第三部 セオドア

第一章

物憑きの精霊

 テッドは幽霊を見たことがなかった。

 たとえ、ここが真夜中の共同墓地で、目の前で場違いな美女が泣いており、明らかにそれが人間ではないと彼の直感が言っていても、だ。

 彼に見えるのは幽霊ではなく、『物憑きの精霊』という存在だった。

 もし幽霊が見えていたら、テッドは墓守などという職をとっくの昔に辞めているだろう。人間よりも怖い生き物などこの世にないと、よく知っていたのだ。それが化けて出た幽霊など、とても相手にしてられない。

 彼は、幽霊は嫌いでも、『物憑きの精霊』との出逢いは悪くないと思っていた。人間の情念を宿している点では幽霊と大差ないのだが、何故か彼は人間よりも精霊のほうが好きだったのだ。


「こんばんは。話し相手をお探しですか?」


 『常に礼儀正しくあれ』という亡き父の教えに従い、テッドははらはらと涙を流している精霊に声を話しかけた。

 女性は驚きのあまり泣くのを止めてしまった。目を見開き、細い首を傾げる。


「あなた、私が見えるの?」


「僕でよければ、お話を伺いましょうか」


 まるで神官のような口ぶりで言うと、精霊がおずおずと口を開いた。


「あなたは何者ですか?」


 それはこちらが訊きたい、という言葉をぐっと呑み込み、テッドはなるべく優しそうな笑みを繕った。


「しがない墓守ですよ。今日の昼、あなたの立っている墓に土をかけた者です」


 精霊がいるのは、真新しい墓標の前だった。亡くなったのは十にもならない少女だ。棺を運んできた神官が、同情と憐れみの目で、「黄泉の国への道連れに、綺麗な人形も一緒に入れた」と話していたのを思い出し、テッドはこの女性が『物憑きの精霊』だと目星をつけた。

 人間が作り出した物には、精霊が宿ることがある。齢百年を越えるか、強い情念をこめられると、その物体を依り代として姿を現すのだ。

 死者と一緒に埋葬された遺物には、執着や思い入れの強い物が多く、こうした精霊に会うのは初めてではなかった。

 恐らく、今回は埋葬品の人形が依り代だろうと、テッドは察する。目の前に立つ『物憑きの精霊』の顔はまさしく人形のように目鼻立ちがくっきりしていた。異様に長い睫毛と大きすぎる目、そして小さな唇。彼女が身につけているのは、子どもたちの間で流行している人形の衣装だ。


「可哀想に、瞼が真っ赤ですよ」


 テッドはいたわるように言う。

 葬儀を執り行った神殿から木棺が届いたときは、彼女の存在に気づかなかった。きっと彼女は泣き疲れて棺の中で眠っていたのだろう。


「あなたの望みは何ですか?」


 これは物憑きの精霊に出会ったとき、彼が必ず訊ねることだった。


「私の望み?」


 精霊が目をぱちくりさせる。


「ここは墓場ですからね。大抵の者が後悔を胸に眠っている。そうでなければ、恨みや未練といったものだ。その思いを晴らすのも、墓守の仕事だと信じているんです。第一、これから先、ずっとあなたが墓の前にいたら掃除がしにくいですから」


 おどけたように肩をすくめたテッドに、物憑きの精霊が「まぁ」と思わず噴き出した。

 テッドの柔らかい物言いに警戒心をとき、彼女は静かに話し出した。


「私の名前は『お母さん』です。ジェニーは、自分を産んですぐに死んだ母親に会いたくてたまらなかったんです」


 亡くなった少女を『ジェニー』と愛おしげに呼ぶ彼女は、切なそうな顔をした。


「なるほど、ジェニーはあなたを母親の代わりに愛していたんですね?」


 テッドの言葉は人形にとっては酷なものかもしれなかった。だが、『お母さん』は黙って頷いた。


「彼女は母親が歌う子守唄というものを一度でいいから聴いてみたかったんです。だけど、叶わなかった」


「それは、あなたを生み出すほどの強い想いだったんですか?」


「いいえ」


 彼女はいかにも人形らしく、いやに正確な真横に首を振った。


「私は骨董品です。ジェニーに会ったときには、もう精霊でした」


「そうでしたか。流行の衣装でしたから、つい」


 そう言うと、彼女は嬉しそうに服の裾をつまんで微笑んだ。


「素敵でしょ? これはジェニーが着せ替えてくれました」


 テッドは『そういえば、あなたの髪型は百五十年前に流行ったものですね』と言いかけて、口をつぐんだ。いくらなんでも、女性にそれは失礼だと慌てたのだ。


「それで、あなたは子守唄を歌いたいのですね?」


「はい。ですが、あいにく私は子守唄を聴いたことがないのです。それがどういうものかもわからなくて困っています」


「ジェニーに会うまでの持ち主たちは、子守唄を聴いたことがないのですか?」


「はい。私は大人向けの観賞用として作られたものですから。子どもの持ち主はジェニーが初めてです」


「それは困りましたね。僕も子守唄なんて知りません」


 テッドが弱り切ったときだった。不意に背後から「それなら、私が歌ってあげるわよ」という声がした。

 テッドが振り返ると、そこにいたのは一人の女性だった。美しい顔立ちと矢車菊のような瞳を持ち、華奢な肩に長い金髪を垂らしている。


「ナディア、いつからそこに?」


「物憑きの精霊の気配を感じたから」


 ナディアと呼ばれた女性は、静かに墓の前に歩み寄った。


「そうですね、ここはナディアが適任でしょうね」


 テッドが促すと、彼女は口の端をつり上げた。


「だって、歌うことなら本職だもの」


 そう言うと、彼女は墓の主に語りかけた。


「よく聴いててね。これが子守唄ってものよ」


 ナディアの唇から流れ出たのは、穏やかでどこか切ない旋律の歌だった。


「見よ、川底は金の粒。花びらが輝き、夜を照らす。決して恐れることはない。誰もが帰る場所、そして憩う場所。我らが故郷」


 テッドは静かに聴き入りながら、誰の故郷の歌なのかと想いを馳せた。

 彼もまた、ジェニーのように母の声を知らずに育った。初めて耳にする子守唄に、胸が締めつけられる。何故、これから眠ろうとするのに、こんなに切ない歌を聴きたがるのだろうと不思議だった。

 歌い終わったナディアは、墓前でこう呟いた。


「ねぇ、ジェニー。これで冥界に旅立てるでしょ? あとは向こうで本当のお母さんから歌ってもらうといいわ」


 そして『お母さん』に向かって微笑む。


「そうでしょ? 本当のお母さんのほうが上手なはずよ」


 物憑きの精霊が「あぁ」と呻くように泣き出した。


「これで私の未練も消えました」


 テッドは目を細めて、彼女を見つめた。これは死んだ少女の未練ではなく、精霊の未練なのだ。『お母さん』が少女にしてあげたかったことなのだから。

 物憑きの精霊の体が、次第に鈍く光り出した。


「ありがとう」


 その言葉が木霊し、光が縮み始めた。それはやがてウズラの卵ほどの大きさになり、宙に浮いた。

 テッドが差しだした手に落ちた途端、光は弾け、深い群青色の光を放つ丸い玉になった。精霊の瞳の色も同じ群青色だったと気づき、テッドは優しく包み込むように玉を握る。それは物憑きの精霊の魂だった。望みが叶って、想いが晴れた精霊の最期の証なのだ。


「テッド、帰るわよ」


 ぼうっと玉を見つめるテッドに、ナディアが威勢のいい声をかけた。その顔が『しょうがないわね』と言いたげなのを見て、テッドは感傷的になった自分を見透かされたように感じ赤面した。ナディアは、彼もまた子守唄を知らないことを知っているのだ。


「えぇ、帰りましょう」


 二人は立ち並ぶ墓石の間をすり抜け、連れだって家に戻る。

 住処はこの墓地のはずれにあり、窓から見える景色は墓石と木々、そして井戸だけという殺風景だった。質素な佇まいだが、テッドにとっては住み心地は最高で、特に閑静なところが気に入っている。しかも家賃は無料とあって、立地条件も含めていい物件だ。

 彼は真っ先に居間に向かうと、暖炉の上にある壷を手にした。


「……ゆっくりお休み」


 テッドはそっと『お母さん』の魂に囁き、それを壺の中にしまった。ナディアが壷をのぞき込みながら「まぁ」と妙に感心している。


「ずいぶんと溜まったわね」


 壺の中には、色とりどりの魂の玉が眠っていた。そのどれもが、テッドとナディアが想いを晴らした精霊たちのものだった。


「僕がナディアと出逢ってから、それだけ時がたっているということですよ」


 そう言いながら丁寧に壺の蓋を閉じるテッドに、ナディアが目を細めて笑う。


「もうテッドも十八になるのね」


 彼女に「じゃあナディアは幾つになったの?」などと訊いたら鉄拳が飛んで来そうだと思い、黙って頷くにとどめた。

 ナディアは欠伸をし、大きな背伸びをした。


「なんだか疲れちゃった。久しぶりに歌ったからかしら?」


「随分と体がなまっているようですね」


「誰のせいよ?」


 途端に彼女が目くじらをたてる。


「そんなに刺々しい声を出さなくてもいいでしょう。ナディアは本当に気が短いですね」


「しょうがないじゃない、性格だもの! それに、私がなまっているのはテッドが全然楽器を弾いてくれないからでしょ?」


「何度も言ってますけど、僕は楽器なんて弾けません」


「誰かから習えばいいじゃない」


「人とかかわり合いになるのは御免です」


「自分も人のくせに」


 彼女はそう吐き捨てるように言うと、壁際に立てかけた四弦の楽器の前に歩み寄った。


「ただ鳴らすだけでもいいんだけど?」


「もし弦を切ったら、余計な出費が増えるだけです」


「守銭奴ね。あんたのそういう計算高いところ、嫌いだわ。じゃあね、そろばん頭!」


 捨て台詞と共に、彼女の体がぼんやりしていく。そして、淡い光を帯びたかと思うと、その輝きが四弦の楽器に吸い込まれていった。

 何度見ても、不思議な光景だとテッドが見惚れた途端、不意に光は消え、不機嫌そうに楽器の一番低い音を出す弦が『ビィィン』と鳴った。


「……わかりましたよ、ナディア。明日はつま弾くくらいはしましょう」


 木霊する余韻にテッドは苦笑いをして、楽器に布をかけてやった。

 何故、テッドだけでなくナディアにまで物憑きの精霊が見えるのか。その答えは簡単で、彼女も物憑きの精霊なのだ。

 ナディアの依り代は、古びた四弦の楽器だった。よく使い込まれたものだったが、テッドが初めてこの楽器を手にしたときは、あまり手入れされていなかった。

 テッドに出来ることといえば、時々は磨いてやるか、弦を交換してやるくらいのもので、吟遊詩人のように弾くことなど出来なかった。そのせいか、ナディアの短気さは欲求不満にも似ている。

 テッドはため息混じりに笑い、寝室へ向かった。

 墓地の夜は墓荒らしでも出ない限り、梟の鳴き声と風で揺れる木々の音しかしない。彼は布団に潜りこみ、静寂の中で『お母さん』の姿を思い描いた。彼女はジェニーの実の母ではなかったが、確かに母のような想いがあったのだろう。

 母親を知らないテッドには、胸がしくしくと痛む夜だった。


 テッドの母親が死んだのは、彼を産んですぐのことだった。産後で体が弱っていたところに、流行病にかかったのだった。

 初めて母の死について話したとき、幼いテッドに向かって父はこう呟いた。


「……流行病でよかった」


 父がそう言った理由を理解したのは、テッドがもう少し成長してからだった。

 母親似だったこともあり、父は彼を可愛がった。亜麻色の髪と翡翠色の瞳という、母を思わせる容姿でテッドが産まれたことに、彼は心から感謝しているようだった。父の髪は赤銅色で、その瞳は燃えるような緋色をしていたが、自分のその容姿を心から忌み嫌っていたのだ。

 墓守をしていた父は極力、人との関わりを持とうとしなかった。テッドはこの墓地で生まれ育ったが、幼い頃にはなんとなくその理由をうすうす感じ取っていた。

 これから棺を埋めるというのに、遺産で揉める者もいれば、葬儀に来た愛人をなじる者や遺児を押しつけ合う者もいる。そういう人間を見ていると、本当に嫌になるのだ。

 父は息子以外には必ず敬語で話し、気持ちを晒すことは決してしなかった。まるで、自分の感情を殺しているようだった。

 常に人との間に距離をおき、冷静であれという生き方を、父はテッドにも強要した。そのせいで、テッドもいつしか敬語で話すのが常になったのだった。

 父は後添えをもらう気もなく、テッドは母という存在の温もりを知らずに育ったが、姉のような存在はいた。それがナディアだった。しかし、父は彼女のことを知らないまま病で世を去った。もしかしたら気づかない振りをしていたのかもしれないが、彼が死んだ今ではわからないことだった。


 ナディアとの出会いは、テッドが六歳の頃だった。

 ある朝、冥界の神を祀る神殿の神官長であるダスティンが小屋を訪ねてきた。


「テッドは大きくなったな。ますますゾラに似てきた」


 ゾラというのはテッドの母の名だった。彼女は父と結婚するまで、ダスティンの下で女官をしていたのだ。

 ダスティンはテッドから父に目を向けた。


「レイ、今日は身寄りのない死者が届けられた」


 父の名はレイモンドといったが、彼を『レイ』という愛称で呼べるのはこの神官だけだった。ダスティンは父の雇い主であり、数少ない協力者だった。

 レイは「そうですか」と静かに頷く。


「所持品は?」


「馬車と食料、それに四弦の楽器だ」


「吟遊詩人ですか? それとも楽師でしょうか」


「わからん。見に来てくれると助かるんだが」


 レイはまた頷き、テッドの頭に手を当てて「さぁ、一緒においで」と促した。

 身寄りのない死者が運び込まれたとき、その所持品は墓守が自由に処理していいことになっている。本来なら墓の管理費として埋葬するときに遺族から礼金をもらうのだが、それが払えない代償だった。

 テッドは父に連れられ、冥界の神を奉る神殿に向かった。神殿は墓地のすぐ隣の敷地にあったが、黒い石を切り出して建立された小さなものだった。

 本殿には冥界の神の像があり、香の煙が立ちのぼっていた。

 冥界の神は、昼は男、夜は女となり、命を司る。そのせいか、像は男女二つの顔を持つ姿でかたどられていた。

 レイは墓守のしきたり通り、まずは本殿で祈りを捧げた。だが、テッドはそれが形だけのものだと知っていた。父は無神論者だったのだ。


「冥界に神がいるなら、何故この神殿に健気に仕えていたゾラが子どもの成長も見ずに死ななければならなかったのだ」


 いつだったかレイは一度だけ、こう呟いたことがあった。そのときの顔は、今まで見たことのない憤りを滲ませていたものだった。

 ダスティンとレイは所持品を見るために、テッドを本殿に残して別室に消えていった。

 そして父が戻って来たとき、その手には四弦の楽器があった。他には何もない。


「さぁ、戻ろう」


 彼は息子の手を握って、目を細めた。


「この楽器はうちで大事にしよう。死者の代わりにね」


 彼の口調には、どこか切ないものがあった。

 家に戻ると、レイはその四弦の楽器をしげしげと見つめる。


「恐らく、これは盗品だろう。ずいぶんと手入れがされていない。それに、通行手形は『吟遊詩人ナディア』という女性の名義だったが、死んでいたのは老いた男一人だったからね」


 確かに、四弦の楽器は薄汚れていた。レイが布で丁寧にそれを磨いてやると、艶が幾分か戻っていく。


「証明書によるとパーシヴァルという夫がいたようだが、死んでいたのは彼ではないだろう。もしあの老人が夫なら、愛しい妻の楽器をこんな風にほったらかしにするものか。弦も伸びきってひどいものだ」


 そう言う父親の目には、憐憫と憤りのようなものが同時に見えていた。


 その日の夕方、神殿で弔われた老人の棺が墓地にやってきた。レイが土をかける間、ダスティンが死者への祈りを捧げる。参列者はなく、彼らを見届けているのは山の端に沈みかけている夕陽だけだった。

 見送る人のいない埋葬というものは、いつ見ても侘しい。遠巻きに見ていたテッドは居たたまれなくなり、小屋の中に逃げ戻った。

 食卓の上には、磨かれた楽器が置きっぱなしになっている。恐る恐る弦を弾いてみると、古い弦にしてはいい音色がした。


「父さんはどうして楽器が弾けないのに、これを貰い受けて来たのかな?」


 そう口にしたテッドは、すぐに答えを察して俯いた。レイは残された楽器が埃をかぶっていく様を見るのが辛かったのだ。

 レイは、テッドを妻の形見として愛している。そして、自分が死んだらいずれはテッドもこの楽器のように独り残されるだろうと、その姿を重ねたのだった。

 テッドの小さな胸が塞がれたときだ。楽器を淡い光が包み出した。目を見開いていると、その光は大きく盛り上がり、人の形になった。


「あぁ」


 低い呻き声がしたかと思うと、光が弾け、目の前に女性が胎児のように横たわっていた。背中に垂れた金色の長い髪で、女神像を思わせる顔立ちをしている。

 彼女はうっすらと目を開けた。その瞳はまるで矢車菊のような色だった。ぼんやりとした顔でテッドを見やり、こう囁く。


「……ナディア?」


 その途端、テッドの視界が真っ暗になる。幽霊かと思って気絶したのだ。

 テッドを起こしたのは、葬儀を終えて戻ってきた父の声だった。辺りはすっかり夜になっていた。


「テッド、起きなさい。床で寝るなんて風邪をひいたら大変じゃないか」


 レイが苦笑しながら、テッドをのぞき込んでいる。

 彼は勢いよく跳ね起き、金髪の彼女を捜した。だが、家の中にはいない。


「父さん、ここに女の人がいなかった?」


 すると、レイは怪訝そうな顔をし「いいや」と答える。


「テッド、お前は夢を見たんだよ」


「でもね、父さん。幽霊かもしれないよ。精霊みたいに綺麗な顔をした人がいたんだよ」


 うっかり口にした『精霊』という言葉に、鋭い声が飛んだ。


「テッド!」


 テッドは思わず、身をすくめた。父の顔つきが一変して険しいものになっている。


「そんなものは存在しない。いいね?」


 だって見たんだ。そう言いたいのをこらえ、口をつぐむ。子供心にも、信じてもらえないことはわかっていた。

 父は神だけでなく、幽霊も神話に出て来る精霊も信じていなかった。彼は、そういう類いの話が大嫌いだったのだ。


「ねぇ、あの楽器はどうしたの?」


 おずおずと訊ねると、レイはふっと表情を和らげて言う。


「あぁ、居間の壁に立てかけてあるよ。少しは殺風景な部屋が明るくなるかと思ってね」


 あの楽器があれば、また会えるかも知れないと、テッドは胸を撫で下ろした。


「さぁ、馬鹿なことばかり言ってないで、おやすみ」


 父に促された寝床の中で、テッドはあの女性のことばかり考えていた。

 神々しい光に見目麗しい顔、そして柔らかそうな体つき。もしかしたら、母とはあんな存在なのかもしれないと胸が高鳴る。幽霊は苦手なはずなのに、何故か心の中に湧いて出るのは、そんな憧れに似た感情だった。


 それから数日後のことだった。


「食料を買いに行くからね」


 レイはそう言い残して家を出た。留守番を任されたテッドは、すぐさま楽器の傍に座り込む。


「どうやったら、彼女にまた会えるだろう?」


 そう首を傾げた途端、楽器が輝き出し、目の前にあの女性が姿を現した。


「やっと出かけたわね、頑固親父! 精霊が嫌いなのは勝手だけど、私のことを『そんなもの』呼ばわりとはいい度胸よ!」


 綺麗な姿とは裏腹に、乱暴な口ぶりで喚いている。呆然としていると、彼女はテッドに気づいて微笑んだ。


「テッドっていうのね、あんた。よろしくね」


「あの、あなたは誰なんですか?」


「私は『物憑きの精霊』よ」


 それが、物憑きの精霊との初めての出会いだった。

 ナディアからそれがどんな存在か聞くと、テッドは「ふぅん」と小さく唸る。


「ご説明は有り難いんですが、僕が知りたかったのは、あなたの名前です」


「可愛くない子ね」


 彼女は苦笑し、眉を下げた。


「物憑きの精霊に名前はないわ。持ち主が名前をつけてくれない限りはね」


「では、その方の名前をもらっては?」


「持ち主って言っても、私には何人かいたんだけど誰かしら?」


 彼女はちょっと考えこみ、ふと家の中を見回した。

 鏡を見つけた彼女が、自分の姿を映してぽつりと呟く。


「……どうやら、私の名前はナディアのようね」


 彼女の顔は複雑そうに歪んでいた。

 テッドには、その奥にある感情を推し量ることはできなかった。ただわかったのは、通行手形の持ち主はやはりこの楽器の主だということだけだ。


「彼女は吟遊詩人だったんですか?」


 その問いに答える代わりに、彼女はテッドの鼻を指で軽くつついた。


「子どものくせに、どうしてそんな話し方をするの? もう少し可愛らしくしたら?」


 話をはぐらかされたと思いつつ、テッドは答える。


「父が自分以外にはこういう話し方をしろと言うので、仕方ありません」


「ふぅん。変な親父ね。楽器は弾けないみたいだけど、質屋に持って行かれないだけマシだから、この辛気くさい墓守小屋の暮らしで我慢するわ。また二人きりになったら遊びましょう」


 彼女はそう言い残し、ふっと光に包まれて消えた。

 レイが帰って来たのは、その数分後のことだった。


 それ以来、ナディアはテッドと二人きりのときに姿を見せるようになった。

 母の温もりにはほど遠い性格だったが、それでもテッドには彼女の存在は嬉しかった。ナディアはまるで姉のような気の強さと情の深さを併せ持つ精霊だったのだ。一人っ子で友達もいないテッドが『寂しい』と思うことはなくなった。

 しかし、思いがけない影響が出たのもそれからだった。テッドは他の物憑きの精霊まで見えるようになってしまったのだ。

 それまでも墓を見て『何かいるな』とぼんやり思うことはあった。だが、ナディアが来てからというもの、その姿がはっきり見えてしまうのだ。

 テッドが成長したせいなのか、ナディアの力が影響しているのかはわからなかったが、テッドの精霊を見る力は年々、強くなっていった。

 レイが留守のときには、ジェニーの『お母さん』の想いを晴らしたように、二人で物憑きの精霊を助けることがあった。壺にしまってあるのは、そうして晴々とした顔を見せていった精霊たちの形見なのだった。


 三年前、レイが病で他界すると、ダスティンはテッドを墓守にすえた。年若いテッドの行く末を案じてのことでもあったが、人気のない墓守という職業だけに、後任者を探すより手っ取り早いと踏んだらしかった。

 レイが死んでからは、ナディアは我が物顔で小屋をうろついている。彼女の姿は普通の人間はおろか、神官長という神々しい肩書きのダスティンにさえ見えないのだが、テッドにはちょっと部屋が狭く感じる。

 まるで男みたいにサバサバした性格で一緒にいると気圧されっぱなしだが、テッドにとって、ナディアは姉のようなもの。

 そう、彼は精霊の家族なのだった。

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