第四章

恋人の指輪の魂

「とうとう、今夜が最後ね」


 ナディアが頬杖をつき、もう一方の手で魂を転がしていた。

 それはテッドが寝室に隠し持っていた三つの魂の中でも、特に大事にしていた魂だった。ほんのりと淡い象牙色をしている。

 テッドが神話の本を食卓に乗せ、彼女の真向かいに座った。


「ナディア、あなたは持ち主が人間ではないことを知っていたんですね? だから、あなたは神話を読んでほしいとねだっていたんでしょう?」


「違うわ、テッド。ナディアは人間よ」


 彼女は持ち主の名を口にすると、ふっと目を細めた。それはまるで懐かしい友人の話をするような表情だが、本人は無自覚だった。


「ただ、彼女を変えたパーシヴァルという男が精霊だということは知っていたわ。彼女たちが野宿で話をしていたのを聞いていたから」


「そろそろ話してくれませんか? あなたの持ち主が何者で、何を望んでいるのか」


 今までどんなにねだっても、彼女はその答えをはぐらかしてきた。話すのが辛かったのか、それとも何も考えたくなかったのかテッドにはわからなかった。

 しかし、この日のナディアは真剣な眼差しのテッドに観念したようで、素直に話し出した。


「私は元々、ナディアの育ての親の持ち物だった。ナディアは不思議な力を持つ子だったわ。人間なのに、精霊の声を聞くことができるの。彼女はその力を持つせいで、両親から疎まれて施設で育ったらしいわ。そこを抜け出したところで、育ての親に出会った。そのうち、育ての親は病で死に、私はナディアの物になったの」


 ぼそぼそと力なく話す彼女は、月光より頼りなげで、静かな笑みを浮かべていた。


「彼女は自分の力に怯えていた。人間と馴染もうとしないくせに、人間を見捨てておけない不思議な子だった。きっと、愛されたくても愛されない苦しみを背負っていたのね。いつしか彼女は精霊の声だけでなく、姿まで見えるようになっていたわ。そのうち一人の男が彼女と出逢った。それがパーシヴァルだった」


「ジゼルの父親の『黄泉の帝王』ですね」


「あの頃は『帝王』だなんて偉そうな肩書きじゃなく『闇の王』と名乗っていたけれど、出世でもしたのかしら」


 ふっと笑う彼女は、象牙色の魂をそっと握りしめた。


「彼女たちが野宿しているときに話しているのを聞いたの。彼は精霊で、ナディアは未来の時の女帝になるんだって。それで、てっきり自分はやがては精霊界に連れて行かれるものだと信じていたわ。だけど、彼女はある日、闇の向こうに消えてそれきり戻らなかった」


 そう言ったナディアは、まるで捨て猫のような目をしていた。


「私は馬車の中に置き去りにされて、彼女を待っていた。一ヶ月ほどして、何者かが馬車に近づいてくる気配がしたわ。怖かった。だって、それはナディアでもパーシヴァルでもなかったし、まして人間でも精霊でもなかったんだもの。ジゼルは傀儡を白い鳥だと言ったけれど、それがすべてじゃないと思うわ」


「どういう意味です?」


「なんとなく感じるの。傀儡は人型をしていることもある。あのとき馬車に近づいてきた男と同じ気配を、あの子の鳥は持っていた。それに多分、ナディアの育ての母もそうね。あの人も人間にしては奇妙な気配だと思っていたけど、傀儡だと思えば納得がいくわ」


「じゃあ、あなたに近づいてきたのは人の形をした傀儡だったんですか?」


「えぇ。浅黒い顔をした男だった」


 彼女は軽く頷き、垂れた前髪を横に流した。


「彼が私を持ち上げて、語りかけてきた。『お前の主の代理として迎えにきた』って。私はまだ精霊として生まれていなかったから声には出せなかったけれど、『彼女が直接来てくれなければ嫌だ』と思ったわ。私が待っていたのは彼女の手だったんだから」


「それで、どうしたんです?」


「不思議なことにね、傀儡は物の内なる声が聞こえるみたいだった。物体に魂をこめたかりそめの命だからかしらね? とにかく彼は私を馬車に戻して『ナディア様にそう伝えよう』って言ってくれた。それから繋がれたままの馬を逃がして去ったわ」


 ナディアのため息が、静かな小屋に響き渡った。


「そして数年後になって、ある男が馬車を盗むまでそのまま過ごした。盗人はナディアの荷物から足がつくのを恐れて、私や通行手形を売り払うことはせずに、馬車の隅っこに放置していたの。そして、彼は流行病で死に、私はここへ来た」


 そこで彼女は、テッドをじっと見つめた。


「私が生まれたのは齢百年を経たからじゃない。ちょうどあのとき、ナディアが私を心から欲したからよ。だけど、どうして今更私を弾きたいと願ったかまではわからない。今更じゃない? 本当に、今更」


 吐き捨てるような声だったが、その顔は今にも泣き出しそうだ。


「自分で迎えに来なかった。それきり音沙汰もなく過ごしてきたくせに、今になって私を生み出すほど願い、それでもまた迎えに来ない。残された私はどうすればいい?」


 テッドはそっと、彼女の震える手に両手を乗せた。


「でもね、ナディア。あなたの目は誰かを恋しがっています。また高らかに奏でられることを切望しています。そうじゃありませんか?」


 ビクリと震える手に、彼はそっと力をこめた。


「ジゼルが言っていたことは本当ですか? そんなに僕が心配ですか?」


 彼女は俯いたまま、答えない。だが、それこそが答えだった。


「僕はあなたの幸せは持ち主の手に戻ることだと考えています。だけど、それを一番妨げているのは僕ですね」


 見開かれた矢車菊の瞳に、テッドは切ない笑みを浮かべた。


「馬鹿ですねぇ。僕は独りで大丈夫。ナディアがどこかで幸せに過ごしていれば、平気なのに」


「本当、あんたは何もわかっちゃいない。私が望んでいるのは、あんたがそんな強がりを言わなくても安らぎの中で暮らしていけることよ。その日がくるまで、私はここを離れない。せめて、ほんの少しでもいいから、テッドを笑顔にしたいから」


 本当に姉のような精霊だと、テッドは微笑んだ。ときに母のようで、祖母のようで、こういうときは、恋人のようだともいえる。

 だが、それを言うことはしなかった。だからこそ、彼女は持ち主の元へ戻るべきなのだと、決意を新たにする。彼はグロリアを見送ったように、ナディアを見送る覚悟を決めていた。

 二人が見つめ合う中、ふっと灯りが消えた。


「あぁ、油が切れましたね」


「ちょっと、真っ暗じゃない」


「大丈夫ですよ」


 彼はそっと腕を持ち上げ、「照らせ」と囁いた。その途端、紅玉から目映いばかりの光が広がり、部屋の中は一瞬で昼間のように明るくなった。


「これは便利な品をもらいましたね。もう灯り用の油を買う必要ありませんし、光熱費が浮きます。ジゼルに頼んで、祖父に礼を伝えてもらいましょう」


 ナディアが「はは」と、声を上げて笑い出した。


「まったく、あんたときたら本当に……」


「守銭奴、でしょ? それとも『そろばん頭』かな。まぁ、堅実と言ってください。多分、森番小屋で慎ましく暮らしていた祖母に似たんでしょう」


 彼女の笑い声が嬉しくて、テッドまで笑い出してしまった。

 そのとき、ふっと闇が広がり「楽しそうね」と、声が聞こえた。見ると、ジゼルがいつものように白い鳥を肩に乗せてやってきたところだった。消え失せる闇を背に、彼女は微笑んだ。


「さぁ、最後の晩がきたわ」


「そうですね」


 テッドは目を細めて頷いた。

 今夜は魂の想いを語る最後の晩であり、ジゼルが訪れる最後の晩だ。そして多分、ナディアがここで過ごす最後の晩になるだろう。


「この魂を見るたび、僕は苦しくなります」


 ジゼルに象牙色の魂を手渡し、彼は椅子に腰をおろした。


「グロリアの話をしましたが、あの話には続きがあります。それこそが、この魂の物語です」


 しばしの間、テッドは目を閉じた。どうか、無事に話し終えられますように。今だけは涙を忘れられますように。そう願い、ふっと目を開けた。

 目に入ったのは、祖父の腕輪だった。その紅玉がまるでテッドを励ましているかのように煌めいている。


「グロリアが屋敷へ連れ戻されて数ヶ月たっても、僕は府抜けた毎日を送っていました。未練がましく花びらのない小川のそばで突っ立っているか、ぼうっとしているか」


 ジゼルが椅子に腰を下ろし、じっと聞き入っている。


「そんなある日、ダスティン様が訪れました。その日の葬儀は特別だったんです。僕にも参列するように彼は言いました。埋葬される人物の名を聞いて、僕は愕然としました」


 そこでテッドは一呼吸いれ、ためらいがちに続けた。


「グロリア・クィントン。それが、その日僕が埋める人物の名前でした」


 ジゼルが息を呑む音を聞き、テッドは静かに語り出した。


 グロリアの死因は呆気ないものだった。

 彼女は風邪をこじらせて死んだ。そうダスティンから聞かされても、テッドには信じられなかった。まさか、あの指先まで健康的だった彼女が今日にも棺に横たわってやってくるなど、信じたくもなかった。

 テッドは茫然自失で神殿に向かった。ただ、神殿の隅で葬儀がすすんでいくのを見つめているのが精一杯だった。彼の感情は麻痺し、耳に入るすべての音が、そしてその目に映るすべての光景が嘘のようだった。

 ダスティンの冥界への祈りは、まるで街の喧噪のように聞こえる。祭壇にいけられた花は造花のように見えていた。

 クィントン家の当主であるグロリアの父親の嘆きはひどいものだった。キースは始終目を伏せ、沈痛な面持ちだった。泣くのを堪えているのか、唇を固く結んでいる。


「冥界へ旅立つ者へ、最後の言葉を」


 ダスティンの言葉が、棺を閉じる時を知らせていた。すすり泣く声が一層、高らかに神殿に木霊する。参列者が早すぎる死を悼み、棺の中のグロリアに花を手向け、何事かを話しかけていた。

 だが、テッドは動けなかった。冷たくなったグロリアを見る勇気がなかったのだ。そんなものを目にすれば、きっと崩れ落ち、声を上げて泣き出してしまうだろうと、怖くなった。おまけに、キースが彼を目で制していたのだ。『お前にはその資格はない』と、その顔が無言で責めていた。

 棺を埋める前に、遺族とダスティンによって最後の祈りが捧げられる。数ヶ月前まで自分の腕の中にいた彼女が、こんな木箱におさまっているだなんて、どうやって信じればいいのだろう。テッドは、棺を埋めながらも、まるで空の棺を埋めているようだった。

 土をかけるたびに、彼の胸に懐かしい思い出が駆け抜けいく。幼いグロリアの飼い猫を埋めた日を思い出したときには、あのままごとのような葬儀が再び行われている気分だった。信じられないのは、青白い顔をしたグロリアを見ていないからかもしれなかった。

 だが、テッドはなによりも、この墓守小屋で泣き叫んだ彼女の姿が、本当に最後になることを信じたくなかったのだ。

 自分が望んだのは、こんな彼女の姿じゃない。土をかけながら、彼はそんなことを考えていた。


 埋葬が終わると、参列者とダスティンがぞろぞろと墓地を去った。キースは何か言いたげな顔でテッドを見ていたが、力なくうなだれる父親を連れ、無言で墓地を後にする。


「テッド……小屋に戻ろう」


 いつの間にか、ナディアが傍に立っていた。


「ナディア、一人にしてくれませんか?」


 やっとこれだけ言うと、テッドは柔らかく盛り上がった土を睨みつけた。


「わかったわ」


 ナディアが頷き、小屋に戻る。扉が閉められた瞬間、テッドはその場に膝をついた。

 『グロリア・クィントン』と刻まれた墓石をなぞるうち、視界が滲んでいく。叫びにも似た泣き声が、墓地に木霊した。

 望んだはずのものが、音をたてて崩れていた。彼女の笑み、赤ん坊を抱く姿、そして髪に白いものが混ざった頃、誰かと寄り添う姿が無情な墓石の向こうに消えていったのだ。

 何度も何度も土を叩きつけ、声が枯れるまで名を呼んだ。だが、彼女が返事をしてくれることは、もう二度とないのだと理解したとき、彼は暗闇の中でただ立ち尽くしていた。

 やがて夜の闇が墓地を染めあげ、梟の鳴き声がし始めた。すっかり夜気で冷えた体を起こし、小屋に戻ろうと立ち上がったテッドは、ギクリと身を震わせた。いつの間にか、傍にキースが立っていたのだ。だが、テッドの心臓を跳ね上がらせたのは彼だけではなかった。

 キースの背後には、埋葬したはずのグロリアの姿があったのだ。しかし、テッドにはそれが、彼女自身ではなく、物憑きの精霊だとすぐに感じ取った。

 彼女は何かを遺したんだ。そう悟った瞬間、キースが胸ぐらを掴み、今にも噛み付かんばかりに歯をむき出した。


「何故だ! 何故、そこまで嘆くならあの子の手を取らなかった! 何故、あの子が死ななくてはならない? 教えてくれ、テッド。俺がクィントン家の人間としてしたことは、グロリアを殺したことになるんだろうか?」


 そう言う彼の声が震え、テッドの襟元を掴んだまま泣き出した。


「……わかりません」


 突っ立ったままのテッドの目から、また涙が溢れ落ちる。


「どうすれば彼女を笑顔にできたのかなんて、どうすればよかったかなんて、僕にもわかりません」


 テッドは心の中で誓う。もし神がいるのなら、愛しいグロリアを奪った無慈悲な神など、決して信じない。父が母を救わなかった神を信じなかったように。

 キースが吐き出すように、口を開いた。


「グロリアはお前と別れてから、死んだようだった。笑顔も見せず、食事を拒み、日がな一日窓の外を眺めているだけ。話しかけても虚ろな顔で目を伏せる。あの子が探していたのは、お前の姿だった。もし、あの瞳に光を灯せるとしたらお前だけだったんだろう。すっかり弱り切ったグロリアは風邪をこじらせ、そして死んだ」


 キースが深いため息をつき、目を閉じた。


「あの子は焦点の合わない目で、俺に手を伸ばした。やせ細った手を取ると、久しぶりに妹の声がした。短い遺言だったよ。あの子は『指輪を、彼に』と言った」


 そして、彼は懐から一つの指輪を取り出した。その手のひらに乗っていたのはテッドが彼女に託した、母の形見である翡翠の指輪だった。

 キースの背後にいる精霊を見ると、彼女はグロリアの顔で小さく頷いた。


「グロリアがお前に託したものだ。お前なら、それが何を意味しているのか、wかるのだろう?」


 キースがテッドに、指輪を握らせた。ひんやりとした感触が手に伝わっていく。

 月夜に輝く指輪が、テッドを見上げていた。


「えぇ。この指輪が語ってくれます」


 墓地を去る前、キースがこう言った。


「テッド、俺には想う人がいる。だが、それはグロリアとお前のように叶わぬものだ」


「なんとなく、そんな気がしていました」


「だからこそ、グロリアとお前が逃げてくれないかと願ってもいた。次期当主という生き方から逃げられない俺の分まで。だが、たとえ逃げても行き着く先は同じだったんだろうか?」


 テッドには何も言えなかった。母を失った父の気持ちが、初めてわかった気がする。


「それでも悔いるよ。せめて、最後までお前との恋に浸ったままでいさせてやればよかったと」


 そう言い、彼は去っていった。墓地にはテッドと物憑きの精霊だけが残された。

 精霊はグロリアそのままの姿をし、彼女のお気に入りだった浅葱色の服で身を包んでいた。


「君は、指輪の精霊ですね?」


「はい」


 そう返事をした声まで、グロリアのものだ。それが一層、テッドの心を締め付けた。


「小屋へ行きましょう。ナディアが心配していますから」


 彼は指輪の精霊を連れ、墓守小屋へ戻った。出迎えたナディアが口をぽかんと開けていたが、すぐに察したようだった。

 ナディアは冷え切ったテッドを椅子に座らせると、濡らした布で土まみれの手を拭き、毛布をかけた。

 指輪の精霊はそれをじっと見つめ、そしてテッドはナディアにされるがまま、精霊を見つめるだけだ。


「テッド、しっかりなさい」


 不意に、ナディアがテッドの肩を力強く叩く。


「グロリアの声を聞き届けなさい」


 返事の代わりに、言葉もなく頷いた。

 精霊がテッドを見つめ、目を細める。それは、グロリアが口づけをねだるときの目と同じだった。


「話してくれますか? あの人の想いを」


 テッドが促すと、精霊がそっと頷いたのだった。

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