第三章
絵描きの男
次にナディアがたどり着いたのは、湖のある街だった。
彼女は真っ先に宿屋に荷をおろすと、一階にある食堂で遅い昼食をとっていた。その顔が苦り切っているのは料理が不味いせいではなく、執拗な視線を感じるからだった。
食卓の離れた席から、堂々とナディアを見つめてくる男がいる。その露骨さに、ナディアは不機嫌そうな顔を隠しもせず眉間に皺を寄せていた。
男は漆黒の髪に色白の肌をしていた。ナディアより幾つか年上かと思われたが、どこかあどけなさが漂っている。
鬱陶しい気分でいると、ふと男が立ち上がり、ナディアに歩み寄ってきた。男は真向かいに腰を下ろし、挨拶もなしにこう切り出す。
「お前の絵を描かせてくれないか?」
そう言ってナディアを見つめる男の瞳は、髪の色と同じ漆黒だった。ナディアはその申し出をすげなく断る。
「残念だが、じっとしていられない性分なものでな。他に美しい女がいくらでもいるだろう」
「俺が興味あるのは美しいだけの女じゃない」
そう言った彼は、すぐに声を落として、こう囁いた。
「お前が『奇跡の踊り子』だからでもない」
「私は……」
否定しようとするのを遮るように、男がこう囁いた。
「俺には嘘は通用しないよ。今日はあの白い鳥がいないんだね」
「……馬車の中にいる」
彼もまた旅装束で身を包んでいるのに気づき、ナディアは諦めのため息を漏らした。恐らく、火山の儀式の群衆の中に彼もいたのだろう。
「とにかく、食事の邪魔だ」
すると、男が形のいい唇に笑みを浮かべ、無邪気に言う。
「では、食事をする間だけでも描かせてくれ」
「好きにしろ」
根負けしたナディアが呆れたように肩をすくめる。男は嬉しそうに笑い、画用木炭と紐で綴じた紙束を食卓の上に広げる。
ナディアがちらりと目をやると、画家がめくる紙束の中に白黒の景色が見えた。花が咲き乱れる草原や泉の湧く岩場、この街の湖らしい絵もあった。画家が白紙に木炭を走らせ始める。
「お前は景色ばかり描いているのに、何故私を描きたがる?」
男が視線を紙束からナディアに移し、片方の眉を上げてみせた。
「さぁ、何故かな?」
木炭の擦れる音が響く。生煮えの美味しいとは言えない野菜を頬張りながら、ナディアが『前にもこんなことがあった』と、ぼんやり思い出す。
白髪のセシリアは歌を思いつくと、所構わずナディアのために譜面を書き綴ることがあった。盲目の彼女が左手で行間を測りながら書く楽譜は、一般的なそれではなかった。奇妙な彼女独自の線や記号で記されている。それを読めるのはナディアだけだった。その暗号は、二人だけの秘密のようで嬉しかった。
ただ気に入らなかったのは、譜面を書き始めると何も目に入らない有様だったことだ。その間は自分と話すらしてくれないのが寂しかったのだ。
旋律を必死に書き留めるセシリアを見ながら、自分だけ食事したことが何度もあった。そう、今の自分と画家のように。
画家はナディアを見ては紙に目を落とすのを繰り返していた。その間、ずっと右手が忙しなく、ときには大胆に動き、左手の指が紙を擦っていた。
目の前に人がいる食事はいつ以来だろうと、懐かしさのあまり目を伏せた。過ぎた月日を数える気力は起きなかったが、少なくともはるか昔のような気がした。
「ほら、出来た」
食事を終える頃、男が完成した絵を見せてくれた。
「これが私か?」
思わず、驚きの声が漏れる。そこには少しうつむき加減のナディアが描かれていた。
「こんな顔をしているのか、私は」
「あぁ。美しいだろう?」
嬉々とする男とは裏腹に、ナディアが低い声で呟いた。
「孤独な顔をしているのだな」
絵描きの顔から笑みが消え、じっとナディアを見つめる。
絵の中のナディアは、儚い空気をまとっていた。伏し目には憂いが漂い、うっすら開いた唇が『寂しい』と言っているように彼女には感じられたのだ。
「まるで捨てられた猫だ」
ナディアが自嘲しながら紙束を男に返す。
「こんな辛気くさい顔よりも、風光明媚な景色のほうがいいだろう? 気が済んだか?」
まるで「お前は寂しいのだろう」と言い当てられた気分で惨めな気さえした。空になった食器を重ねるナディアに、男がにやりとした。
「いいや。もっと描きたくなった。なぁ、俺を連れて行ってくれないか?」
「何だって?」
思わず目を見開くと、男は白い歯を見せて笑った。
「俺も旅をしているんだが、困ったことに通行手形を盗まれて、この街を出られないんだ」
「それがどうした?」
「宿屋の主人によると、お前は吟遊詩人だそうだな。吟遊詩人の通行手形なら肉親と偽れば街を出れる。俺を連れ出してくれないか? もう、この街には飽きたところだ」
「何故、私なんだ? 他の奴に頼めばいいだろう」
「一緒に旅をするなら、むさ苦しい男よりも綺麗な女のほうがいいに決まってる」
ナディアは冗談っぽく笑う男に冷たい視線を浴びせると、食器を手に立ち上がった。
「他を当たれ。私は誰とも一緒に旅をするつもりはない」
彼女はそう言い残し、宿の主人に食器を手渡して階段に向かった。絵描きの男はそれを見送りながら、唇をつり上げる。
「つれないなぁ。……まぁ、そこがいいんだけど」
真夜中になった。
ナディアはセシリアを連れて、街の名物である湖に来ていた。
宿の主人がこんなことを言っていたからだ。
「この街の湖で沐浴すると、穢れが落ちると言われているんです。男子禁制ですから安心して行ってみるといいですよ。旅の記念に是非どうぞ」
ナディアが湖のほとりにある沐浴所に着くと、時間が遅いせいか誰もいなかった。
彼女は脱衣所に衣服を脱ぎ捨て、扉を開けた。踊り場を出て、その先の石段を下りると湖水が波を寄せている。湖の精が遥か遠くの水面でぼんやりと月を見ているのが見えた。
ナディアが白い肌を月光に浮かび上がらせながら、湖へ足を入れた。不思議と水は冷たくなかった。セシリアは近くの木の上に止まり、その様子を見ている。
彼女は腰まで水に浸かると、底まで見通せるほど透明な水をすくい、鎖骨へかけた。
「あの闇は穢れなのだろうか?」
そう呟き、身震いする。人間や自身に対して抱く忌まわしさや寂しさが闇になるのだとしたらと考えると、もう自分は人間とは言えない気がした。彼女は祈るような気持ちで湖の水を何度も浴びた。
ふと湖の向こうに目をやると、ちょうど湖の精がこちらに気づいたようだった。少女の姿をした精で、長い髪をしていた。だが、彼女はナディアを見るや否や、湖水の中に慌てて逃げてしまった。
そのときだった。
「随分と熱心だなぁ」
背後から男の声がしたのである。ぎょっとして振り返ると、湖の縁にある石段に、あの絵描きの男が座っていたのだ。
「お前は!」
呆気にとられるナディアをよそに、男は両手の親指と人差し指で四角を作り、まるで額縁に被写体を収めるようにして見ていた。
「はは、いい絵だな。沐浴する精霊みたいだよ」
ナディアの顔が紅潮した。咄嗟に一糸まとわぬ体を腕で隠し、湖に首まで沈めた。
「何故ここにいる?」
恥ずかしさに声を荒らげるが、男は膝に肘をついた両手を組み合わせて笑うばかりだった。
「もちろん、後を追って来た。もう一度頼もうと思ってね」
「ここは男子禁制だぞ」
ナディアが憎々しげに言うと、彼は冗談めいた口調で背後からナディアの脱いだ服を取り出した。
「これを返して欲しかったら、俺を一緒に連れて行ってよ。お前に興味があるんだ」
「なんて奴だ」
ナディアが盛大にため息をつく。
「仕方ない。いいだろう。ただし、街を出るまでだ」
「えぇ? つれないなぁ。しばらく一緒にいてもいいだろう?」
「何故?」
「景色を描くよりもお前は面白いからね。一緒にいると退屈しなさそうだ」
男がすっと立ち上がった。
「俺の故郷は退屈な場所でね。同じような景色ばかり広がってる」
そして、気持ちよさそうに空を見上げた。周囲を森に囲まれた湖の上にだけ、ぽっかりと丸い空があった。どこかで梟が低い声で鳴いている。
「見たこともない景色に心は踊る。だけど、俺が本当に描きたいのは、お前だと思うんだよ」
そして黒曜石のような目を細め、ナディアを見つめる。
「……お前は眩しいからね」
そう言うや否や、彼は衣服が濡れるのもいとわず、湖に足を踏み入れた。身をすくめるナディアの腕を掴み、軽々とその体を持ち上げる。
「なっ!」
『何をする』と問おうとした刹那、彼は自分の外套を外し、ナディアの細い体を覆った。
「風邪をひくよ、奇跡の踊り子さん」
まるで子どもに言うような口調だったが、目が穏やかに笑っている。拍子抜けしたナディアが、外套の縁を握りしめた。夜気で冷えた体に、温もりが伝わっていく。
「……お前の名は?」
男の顔をじっと見つめる。彼は高い鼻筋をかき、照れくさそうに言った。
「パーシヴァルだ。家族はパーシーと呼ぶ」
「お前には家族がいるのか」
ナディアが水面に視線を落とすと、パーシヴァルが彼女の頬にまとわりついた濡れた髪を払った。
「旅の連れなんだから、お前もパーシーと呼んでくれてもいいぞ」
「いや、遠慮しておこう。私はお前の家族ではない」
「それは残念だ。奇跡の踊り子の名はなんという? あ、それとあの白い鳥の名も教えておくれ」
「……ナディア。鳥の名はセシリアだ」
「いい名だ」
ナディアは不思議な気分で、パーシヴァルの細められた目を見た。何故か、吸い寄せられるような瞳だった。
彼の髪と瞳は、まるで闇の色だ。あんなに闇を怖がっていた自分なのに、この男は温かい。そう、まるで自分のすべてを闇の中に包んで隠してしまうような気がする。
「さぁ、戻ろうか」
パーシヴァルがナディアの手をとって、歩き出す。
そんな彼らを、セシリアが木の上から忙しなく翼をばたつかせて見ていた。
宿に戻ったナディアは仰向けに寝転がり、パーシヴァルの顔を思い描いていた。
無理矢理に旅の連れにされてしまったが、彼はどこか憎めない。何故だろうと考え、やがて小さな笑みが漏れた。
「あぁ、そうか。似ているんだ」
ナディアはそっと目を閉じた。その瞼の裏に浮かんだのは、施設でただ一人優しかったリンの姿だった。瞳の色こそ違うが、あの黒髪と顔の造りがどことなくパーシヴァルに似ている。
彼はみんなの前に立ちはだかる勇気は持てなかったが、それでもナディアの屋根裏部屋を訪れてくれた。自分の部屋を抜け出してきただけでも、相当の勇気が必要だっただろうと、今では理解できた。
忘れていたはずの淡い初恋は、今まさに終わったかのように胸を締め付けた。
「リン……あんたは今、笑ってる?」
寝返りを打って、そっと呟いてみる。
「笑っているといいな。パーシヴァルのように」
『家族がいる』と言ったパーシヴァルの屈託のない笑顔が、いつまでも頭から離れなかった。
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