時の女帝

 神界から戻って、三ヶ月がたった。

 ジゼルはすっかり日常に戻り、傀儡の鳥を送り出す毎日を過ごしていた。

 時々、セオドアの横顔を思い出すが、いつも横顔ばかり浮かぶ。そのたびに、自分を見つめてくれたことはないのだから、それはそうだとため息を漏らすのだった。

 彼女はこのときほど、自分の忘れられない力を呪わしく思ったことはなかった。いっそ忘れられたらどんなに楽だろう。だが、それは叶わぬことだ。

 彼に伝えたい言葉を探し、結局見つからないまま時は流れていた。


「母上、生の鳥を向かわせる名簿をいただきに参りました」


 ジゼルが玉座の間の奥にある中庭で、ナディアに話しかけた。母親は泉のほとりで佇んでいたが、娘の声に静かに振り返った。


「ジゼル、今日は数が多そうよ」


 気丈に振る舞っているが、ナディアはどことなく疲れた顔をしていた。

 泉の奥底で清められた魂が浮かぶのをすくいとり、天命を授ける使命は終わりがない、それでいて重要なものだ。ジゼルは彼女の顔に疲労を見てとり、気遣う。


「お疲れのようだわ。少し休んでは?」


「大丈夫よ。少しでも早く魂たちを送り届けたいもの。さぁ、始めましょう」


 二人が泉のほとりに腰を下ろした時だった。泉から一人の精霊が浮かび上がった。透けるような肌をした、華奢な女の姿をしている。


「何事なの?」


 ナディアが問うと、女がそっと両手を差し出した。その手の中には一つの魂が乗せられている。ジゼルにはまるで魂が嘆きと戸惑いに震えているように見えた。

 女が憐憫の眼差しで魂を見つめて口を開く。


「ナディア様、この子は自分にわからぬことが多過ぎて、どうにも前世を忘れられぬようでございます」


 この女は泉の女王だった。彼女は人生に未練があってどうしても清められない魂があると、こうして時の女帝に託す。ナディアはそういう魂の想いを吐き出させて、次の生へ踏み出す手助けをすることもあるのだった。

 ナディアがそっと歩み寄り、魂を手に取る。そして「まぁ」と、小さな声を漏らし、ジゼルに向き直った。


「ジゼル、これは火の王の孫と恋仲だった魂よ」


 ジゼルの胸の内は一瞬にして驚きと戸惑いに満ち、言葉が出なかった。

 この魂がいつか水鏡で見た女性だということになる。そして彼女がここに魂の姿でいるということは……彼女は死んだのだ。

 セオドアはどうしているのかと思うと、心が痛んだ。


「それでは、この魂はずいぶんと若くして死んだのね」


 ジゼルがそう言うと、ナディアが頷いた。


「魂よ、話してごらん。お前に『人と精霊の歯車になる』という天命を与えた私が、お前の生き様を見届けよう」


 その魂は、人間として生きていた記憶と感情が残っている証に、天命を授かったときのまま象牙色をしていた。

 小さな魂が震え出す。そして、か細く震える声が静まり返った中庭に響いたのだった。


 彼女は生前の名をグロリアといった。セオドアが墓守をする墓地の傍に暮らす、由緒ある家柄の娘だったという。

 幼い頃に母と飼い猫を亡くしたときに、彼女はセオドアに出逢い、やがて恋に落ちた。だが、それは身分違いの恋であり、父や兄には決して知られてはならないことだった。

 グロリアの魂が切なそうな声で言う。


「密会するための二人だけの合図として、屋敷から墓地に通じる小川に薔薇の花びらを流していたのです」


 それを聞いたとき、ジゼルは水鏡で見たセオドアを思い出し、納得した。あのときの彼が小川の傍で待っていたのは、その合図なのだ。


「私はすべてをかけて恋に燃えました。そして、彼もまた自分の手を取ってどこか二人で暮らせる場所へ連れて行ってくれるだろうと信じていたのです」


 ジゼルには盲目なほど無垢に思えた。だが、グロリアはそう信じていたことに誇りを持っていたようだった。


「ところが、セオドアから突然別れを告げられたのです」


 そう言うと、魂の声がむせび泣いた。

 屋敷を飛び出し、彼のところへ押し掛けても、彼は自分の手を掴んで逃げてはくれなかった。


「彼は私に指輪を贈り、幸せを願うと言ったのです」


 魂はわななきながら語る。

 そして、グロリアは生きることに意味を見出さなくなり、食事をとらず、笑みを失い、ふとした病がもとで死んだのだと言う。


「私にはすべてがわからなくなりました。セオドアが何故、自分に別れを告げたのか。去っていきながら、何故指輪を託したのか。自分はどうすれば、彼と離れずにすんだのか。彼のいない人生を生きるべきだったのか」


 その悲痛な叫びに、ジゼルの胸は揺さぶられていた。ひたむきに愛する姿に心が震えたのだ。

 不安や恐れに悶えるばかりで何もしない自分とはこうも違う。そして、その違いこそ、セオドアの傍にいる資格の有無だと見せつけられた気がした。


「どんなに辛いと思っても、セオドアのことは何一つ忘れたくない」


 そうグロリアが言ったとき、ジゼルは思わず口を挟んだ。


「忘れてしまえばどんなに楽になるかわからないのに?」


 だが、グロリアはきっぱりと「楽になった先に彼がいないなら、それは本当の安息ではないからです」と返した。

 ジゼルはその言葉に打ちのめされた。グロリアは火の女帝を思わせるほど、強い心を持っていた。そして、それほどの女性がこんなにも焦がれるセオドアとは、どんな人間なのか。

 もっと彼を知りたい。水鏡越しではなく、この目で見てみたい。ジゼルの中で今まで漠然とあった気持ちが確かなものになった。

 すると黙って話を聞いていたナディアが、口を開いた。


「セオドアは精霊の血を引く者であり、火の王の孫にあたります。ということは、その血に火の力を抱えているかもしれないのです。人間にはその力は強すぎ、ときに不幸を招くのよ。セオドアの父も、かつてその力のために哀しい道を歩みました」


 ナディアは、セオドアが抱える精霊の血のことを語りかける。


「彼はお前を愛しているが故に去ったのよ。お前を失うことが自分の心の火を失うことよりも恐ろしかったのでしょう。火の力に目覚めてしまえば、大切なあなたも炎に巻き込んでしまうかもしれない。まして、彼はその力の制御の仕方を知らないのだから」


 魂は何も答えない。説き伏せるように、ナディアが言葉を続けた。


「何故、想い合っているのに共にいられないのか。そう思うでしょう? でもね、もうお前はセオドアと共にある。生命はすべて繋がっているの。個は全であり、同じ流れの中にいるのだから。彼は常にあなたの幸せを願っている。次の生では彼が安堵するくらい幸せな日々を送りなさい」


 すると、グロリアがやっと小さく呟く。


「彼の口からそれを語られれば、どんなによかったでしょう。でも、彼は抱えているものを打ち明けてはくれなかった。一緒に背負うことを許してくれなかった。それが今は哀しいのです」


 ジゼルの脳裏にセオドアの切なそうな横顔が浮かぶ。あの顔はこのことで悩んでいたのかもしれない。そして、それはどれほど心を悩ませたのだろう。そう思うと、呼吸すら苦しいのだった。

 そしてその反面、ジゼルは自分に吐き気がしていた。グロリアが死んだと悟ったとき、あの嫉妬が嘘のように消えたことに気づいたのだ。

 自分はなんと浅ましいのか。セオドアの苦しみや哀しみは自分の比ではない。それをほくそ笑む自分がいることにジゼルは絶望していた。

 彼女は生まれて初めて、心が千切れそうなほどの痛みを感じていた。

 そんなジゼルに気づかず、ナディアが魂に微笑みを送った。


「グロリア、だって彼は男だもの。男はそういうとき、強がるものよ。そしてそれを汲み取るのがいい女なんだから」


 冗談っぽく言い、彼女は象牙色の魂を撫でる。


「さぁ、お眠り。次の生では想う人と添い遂げられることもあるでしょう」


「それが彼だったらどんなに嬉しいか」


「そうね。今度出逢う人も、彼に似ているかも知れない。結局、あなたはセオドアの影を知らず知らずに探すでしょう。そうして縁は生まれていくものだから」


 すうっと魂の震えがおさまり、少しばかり象牙色が薄くなった。ナディアはまるで眠りについた赤ん坊のように優しく揺らしてやると、魂をそっと泉の女王に手渡した。


「さぁ、もう少しこの魂を休ませておやり。お前の水音で和ませてね」


「かしこまりました」


 泉の女王が消える寸前、ジゼルは思わず叫んでいた。


「待って!」


 ジゼルは魂に向かって凛とした声で呼びかける。


「お前が静かに次の生に歩き出したこと、私がセオドアに伝えよう。伝令の女王として、彼にも残っているはずの悔いを軽くしてやろう。そうすれば、お前も少しは胸のつかえが取れるはずだ」


 そう、他ならぬ自分も。そして、大切なセオドアも。


「そして語り部として伝えよう。お前とセオドアの愛を。そうすれば物語の中でお前と彼は常に共にある」


 魂が小さく震え、小さな声で「ありがとう」と呟く。

 泉の女王が消える中、ナディアが娘を矢車菊の瞳で見つめていた。


「いずれ、お前が彼のもとへ赴くとき、グロリアの『人間と精霊の歯車となる』という天命が初めて果たされるのね。お前はセオドアと接し、彼の精霊との生き方を変える。やがて、それは彼の心を動かし、彼は誰かを動かす。まるで歯車の連鎖だわ。でも、それこそが生命という個の存在を全にする。まったく、生きるということは不思議なものね」


 ナディアが目を細めて笑うのを聞きながら、ジゼルは胸元を掴んだ。

 母親が言うようなたいそうなことではなく、嫉妬にまみれて醜かった自分への弁解と罪滅ぼしに過ぎない気がした。だが、彼女は生まれて初めて使命ではなく、自ら『伝えたい』と願ったのだ。

 ジゼルは自分の天命を授かった意味を、やっと見出した。そして、それは人生の指針に向けて歩きだす意義を見つけた瞬間でもあり、精霊の語り部の誕生を意味していた。

 ナディアは娘の肩をそっと抱き寄せ、囁いた。


「ジゼル、今夜は私の寝所においで」


「え?」


 驚いて母親の顔を見ると、含み笑いをしている。


「今夜は私とパーシーの話をしてあげる。私たちがどう出逢って、どう心を寄せ、重ね、そして結婚したのかを」


 それは、幼い頃のジゼルがねだったものの、聞かせてもらえなかった物語だった。


「今のお前には聞かせてもいいでしょう。いえ、聞かせるべきなんだわ」


 そして、ナディアはジゼルの黒髪を撫でてしんみりと呟いた。


「いつの間にこんなに大きくなったんでしょう。こうして、命は続いていくのね」


「母上……」


 ジゼルは優しい抱擁の中、鈴が鳴るように笑う。中庭は明るい光で満ちていた。

 そしてその日のうちに、彼女はパーシヴァルから使命の合間に語り部として世界を渡り歩く許可を得たのだった。

 パーシヴァルは娘の申し出に、眩しいものでも見るような顔をした。


「あぁ、まるで若い頃の私だ。同じ世界を見てみたいという一歩から、すべての望みを叶えた、あの頃の私だ」


 その声には、感極まったものがあった。


「時が来れば、彼に会えるだろう。そして、彼を目の前にして何が出来るかはお前次第だよ。まっすぐ胸を張って彼を見つめられるように、誇りをもって生きなさい」


 パーシヴァルはそう唱えるように言い、ジゼルの額に祝福の接吻をしたのだった。

 セシリアは「これは面白くなってきた」と、彼女の肩で足踏みを繰り返していた。


 その翌日、ジゼルとセシリアは次元の狭間を滑るように出て、眩しい空の下に降り立った。


「さぁ、初めての人間界はどうだい?」


「とても複雑だわ。精霊界よりも混沌として、風がいろんなものを運んでいる」


 辺りを見回し、ジゼルが頬を上気させた。

 彼女は今、生まれて初めて人間界に降り立った。語り部としての第一歩として、彼女は人間界を知ろうと心に決めたのだった。


「まずはどこへ行きたい?」


 そう問うセシリアに、ジゼルがふっと笑う。


「母上とあなたが再会した森へ」


「それはまたどうして?」


「母上の世界が動き出した場所を見てみたいの。そこから私も始めるわ」


 そう言う顔は伝令の女王のものではない。希望に燃えた一人の語り部がそこに立っているのを、セシリアは誇らしげに見ていた。


 セシリアとナディアが巡り会った場所は、鬱蒼とした茂みで覆われていた。

 ジゼルは両足で大地を踏みしめ、森の空気を胸一杯に吸い込んだ。

 母が人生を紡いだ世界に、体の中を巡る半分の血が歓喜に騒いでいる。そして、何よりセオドアの生きている世界にいるのだということが、その胸を躍らせた。


「さぁ、行こうか」


 ジゼルが外套をひるがえし、歩き出した。

 その小さな一歩がいつかセオドアの元へ続くことを信じて。

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