なのでしょう?」
「その目で確かめよ。百聞は一見にしかず。ジゼルはそれをよく承知であろう。事実を見定めるのは結局、己自身に過ぎないのだ」
「はい。……失礼いたします」
ジゼルは礼をし、海の神殿を去る。
「行こう、セシリア。神界へ」
肩に乗った白い鳥にこう囁き、次元の狭間に足を踏み入れた。
ジゼルは次元の狭間を歩きながら辺りを見回した。この音も光もない世界にすっかり慣れたと思っていたが、この日はぞっとするほど寂しかった。一筋の光も差さない闇が、まるで自分を取り巻く孤独そのものに思えて、気が滅入る。
今まで友達がいなくても平気だった。愛すべき家族がいるからだ。けれど、今のジゼルが求めるものは家族でも埋められないものだった。
そして、そこへたどり着く道は歩き出す前に閉ざされてしまった。あの薄墨色の髪をした美しい人間が、そこにもう居場所を得ているのだ。
ベアトリスの言葉が胸に今更ながら突き刺さった。ジゼルの胸の中に宿った火は、いつもセオドアの影を落とす。その光は凍えた心を温めてくれるようで、そうかと思えば体中の血を煮えたぎらせてしまう。影はいつも二人分だからだ。
自分の中にこんな狂気があったことに彼女は驚いていた。いてもたってもいられないくせに、手を伸ばすことも許されない。いや、本当は手を振り払われるのが怖くて、手を出すことすら出来ずにいる。
だが、ジゼルはふっと自嘲し、思わず呟いた。
「いつか兄上が言っていたことがよくわかる気がするわ」
セシリアがふふんと鼻を鳴らす。
「そういうのは門外漢なんでね。まぁ、せいぜい悩むといいさ」
「憎たらしいこと」
「おやおや、ドリス様の真似かい?」
ジゼルは思わず笑ってしまうと、ふっと目を細めた。
「ありがとう。……久々に笑ったわ」
「次はもうちょっと質のいい笑いを期待するよ。ほら、もうそろそろ神界だ」
ジゼルの顔に緊張が走る。目の前に白い光が滲むのを、固唾を呑んで見ていた。
「ここが神界だというの?」
次元の狭間から出たジゼルは、目の前にある神殿にあんぐりと口を開けた。
彼女を驚かせたのは、その小ささだ。これではエイモスの部屋のほうが大きいのではないかと思われた。辺りは白い靄で包まれ、他には何も見えない。
「ミネルヴァ様はいらっしゃるようだね」
セシリアの視線を追うと、神殿の入り口に火の使い鳥がいる。その傍らに二人の小さな女の子が座っていた。どちらも白い髪と同じ顔立ちをしていて、双子のようだ。
じっとつぶらな瞳でこちらの様子をうかがっていたが、一人が怪訝そうな顔で口を開いた。
「あなた、だぁれ?」
「やぁね、ステラ。人に名前を訊ねるときは自分から名乗るものよ」
もう一人の女の子が、そうたしなめる。ステラというらしい女の子は金色の瞳をしていたが、彼女は銀色だった。
「私はエステル。こっちは双子の姉のステラ。あなたは?」
もみじのような手で握手を求めてくる。ジゼルは思わず微笑み、その手をとって口づけの挨拶をした。
「冥界より参りました伝令の女王ジゼルと申します」
「あぁ、噂は聞いてるわ。イグナス様のお気に入りね!」
ステラがパッと顔を明るくさせた。
「そうだといいんですが」
懐かしい名前に思わず頬を緩めると、エステルが胸を張る。
「私たち、イグナス様の従者なの。火の粉の精なのよ」
「どうしてここに? イグナス様のお側にいなくていいの?」
すると、二人は途端に困った顔つきになった。
「あのね、他の帝王には内緒にしてくれる?」
「えぇ」
ステラが上目遣いでぼそぼそと話し出す。
「本当はね、火の女帝は一人でここに来なきゃいけないの。だって、それが精霊界の慣しだもの。だけどね、ミネルヴァ様はあまりにここに籠るから、お世話がいるって火の眷属で話し合ってね、私たちが内緒でついてきているのよ」
エステルはため息まじりに、腕組みをして眉をしかめている。
「だって、火の鳥のお世話もいるのに、ミネルヴァ様ったら、神殿にこもりっきりでほったらかしなのよ」
「ミネルヴァ様は中で何をなさっているの?」
「わからない。ただ、ずっとぼんやり座ってるの」
「そう、ではジゼルがお会いしたいと伝えてくれる?」
「うん、待ってて」
エステルが颯爽と駆けて行く。そして、戻ってきたときには、赤々とした光をまとった女性を連れていた。
「ミネルヴァ様、この方です」
エステルが得意げに言うと、彼女はそっと目を細めた。
「会えて嬉しいぞ。私は火の女帝ミネルヴァだ」
姿を現したミネルヴァは、火の女帝に相応しい女だった。豹のようにしなやかで締まった肉体に神々しい炎が何も焦がすことなく蛇のようにまとわりついている。その凛とした顔は細く、気高い。橙を帯びた赤い髪と目映い金色の瞳が、いかにも火の女帝といった風貌だった。
「お会いできて光栄です。伝令の女王ジゼルと申します」
冥界流のお辞儀をすると、女帝はジゼルの頭からつま先まで視線を走らせた。
「イグナスから聞き及んでおる。なるほど、少しあの女に似ているか」
「母上のことでしょうか?」
「いや、イグナスの想い人だ」
くくっと笑い、ミネルヴァが手招きする。
「入るといい。それにしても、伝令の女王も勤めとはいえ、こんなところまでご苦労なことだ」
ステラとエステルを残し、神殿の中に入っていくと、すぐに広間に出た。
思わず足を止め、ジゼルは息を呑んだ。
「これは……」
広場の中央には巨大なかがり火があり、そこに頭を向けるように東西南北の向きに四つの寝台が置かれていた。
南の寝台に横たわっているのは猛々しい若い男で、東の寝台は美しい若い女だった。そして北の寝台には、男か女かわからないほど両性的で綺麗な顔をした若者だった。三人とも雪や雲のような真っ白い肌と髪を持ち、しずかに目を閉じている。だが、西の寝台だけは空だった。
「こちらにおられるのが、名もなき神々だ」
ミネルヴァがそっと寝台の縁に手をかけ、ジゼルを見据えた。
「この世界が出来たときから永遠の眠りについているそうだ。言い伝えではその眠りによってこの世界は安寧を保っているという。本当に彼らが神なのか、本当に彼らがこの世界を作ったのかは、わからない。だが、それでも我々はその眠りを守るべく、こうして火の番をするのだ」
「彼らが目覚めることはないのですか?」
すると、女帝がふっと鼻で笑う。
「そのときは世界が滅する災いを見るだろうという伝説だ」
「神なのに、名もないのですね」
「三柱のうち、男の姿をしている者は光明神、女の姿をしている者は地母神、若者の姿をしている者は霊水神といわれている。名前といえるのはそれくらいだ」
「どうして西の寝台は空なのですか?」
ミネルヴァが細い顎を擦る。
「言い伝えによれば、神々は全部で四柱だった。だが、そのうちの一人、炎武帝だけは世界を練るために眠らず地に留まったという」
「それじゃ、その炎武帝はどこに?」
「知らぬ。だが、彼こそが我らの祖だとされている」
「初めて知りました」
ジゼルが生唾を呑んでいると、ミネルヴァが笑った。
「そうだろうとも。精霊どもは神々がどこから来て何をしていようと気に留めるものか。話の種にもならん」
「でも、これでは、神はいないのと同じですね」
神々はこうして、永遠の眠りについているのだ。どんなに神に祈っても何も変わらないのも合点がいく。
「それでいいのだ。神々など当てにしては、ろくなことにならん」
ミネルヴァがそっとジゼルに歩み寄った。
「さて、そなたは神々を見物しに来た訳ではあるまい? 何用かな」
我にかえり、ジゼルは天の女帝の書簡を渡す。それに目を通すと、ミネルヴァはさっさとかがり火にくべてしまった。
「興味がない。誰が帝王になろうとも、私はこの神殿にいられればいいのだから」
黒く縮れていく書簡を見ながら、ジゼルが呟いた。
「何故、ミネルヴァ様はここに長く籠られるんですか?」
水の帝王が言うように、ここには変化がない。いつでも同じ景色と、止まったような時間。自分であれば、三日で気が狂いそうになるだろう。
すると、ミネルヴァの顔つきがふっと妖艶なものになった。
「好いた男の傍にいたいと思うのは自然なことであろう?」
「好いた男?」
呆気にとられていると、ミネルヴァは霊水神と呼ばれた若者の傍らに歩み寄る。
「そうだ。心を奪われた。それ以外にここにいる理由はない。それに、むしろ私の火の力は精霊界や人間界にいるには強すぎる。戦火を呼び、災いを招くであろう。ここにいるべきだ」
若者を見下ろす横顔は頬に染まり、その目は愛おしさに細められている。だが、ジゼルにはそれがこの上なく淋しげに見えた。
それを察してか、ミネルヴァがふっと笑った。
「私を孤独だと思うかね?」
「えぇ。まるでエイモスとシルヴィア様のようです」
「だが、私には私の形がある」
ミネルヴァは自らに戯れるように群がる炎をそっと撫でた。
「何度も願ったよ。彼の瞳の色を知りたい。その瞳に私を映してくれたなら、その声で私の名を呼んでくれたならどんなにいいだろう、とね。だが、この心が占められている以上、傍にいられるだけでいいのだ」
「それで本当に? それでいいのですか?」
すると、彼女はジゼルに背を向け、かがり火を見つめる。
「私は先ほど、そなたに言ったな。炎武神こそが我々の祖だと。人間も精霊も炎武神の子。誰もが心に火を灯す。私とてそうだ」
「ベアトリス様も仰っておられました。自分は狂気をくべて恋の炎を燃やしてきたのだと。あなたもそうだと?」
「ふん。天の眷属が我らをさしおいて火を語るか」
鼻で笑い、ミネルヴァが肩をすくめた。
「ジゼル、私が炎にくべるのは狂気ではない」
「では、何を?」
「私がくべるのは自分の信じる心だ」
「信じる?」
「そう。私は彼に心を奪われたことも、たとえ声が聞けずとも傍にいることも悔やまない。自分が彼を選んだことを、決して」
「目覚めたとき、彼には既に想う人がいたとしてもですか?」
そう呟き、ジゼルは唇を噛みながら足元に視線を落とした。脳裏に浮かんだのは、セオドアだった。
すると、衣擦れの音がし、目の前に華奢なつま先が現れる。そっと自分の髪を撫でる感触が伝わった。
「そうだ。最初は自分の強すぎる力から逃げるために、彼に救いを求めたのかと悩んでいたが、私は彼を想う自分を信じることにしたのだ」
それを聞いた瞬間、ジゼルの目に涙が溢れた。
「そなたも苦しいのだな」
「……はい」
ぼやける視界の中、床に涙が落ちていくのが見えた。
「ジゼル、その炎が生む灰こそが、嫉妬や不安の入り交じった狂気だ。だが、我々はそれを恐れてはならない。その手が灰にまみれても、かきわけ、美しい炎を掲げよ。そうすればそなたは輝き、見る者の胸を打つだろう。除けられた灰は地に還り、そなたという土壌を更に肥沃なものにするだろう」
優しく沁み入る声は、まるで冬にたき火で暖をとるような、そんな温かみを持っていた。
「ご忠告、痛み入ります」
そう呟き、ジゼルは唇を噛んだ。
何故、誰もがこうもままならぬのだろう。想いが通じても叶わぬ者もいれば、伝えることすら出来ぬ者もいる。なんと虚しいことだろう。かといって、自分に出来ることは何もない。
いつもそうだった。様々な者の想いを目の当たりにしても、そのたびに無力さにうちひしがれる。慣れたものと思っていたが、なおも小さな胸が締め付けられた。
ジゼルはそのまま黙礼し、神殿を出て行く。
その後ろ姿を見送ると、ミネルヴァはそっと愛する神の傍に跪き、頬を撫でた。
「ときには狂いそうになるとも。けれど、私はこうするしか術を知らぬ愚かな女なのだ。あの娘のように想いを伝える術を持っている者はなんと羨ましいことよ」
女帝の呟きは宙に響いて、消えた。
神殿を出たジゼルを、ステラとエステル、そして火の鳥が待ち構えていた。
「ミネルヴァ様、どうだった?」
「とても強くて、美しい方ね。私には眩しすぎるくらい」
ジゼルが苦笑する。すると、エステルが満面の笑みを浮かべた。
「そうでしょう? 私たち火の眷属は強く生きる者こそが美しいのよ」
「強く、か……」
そうぼんやり呟くジゼルに、セシリアが肩の上からなだめるように言った。
「お前はこれからだよ。まだ、自分で何もしていないんだからね」
「そうね。まずは、帰りましょう」
ふっと笑い、ジゼルが神殿を振り返る。静まり返った神殿は、来たときよりも更に侘しく見えた。
「もうここには来たくないわね。生きる意味がわからなくなりそうよ」
ジゼルは吐き捨てるように言う。
「神々が眠りについていることにはなんらかの意味があるのでしょう。けれど、私はそれを知りたいとは思わない。大勢の祈りを聞くことすら出来ない神など、いないのと同じだわ」
セシリアがふんと鼻を鳴らす。
「いつしか、ナディアがそんなことを言っていたね。だからこそ、あの子は様々な人々の想いを聞き届け、歌い継ぐ吟遊詩人の道が好きだったんだろうが」
セシリアの体がぼうっと光り、次元の狭間が現れる。ジゼルは振り返ることなく、その闇に足を踏み入れたのだった。
冥界に戻ると、ジゼルは空気を胸一杯吸い込んだ。
幼い頃は当たり前だった景色が、そこにある。優しく自分を見下ろす常闇の空に、淡く健気に輝く花々や苔といったものが、懐かしくも愛おしい。いつしか彼女は冥界に還るたびにほっとするようになっていた。
「帰る場所があるっていいわ」
ジゼルがふっとこぼす。
「水の帝王が言っていたけれど、帰る場所があるからどこにでも行けるのね」
そう言うと、ジゼルは玉座の間に向かったのだった。
彼女を待っていたのは、金緑石の玉座で頬杖をつくナディアだった。ジゼルを見るなり立ち上がり、優しい抱擁で娘を迎える。
「母上、ただいま戻りました」
「おかえりなさい、ジゼル」
両頬に軽く口づけし、ナディアが目を細めた。
「今度は神界に行ってきたそうね。いつものようにお話を聞かせてちょうだい」
吟遊詩人だったナディアはジゼルが外の世界に出るたびに、そうせがむのだった。「あぁ、あなたが羨ましいわ。私もいろんな所へ行ってみたいものだけれど」などと口にし、パーシヴァルにたしなめられているが。
「母上、今日はお願いがあって」
「あら、珍しいわね。どうしたの?」
「セオドアの姿を水鏡で見せてください」
目を丸くし、ナディアが小首を傾げる。
「どうしたの? 彼に何かあったの?」
「いいえ。私が一目、彼を見たいの」
自分の顔が熱くなるのを感じ、ジゼルは思わず俯いた。
「……確かめたいの」
そう呟くのが精一杯だった。
「わかりました。何か理由があるんでしょう?」
ナディアが耳まで真っ赤になっている娘に微笑み、水鏡の前に立った。水面に手をかざすと、細やかな波を立ててざわめく。
「ジゼル、さぁ、ご覧なさい」
ナディアはジゼルに向かって手招きした。だが、足が動かない。
躊躇うジゼルの肩でセシリアが囁いた。
「ジゼル、行っておいで」
その声に勇気を得たジゼルはゆっくりと歩み寄り、水面を覗く。
そこには闇夜に包まれた墓地があった。彼は墓地の外れの小川の傍で座り込んでいる。その視線は川上に向けられ、何かを切望している顔をしていた。
セオドアの顔を見た途端、ジゼルの目からぱたりと涙が落ち、水鏡に小さな波紋を作る。
「あぁ、わかってしまった」
会いたい。自分はセオドアに会いたいのだ。理由などいらなかったのだ。
そして、同時にセオドアが何を望んでいるのかもすぐにわかってしまった。きっと、その視線の先には彼女がいるのだろう。今、彼は恋人を想い、焦がれているのだ。何故なら、その熱にうかれた目に見覚えがある。他ならぬ自分自身なのだ。
彼は自分を見ていない。それは目覚めることのない若者を見つめるミネルヴァとなんら変わらない。
「母上。私は……」
震える声の娘を、ナディアがそっと抱き寄せた。
「恋しいのね、あの魂が」
「でも、会って何を言っていいかもわからないの」
ジゼルが嗚咽の下から声を漏らす。
「苦しいの。会いたいけれど、会いたい人には別の会いたい人がいて。かといって、あんな哀しげな顔をしているのも、見ていて辛い」
「お前のそういうところは父親に似たのかしらね?」
ナディアがふっと笑う。
「いつか、時が満ちるでしょう。あなたには彼に伝えたいことがあるはずよ。ただ今は言葉にならないだけ」
ジゼルの顔をのぞき込み、優しい声で諭すように言った。
「いい? 伝令の女王はね、言葉ではなく想いを伝えるのよ。その想いが高鳴ったとき、迷わず駆けて行きなさい」
そして、彼女は薄暗い天井を見上げて呟く。
「……だって、あなたはどこにでも行けるのよ」
そう呟くナディアが想い描いていたものは何だったのか。ただ、忠実な白い鳥はナディアの肩に飛び乗り、そっと頬ずりしたのだった。
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