剣の精霊の語り

 その剣は名工の作として名高い剣で、齢百年を経ても尚、その切れ味は衰えないと評判だった。

 彼が精霊として生まれたときは、とある騎士が持ち主だった。だが、彼はどうもその持ち主が好きになれなかった。名声にしか興味のない傲慢な男だったし、酒癖が悪かった。

 ちょうどその頃、遥か東方のある国で戦争があった。剣である彼にはそれが勃発した理由など知らないし、知る必要もなかった。ただ、その騎士に握られ、人を傷つけるだけの毎日だった。

 長い戦いの中、前線の地は人の亡骸で埋もれ、血なまぐさい臭いが当たり前だった。戦争というものは、人間の醜さの集大成だと彼はしみじみ呆れていた。

 騎士はよく戦ったが、とうとう力つきて血の海に倒れ込んだ。剣を地に突き刺したまま、騎士の体が冷たくなっていく。赤黒く染まる景色を見ながら、剣の精霊はぼんやりと自分はここで錆つくのだと考えていた。

 そのときだった。一人の若い男がよろめきながら向かってくる。敵か味方かわからない死体に足をとられ、もつれ、息も絶え絶えになっていた。

 だが、その弱り切った男は、目だけはぎらつくように燃えていた。まるで炎のように燃え立つ緋色の瞳だ。赤銅色の髪を振り乱し、薄い唇から荒い息を吐きながら、彼は剣の柄を鷲掴みにした。


「死ねるか……死ねるものか」


 擦れた声が、唱えるように繰り返される。


「俺はまだ何も残しちゃいないんだ!」


 そののうめき声は、精霊の心を打った。この男が残したいものは、少なくとも騎士のように名声や栄誉の類いではないことはすぐにわかった。

 彼が残したいものは生まれた理由、死んでいく理由、生きていた証。そういうものだと、その燃える目が叫んでいた。

 男は剣を振るい、戦い続けた。その腕前は訓練したものではなかったが、筋はよかった。

 精霊はよい主を見つけた悦びに打ち震えていた。剣というのは不思議なもので、柄を通して、主の人柄や感情を感じとる。泣きながら人を切り、戦いへの不条理を嘆く優しい心がひしひしと剣に伝わるのだった。

 ところが、そんな最中だった。味方であるはずの陣営から妙な騒ぎが起こった。


「レイ、生きていたか!」


 顔見知りらしい男が駆け寄り、彼を『レイ』と呼んだ。


「逃げろ! 奴は俺たちを裏切った! 殺されるぞ!」


「嘘だ! 俺たちは彼の信条を胸に戦ってきたんだぞ!」


 悲鳴にも似た叫びが、レイの口から漏れた。だが、相手は絶望に満ちた顔で言い返す。


「あの騒ぎが見えないのか? 俺たちは敵に売られたんだ!」


 レイは剣を握る手に力をこめ、ぶるぶると体を震わせた。


「じゃあ、俺は何のためにこの戦場に来たんだ? 結局、人は誰も自分の欲のためにしか生きられないのか?」


 失望にも似た叫びだった。だが、すぐに彼は狂ったように笑い出す。


「生きたいために殺した俺も同じだというのか? あいつらと同じだと?」


 戦場であることを忘れそうなほど綺麗な青空を、怒号が切り裂く。

 そして、異変が起こった。だが、それは陣営にではなく、レイに、だ。


「レイ! 今すぐ……」


 レイの肩を掴んだ男が悲鳴を上げた。レイの体からまるで獣のような炎がほとばしり、男を一瞬にして呑み込んだのだ。友だった男はのたうちまわり、断末魔を上げ、ついには朽ち果てた。

 剣というのは恐怖心を持たないが、これが『恐怖』というものかと思った。それくらい、彼の力は凄まじかった。人間があっという間に消し炭になるほどの炎など、そうはない。

 レイの体は不思議と炎に包まれても、なんともなかった。その体が触れている衣服や靴、そして剣もだった。剣とレイは、温度のない炎の中にいた。だが、外から触れる物は何でも焦がした。

 剣の精霊が見上げると、レイの目に狂気が宿っていた。少なくとも、正気ではない。ただし、彼が人間ならの話だ。

 そのとき、彼は呆然としながら、唇からぶつぶつと何か言葉を漏らしていた。まるで誰かと対話しているようだ。最初は聞き取れなかったが、最後だけははっきりと聞こえた。


「精霊だと? そんなものは信じない! これが憎まずにいられるか!」


 その叫びと共に、津波のように大きくうねる炎が戦場を駆け抜けた。敵からも味方からも断末魔が上がる。人間と物の焼ける臭いが爆風で舞った。

 やがて、炎がおさまってくると、辺りに黒い海が出来ていた。燃え尽きた人々や騎馬のなれの果てだ。

 そして、そこに生きて立っているのはレイモンドただ一人だった。

 彼は呆然とし、焦点の合わない目で戦場を見ていた。緋色の目は輝きを失い、曇っている。

 彼はぼそりと擦れた声で呟いた。


「俺は……人間じゃない」


 炎の力のことを言っているのか。はたまた敵味方すら関係なく多くの命を殺めたからか、精霊にはわからなかった。

 そのあとでレイがとった行動は逃亡だった。彼は剣を握り、狂ったように走り続けた。まるで何かに怯えるように、呼吸が荒い。

 幾つか峠を越えた辺りで、彼は森の中へ隠れた。苔むした倒木に背を預け、彼は肩で息をする。そして、赤銅色の髪をかきむしった。


「母さん……みんな……俺は……」


 嗚咽が漏れ、彼は突っ伏して体を震わせた。精霊は彼の泣き声をただじっと聞いていたが、それはどんな断末魔よりも身が引き裂かれそうな悲壮感を漂わせていた。

 やがて、彼が疲れ果てて眠りについたときだ。ぼんやりと彼の傍に闇が浮かんだ。夜の闇とは違う、今までに見た事もないどす黒い闇だった。

 その凍てつくような気配に、精霊は身震いした。今まで、どんな戦いを見ても動じなかった彼が、硬直していた。

 そして闇の中から一人の男が現れたとき、まさしく体が凍りついた。彼はレイと同じ赤銅色の髪と緋色の目をしていた。だが、その瞳はもっと哀愁漂うものだ。威厳を帯びた動きで苔を踏みしめ、傍らには行灯のように光る鳥を連れていた。その鳥の体は、火そのもので出来ていた。

 現れた男は、そっとレイの寝顔をのぞき込み、ため息をついた。


「哀れな子だ。だが、会いたかったよ」


 悩ましげながら、慈愛に満ちた声だ。そして、怯んだままの精霊を、緋色の瞳がとらえた。


「おや、その剣は精霊を宿しているね」


「……俺が見えるのか?」


 初めて、精霊は言葉を発した。声を出したところで、普通の人間には聞こえないのだから。だが、この男は違っていた。精霊となってかなりの年月を経ているが、自分の姿を見た者はこの男が初めてだった。


「お前は何者だ? 人間ではないな?」


「私は精霊界に住む火の王だからね」


 そして、彼は精霊の前に跪き、緋色の目を細めた。


「レイはお前を見ることができるのか?」


「いや」


「そうか。では、彼は火の力だけ受け継いでしまったんだな」


 それはひどく哀しげな声だった。


「お前に頼みがあるんだがね」


「俺に?」


「いつか、レイの子孫に物憑きの精霊を見る子が生まれたら、私の話を聞かせてやってくれないか?」


 そう言って、彼は剣の柄を撫でた。


「君もレイに好意を持ってくれるなら、頼まれてくれ」


「お前が今、レイを起こして伝えれば済む話だろう」


「そう思ったが、拒否された。戦場で脳内に直接話しかけてみたがね」


 精霊を信じないと叫んだレイの顔を思い出した。あの瞳に憎しみが広がったのは、あのときだ。


「話してみろ」


 剣の精霊は、火の王だと名乗った男に促した。


「話の内容次第では引き受けよう」


 火の王は声を出さずに笑った。だが、どこまでも寂しい笑みだった。


「私の名はイグナス。かつて火の精霊を束ねる王という立場にありながら、精霊界から人間界に逃げて来たことがある」


 彼は、ふっとレイを愛おしそうに見やった。


「そのとき出逢った人間の女との間にできた子が、レイモンドだ」


 剣の精霊は心の中で深く頷いた。なるほど、レイが戦場で炎を生み出せたわけだ。彼は火の精霊の王の血を継いでいたのだから。


「妻はレイを出産するときに死んだ。この子が受け継いだ炎の力に焼かれて」


「それでは、レイが母親を殺したのか」


「そうなるな。火の精霊は強すぎる感情に駆られると炎を暴走させることがある。それは憎しみや悲しみといったものだ。先ほどの戦場でのレイのように」


 精霊には、母胎から追い出される赤子が何故泣くかはわからない。少なくとも、憎しみではないだろう。では、レイの場合は悲しみに似た物を抱いて生まれたということになる。

 何を悲しんだのか。母を失うことがわかっていたのだろうか。それとも、多くの人間を焼き払う運命を呪ったのか。

 火の王は、そんなことを考えている精霊に微笑んだ。


「私は火と共に鍛冶も司る。すべての物を作る人間を加護している王だ。鍛冶の力を受け継いでいれば、人が生み出したお前とも話せたんだろうが、レイは火の力だけ持って生まれた。私が心に直接語りかけたことで、レイは自分が精霊の子だと知った。その力のせいで母を失い、そして今、多くの命を奪うことになったことも。きっと、精霊を憎むだろう」


 そう言うと、彼はまるで罪人のように項垂れる。


「そして彼はきっと、誰よりも自分を許さないはずだ。レイがいずれ生まれる子にどう接するかわからない。もしまた火の力を持っていれば、忌み嫌うかもしれない。それ以前に、精霊の力が受け継がれることを呪って、子を成さないかもしれないがね」


 目を伏せたまま、彼は祈るように言った。


「だが、もし彼に子が生まれたら、レイがこれから抱える苦悩を話してやって欲しい。きっと、レイは己の過去を墓場まで持っていくだろう。それと同時に、狂気にまみれて過去に怯える日々を送るだろう。彼は私に似ているようだから、誰にも何も言わないだろう。レイの子に、お前がどんな接し方をされたとしても、彼だけのせいではないと伝えてほしいのだ」


 精霊が考えあぐねていると、火の王がふっと顔を上げた。


「そしてもう一つ。レイは母の形見の竪琴を大事にしているはずだ。もし、レイの子孫が己の力に怯えたときは、その竪琴の精霊に会うといいと伝えてくれ」


「竪琴の精霊だって? 物憑きの精霊が見える子なら、俺が忠告するまでもなく見つけるだろうさ」


「いや、彼女は私の加護を受けて長い眠りについているのだ。彼女が本当に必要とされたとき、一度だけ起きることになっているが、そのあと魂に還ってしまう」


「必要とされたときって?」


「いつか、レイも子孫も『自分の子も火の力を受け継いで生まれるかもしれない。愛しい人を焦がしてしまったらどうしよう』と恐れるはずだ。愛する人の子は欲しくても、踏み切れないときは来る」


 彼がそっと立ち上がる。月明かりを浴び、王は寂しげに呟いた。


「レイに伝えられれば、どんなによいだろう。彼が物憑きの精霊を見ることができたなら、よかったのに。愚かな父だ。息子すら救えぬのに、王などと名乗っている」


 そう言う姿は戦場で呆然としているレイに似ていた。

 王は岩の上にとまっていた火の鳥に目配せする。


「炎の女帝から許された時間は過ぎた。私は行かねばならない。本来なら、私は人間界にいてはならない身だからね」


 全身が炎でできた不思議な鳥が、たき火のはぜる音に似た声を上げた。その体が一段と輝き、またその背後に闇が生まれる。

 剣の精霊はふと思いつくままに訊ねた。


「火の王ほどの力を持つなら、レイの火を止めることは出来なかったのか?」


 母を焼き殺す前に、そして戦場で無数の人間を焦がす前に。そうすれば、そんな苦悩など抱えることもなかっただろうに。だが、彼の双眸に絶望が滲んだ。


「たとえ王であろうと、精霊の力を帯びた火を止められるのは、それを生み出した者だけだ」


「ふん、精霊の王ともあろうものが不甲斐ない。こうしてレイを起こそうとしないのも、息子に恨まれるのが怖いだけだろう」


「そうかもしれないな。だが、仮に私が神だとしても、恐ろしいことには違いないだろう。私はこの子を愛しているからね」


 そう言って、彼は闇に足を踏み入れた。


「愛しているから、怖いのだ。妻が私に残したものは、諸刃の剣だな」


 その言葉が終わった途端、辺りはすべてが元通りになった。暗い森には、レイが死んだように眠っているだけだ。

 精霊はまじまじとレイを見た。彼は寝ながら、うっすらとその目に涙を浮かべていた。精霊は初めて、人間を哀れだと思った。


 翌日、レイは剣を腰にさげて歩き出した。

 街道の行き着く先は、故郷の村だった。だが彼は堂々と戻らず、夜気に紛れてこっそりと家に忍び込んだ。そして、大きな袋に食料と有り金、そして竪琴を詰め込んだ。

 彼は村を捨てたのだ。いないほうが村のためだと思ったのだろう。しゃくり上げながら村を去る彼の目が、そう言っていた。

 レイはあてもなく歩き続けた。


「遠くへ」


 彼はぶつぶつと呟く。死んだ魚のような淀んだ目で、足取りは心許ない。


「どこでもいい」


 手持ちの食料と有り金が尽きると、彼は物乞いをしながら彷徨った。


「遠くへ」


 とうとう、ある街まで来たとき、レイは行き倒れた。彼の腰にぶらさげられた剣も地面に叩き付けられた。レイの手が震えながら土を掴み、そして動かなくなる。

 こいつは死ぬのだろうか。精霊がそう思ったときだった。


「大変! ダスティン様、人が倒れています!」


 男と連れ立って歩いていた女が駆け寄って来た。彼女は美しい眉をひそめ、レイをゆさぶる。


「しっかりして!」


 その女は小柄で、澄んだ瞳をしていた。それがのちにテッドの母親になるゾラという女だった。

 ダスティンが跪いてレイを抱き起こし、眉をしかめた。


「これはいかん。神殿で手当しよう」


 こうして、レイは冥界の神を奉る神殿に運ばれた。

 精霊はゾラの腕の中で「このまま死なせてやったほうが、こいつのためかもしれないのに」と小さく呟いていた。


 レイは神殿の一室に運び込まれた。極度の疲労と空腹が倒れた原因だと知り、ゾラは「病じゃないんですね」と胸を撫で下ろす。

 彼女はこの神殿に仕える女官だったが、勤めの合間によくレイの面倒を見た。

 最初の夜、彼女は神殿に泊まり込んでレイの傍に付き添っていた。

 ふと、レイがうめき声を上げた。玉のような汗があふれだし、もがく体が毛布を床に落とす。


「母さん! 熱い……熱いよ!」


 ゾラが慌てて体を押えつけようとした。だが、突き飛ばされ小さな悲鳴を漏らした。それでも、彼女はレイに駆け寄りその体にしがみついた。


「俺のせいだ!」


 獣のような叫びだった。ゾラが必死に抱きつきながら、こう繰り返す。


「あなたのせいじゃない! あなたのせいじゃない!」


 精霊はいらつきを覚えながら、涙を流しながらレイを押さえる彼女を見ていた。

 何故、見ず知らずの人間のために泣けるのだろう。何故、軽々しくレイのせいではないと言えるのか。

 実際に母と戦友を焼き殺したのはレイなのだ。その事実すら知らないくせに、あの肉が焼ける臭いを嗅いだこともないくせに、白々しいことを言う女だと胸が悪くなった。

 だが、そのときだった。レイの頬をすっと一筋の涙が伝ったのだ。暴れていた体は大人しくなり、荒く呼吸する胸板だけが上下している。そして、意識のないままゾラを抱きしめ「……母さん」と呟いた。ゾラは息を呑み、応えるように咄嗟に彼をかき抱いた。

 人間というのは不思議なものだと、精霊は鼻で笑う。ゾラは何も知らないくせに、レイの欲しいものをすんなり与えてしまった。そう、幻で見る母親の「あなたのせいじゃない」という言葉を。

 だが、彼はこれからも苦悩し続けるだろう。自分の中に火の力がある限り。


「俺はとんでもなく重苦しい主を持ってしまった」


 精霊の呟きは、誰に聞こえるわけもなく、消えていった。


 翌日、レイは目を覚ました。だが、夕べのことは何も覚えていないようだった。それを知ったゾラは笑顔で「意識が戻ってよかった」とだけ繰り返す。


「あなたの名前は? どこから来たの?」


 ゾラの質問に、レイは答えなかった。彼女はため息をついて、レイの荷物に目をやる。ふと、袋から竪琴がはみ出しているのが目に入ったらしい。彼女はそれに触ろうとした。


「この竪琴はあなたの?」


 その途端、レイの怒号が飛んだ。


「触るな!」


 凍りついたゾラに、彼は『しまった』という顔をする。ふっと顔を背け、低い声で呟いた。


「……すまない。大事な物だから」


「いいえ、こちらこそ、ごめんなさい」


 ゾラは気丈に振るまい、笑顔を繕った。だが、その手は小さく震えていた。

 そのとき、ダスティンが部屋に入って来た。


「気づいたようだね」


 彼の威厳に満ちた声に、レイが横たわったまま眉を上げた。


「私はこの神殿の神官長のダスティンだ」


「助けたのか、あんたが」


 精霊は「ほうら、見ろ」と、ため息をつく。レイの目が『何故、助けた』と言っていた。だが、ダスティンは静かに微笑むだけだった。


「勘違いするな。私がお前を助けたのではない。冥界の神がまだ早いと仰ったまでだ」


 レイは黙って天井を見上げた。ダスティンはふっと眉を下げ、今度はゾラに向かって言った。


「ゾラ、隣国の戦争が終わったそうだよ。死者に祈りを捧げよう」


「……終わっただと?」


 レイが目をむき、起き上がった。だが、すぐにうめき声を上げる。ゾラが駆け寄り、そっと手を添えた。


「何でも、神の天罰がくだったらしい。前線の地が何故か敵も味方も区別できないくらい黒こげだったそうだ。両国とも、神の怒りと恐れて和睦したよ」


 呆然とレイが呟く。


「神だと?」


 ふ、と彼の唇から笑いが漏れる。そしてそれは高笑いとなり、ついには泣き出した。


「……ゾラ。彼についていなさい」


 ダスティンの言葉に、ゾラが強く頷く。レイが戦争の参加者だと知れたようだった。

 扉が閉められると、レイは声を上げて泣いていた。残されたゾラが何度も囁いた。


「好きなだけ泣いていいですよ」


 普通なら「泣くな」と言うところだが、ゾラはこう言った。


「泣いて、泣いて、心にあるものを出し切ってしまえばいい」


 その途端、レイはゾラを引き寄せ、しがみついた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を彼女に埋めて泣いていた。母にすがる子のようだった。

 ゾラの手が、彼の背中を包み込む。亜麻色の髪が、ふわりと肩から垂れた。


「生きていれば、光は射します」


 そう言った彼女も泣いていた。剣の精霊には、彼女の翡翠色の瞳に浮かぶ涙こそ光に見えた。レイの黒くただれた心に射し込んだ、ただ一筋の光に。


 精霊のその直感は正しかった。レイは体調が戻る頃には、彼女に心を許していた。

 レイは墓守として雇われ、神殿の隣に住むようになった。夜ごと、ゾラは夕食を持って彼の小屋へ向かう。平和でのどかな日々だった。

 そのうち、ダスティンとゾラにだけは、自分を『レイ』と愛称で呼ぶことを許すようになり、彼らの前でだけは微笑むこともできた。

 レイが穏やかなゾラに魅かれていったのは自然なことだった。柔らかい亜麻色の巻き毛と翠玉のような瞳、そして笑みをたたえた唇。彼女を美しく見せていたのは、そういう造形だけではなかった。凪いだ海のような穏やかな心が、彼女を輝かせていた。それはレイが持ち合わせていないものであり、最も欲しがったものでもあった。

 そして彼女もまた、レイを深く愛するようになっていた。炎のようにたぎるレイの想いは、女にとって至上の喜びだった。だが、それと同時にレイが苦悩することも増えた。

 ゾラが愛おしい。彼女との子が欲しい。だが、自分のような想いを子にさせるかもしれない。その恐怖からか、彼は日に日にやつれていった。

 ある夜のことだった。ゾラが夕食を終えたレイに言った。


「レイ、お願いがあるの」


「何だい?」


 きょとんとしたレイに、彼女は真摯な眼差しを向けた。


「何故、あなたが子どもを恐れるのか教えて欲しいの」


 レイは押し黙る。だが、ゾラは退かなかった。


「納得させてちょうだい。私との子が欲しくないの?」


「欲しいさ!」


 咄嗟に叫んだレイは、ハッとして俯いた。眉根を寄せ、苦々しく呟く。


「愛する女の子どもを望まない男が、どこにいる?」


「じゃあ聞かせて」


 声が掠れた。翡翠の目に涙があふれ、目尻からこぼれる。


「でなければ、あなたを知らなかった頃の私に戻して」


 レイはゾラを強く抱きしめた。その手が僅かに震えている。精霊はぼんやりと、火の王の『愛しているから怖いのだ』という言葉を思い出していた。

 レイも同じなのだ。過去を話してしまえば、ゾラは去るかもしれない。それでもいいと子を産めば、母と同じように焼け死ぬかもしれない。だが、このまま黙り続けていれば彼女の心が壊れてしまうだろう。どのみち、彼女は去るのだ。だから、彼は言い出せない。

 精霊はレイと暮らすうちに、彼の考えが手に取るようにわかるようになっていた。というよりも、レイの感情が精霊になだれ込んでくるのだ。どこにいても、彼の心が震えるたびに、精霊にもそれが伝わってくる。それは、物憑きの精霊が主と心を通わせた証拠だと、精霊は自然と理解していた。本能と言ってしまえば簡単だが、実はそう思いたかったのかもしれない。彼はレイを気に入っていたのだ。

 精霊の力を必死に押さえ込もうとうずくまり、一人で罪の意識を抱え込んで泣く。だが、レイは少なくとも父のせいにはしなかった。精霊の力を受け継いでしまった自分だけを責めていた。そういうところが精霊は気に入った。

 この男は弱い。だが、強い。剣の精霊はまっすぐな男が好きなのだ。不器用なくらいの実直さが精霊の心を掴んでいた。


「ゾラ、いいかい?」


 レイは覚悟を決め、そっと翡翠色の瞳に語る。


「俺はどのみち君をなんらかの方法で傷つけるだろう。それでもいいのかい? このまま黙って去る道もあるんだよ」


「それを愛とは言わないわ」


 ゾラが睨むように彼を見つめた。


「与えられるだけの愛は愛とは呼ばないわ。共にもがいて、道を見つけるから愛なのよ」


 泣いているはずの彼女は、不思議なことにレイよりも強く見えた。毅然とした横顔に、精霊は「レイが惚れる訳だ」と、ふっと笑みを漏らす。


「君には負けるよ」


 レイは精霊と同じように笑い、一筋の涙をこぼした。別れを覚悟した涙でもあり、愛された悦びの涙でもあった。

 レイはゾラを寝台に引き寄せ、並んで座った。そして、その手をとり、静かにこう呟いた。


「手を握っていてくれ。俺が最後まで話せるように」


 ゾラは微笑み、両手で彼の骨張った手をしっかり握る。その目には母のような慈愛と、愛される女の幸せとが滲んでいた。

 そして、彼は語り出した。己が生を受けた日のこと、戦場での炎、そして呪われた血の宿命を。


 レイが生まれたとき、彼はすでに孤独だった。彼はこの世に生を受けてすぐ、あの竪琴を取りに戻った村の、ある家の前に捨てられていたのだ。

 その家の主は子どもができない染物屋の夫妻だった。彼らは朝早く、レイの泣き声で目を覚まし、軒先で赤ん坊と竪琴の入った籠を見つけたのだ。竪琴は煤に汚れ、弦が一本切れていた。


「お前さん、こんなものが」


 妻が竪琴に結びつけられた一枚の紙切れを夫に見せた。そこには小さな文字で『レイモンド』とだけ記されていた。それで、彼はレイモンドという名を授かった。

 レイは畑を耕し、薪を運ぶ日々を送り、腕っ節の強い青年となった。誰もが将来は染物屋を継いで、村の女と結婚して幸せになるだろうと思っていた。

 だが、そんなある日、戦争が起こった。徴兵の演説を聴いて傾倒した彼は、すぐに兵に志願した。その演説をしたのがあの謀反の張本人だったが、当時の彼は裏切りにあうなど知るよしもなく、それが正義だと信じて戦った。

 初めて人を斬ったとき、レイは震えた。戦争だからいいのだろうか。正義のためになら、殺していいのだろうか。こいつにも、俺のように家族がいるのに。そう思うと、足がすくむのだった。

 だが、それもすぐに麻痺した。でなければ、自分が殺される。彼は正義で目隠しをして人を斬り続けた。

 どれだけの血肉を斬っただろう。彼の心は血の涙にまみれていた。

 自分の武器は刃こぼれして使い物にならなくなっていたが、地に突き刺さった剣を見つけ、彼はなおも斬り続けた。正義のために、いや、あの両親のもとへ帰るために。


 ところが、そこであの謀反が起きたのだ。彼の張りつめていた糸が切れた。まるで彼と一緒に籠に入っていた竪琴のように。

 レイの体の奥で何かが音をたてた。一気にそれは熱を帯びて全身を巡る。気がつけば、近くにいた戦友を焼いていた。

 彼は呆然とする。だが、そのとき頭の中に叫び声が響いた。


『レイ、怒りを鎮めなさい。お前は感情を爆発させると炎を放ってしまう!』


「お前は、誰だ?」


 レイは口の中で呟いた。


『お前の父であり、精霊界の火の王。レイ、お前は精霊の力を受け継いでいるんだよ』


「精霊だと?」


 そう言った途端、彼の脳裏にある光景がなだれ込んで来た。悲鳴にも似た声を上げながら出産する女。産婆と共に傍に立つ自分と同じ髪の色をした男。

 やがて、赤ん坊が生まれる。だが、その子の産声は聞こえなかった。男が子を抱き、母の胸に乗せようとした瞬間、それは起こった。赤ん坊の泣き声と共に炎が巻き起こる。紅蓮の炎は母体と産婆を包み込んだ。断末魔の中、男が呆然と立ち尽くしていた。

 レイは目を潰したい衝動に駆られた。この戦場で見てきたどんな光景よりも胸をえぐったのだ。だが、それは容赦なく彼の脳内で直接繰り広げられる。

 そして彼はその部屋の隅にある見慣れた竪琴に気づいた。それは、彼が捨てられていた籠に一緒に入っていたものだった。


「俺が母を殺したのか」


 レイは瞬時に悟った。


「精霊の力など持って生まれたせいで、母をあんな酷い目に遭わせたというのか」


 彼はぶつぶつと呟き、一筋の涙を流した。

 気がついたとき、彼は異臭にまみれた風の中にいた。人間はおろか、武具や防具も、旗も、木々や大地すらも黒くなっていた。ただ一人、レイをのぞいては。


「俺は人間じゃない」


 だが、精霊でもない。何者かすらわからない。無知で愚かで、呪われた存在だということ以外は何もわからない。

 そして、レイは逃げ出したのだ。この最前線の地で一人生き残っているのを見つけられたら、自分の力や罪が知られてしまう。

 彼は森へ逃げ込み、ひたすら泣いた。疲れ果てて眠り込んだとき、不思議な夢を見た。しなやかな女性が竪琴を弾いている。白金の髪が揺れていた。だが、逆光でその顔は見えなかった。


「母さん」


 そう呟いて、彼は目覚めた。泣きながら起きたのはこれが初めてだった。

 彼はそのまま逃亡するつもりだったが、竪琴だけは手放すまいと決めた。己の罪を忘れないように、母を焦がした自分を見ていた竪琴を持っていくことにしたのだ。

 村へこっそり逃げ帰ると、彼は染物屋の夫妻が寝入っているのを確認して荷物をまとめた。村を出るとき、彼は心の中で何度も呟いた。


「ごめんな、父さん。ごめんな、母さん。あんたたちは本当に優しかった。本当に俺を愛してくれた。たとえ血のつながりがなくても、俺が一緒にいたかった。けれど、もう叶わない。俺の血は穢れている」


 そして彼はさすらった。どこに行けばいいのだろう。いつか感情が爆発すれば、また火の海に包まれる。そう思うと、安らげる場所などどこにもなかった。

 そんなとき、彼はゾラと出逢ったのだ。目が覚めたとき、彼はゾラに何故かいらつきを感じていた。彼女が帯びる穏やかさや無防備な表情を見るたびに、無性に神経を逆撫でされた。

 ダスティンが部屋に入ってきたときもそうだった。戦争が終わったことには驚いたが、死者に祈ろうと言った彼に吐き気がしたのだ。

 祈ることが何になるのだろう。あの光景を知らぬ物が偽善をぶらさげて祈って、自分も何かした気になりたいのか。そう思ったときだった。自分が起こした炎を『神の天罰』などと言われた。

 彼は自嘲した。そして、高笑いは泣き声に変わった。

 何が神だ。神などいない。彼らは何もしない。ただ、一人の穢れた血を持つ精霊と人の間の子がいただけだ。滑稽じゃないか。この俺が戦争を止めただって? とんだ汚れた臆病者の英雄だ。


 そこまで語ると、レイは「怖かったんだ」と呻いた。


「誰かもわからぬ父の影が、いつまた沸き出すかもしれぬ火の力が怖かった。俺の行き先はどこも闇に包まれていた。孤独と無知に彩られた、冷たい闇だった」


 レイはふっと、ゾラの瞳をのぞき込んだ。


「でも、ゾラは言ってくれたね。『生きていれば、光は射します』って」


 ゾラはただ頷いた。その翡翠色の目が涙で光っていた。


「あのときは、ただ世間知らずの女の戯言だと思ってた。だけど、君が懸命に俺を看病している姿に偽善はなかった。信じてみようかという気持ちになった。いや、それ以前に俺は君の温もりが欲しかった」


 レイはそっと緋色の目を細める。


「今なら、何故俺が君やダスティン様にいらついていたのかわかるんだよ。それは、俺が欲しいものだったからだ。君たちが持っている心の拠り所や、温もりがね」


 彼は言葉を失っているゾラを抱きしめる。


「俺の髪と目の色は炎の色だ。それに殺めた人の血の色だ。それでも、愛していると言えるかい?」


 そして、擦れた声で囁いた。


「その身を焦がすかもしれないと知っても、子を欲しいと願うのかい?」


 ゾラは嗚咽の下からため息を漏らした。


「もちろんよ、レイ」


 レイが弾かれたように、ゾラの体を離す。臆するレイと対照的に、ゾラの瞳は凛々しかった。


「いずれあなたと別れなくてはならないなら、私はあなたの子を残して逝きます」


「何故? 怖くはないのか?」


「最後にこの目が映すものがあなたなら、怖くないわ」


 彼女は泣き笑う。


「それに、これ以上あなたを独りにしたくないの。私が死んでも子どもは残る。あなたが愛を忘れないように」


 レイはゾラを必死に抱きすくめる。

 精霊は彼の嗚咽を聞いたのは何度目だろうと、ぼんやり思った。だが、今までのどの泣き声よりも胸に突き刺さる。

 ゾラはまるで子どもを包み込む母のように、赤銅色の髪を撫でている。


「私、あなたの髪と瞳の色が大好きよ。温かくて、綺麗だわ」


 そしてこう笑い飛ばしたのだ。


「精霊の力を私たちの子も受け継ぐとは限らないわ。私に似るかもしれないんですもの。たとえあなたに似ても、きっと優しい子よ」


 まだ子を産んではいないが、母は強い。精霊は「かなわんな」と小さく漏らし、固く抱きしめ合う二人を見つめていた。

 それからしばらくして、ゾラは身ごもった。膨れてきた腹を撫で、レイが言った。


「明日は出かけて来るよ。少し長くなるが、待っててくれ」


「どこに行くの?」


 きょとんとするゾラに、彼は笑う。


「あの剣を返しに隣国へ行って来るよ」


 精霊は意外な言葉に戸惑った。今まで持ち主が変わっても動じなかった心がざわついていた。剣を見ると戦場を思い出すのだろうか。咄嗟にそんな考えがよぎった。

 だが、レイが剣を見る目はどこまでも穏やかだった。


「家族を捜しているときに前線で見つけたとでも言っておくさ。この剣の持ち主が誰かは知らないが、彼が神の化身だったに違いないとでも言っておこう」


 そう言って、彼は剣をそっと握りしめた。


「何故かこいつには助けられているような気がする。いつも俺を見守ってくれて、ここまでたどり着く間にも、何度となく俺の体を支えてくれた」


 精霊は「それは単に、お前が杖代わりに俺を土に突き立てたんだろう」と鼻で笑った。だが、悪い気はしない。


「持ち主はきっととうに死んでいただろう。だけど、俺が焦がしてしまったせいで、家族は遺体すら見つけられなかったかもしれないんだ。せめてこの剣だけでも故郷に返したい」


 そして、剣は隣国の領主へ届けられた。領主は頭の足りない男だったが、信心深かった。


「まさしく、神の化身が振るった剣に違いない。あの悪夢のような前線にあって、この剣だけ焦げていないのだから」


 そう言って、精霊ごと剣を博物館に閉じ込めてしまったのだ。レイは展示される剣に向かって、小さな笑みを浮かべた。

 『さよなら』と、その顔がそう言っていた。立ち去る背中には、温もりを得た安心と、それでも心の奥底に押えつけた力への恐怖とが見て取れた。

 レイは誓ったのだ。あの精霊の力を引き出しかねない感情を殺して生きることを。ゾラとの温もりで幾重にも包んで、心を偽ってでも生きていくことを。

 思うままに生きられないというのは不幸かもしれない。けれど、精霊はそれも悪くないと思っていた。


 その夜から、精霊は博物館で今日までを過ごしてきた。だが、その間にもレイの感情がなだれ込むことは止まなかった。

 離れていても、今まさにレイの傍にいるようだった。あまりに強い感情のときは、彼の見ている景色や声まで届くことがあった。それだけ、彼の中でレイが確固たる主になっていたのだ。

 テッドが生まれた日の歓喜を、精霊は忘れられずにいる。妻に似た髪と目の色に安堵したあと、レイは泣き出した。母と子の無事な姿を見た彼は、長い恐怖から解き放たれたのだ。

 だが、その数ヶ月後にゾラが流行病で死んでしまった。そのとき届いたレイの悲しみは、言葉にならないものだった。

 精霊はまた彼が炎を生み出しやしないかと、咄嗟に恐れた。だが、それは杞憂だった。炎が体に揺らぐたび、レイの心を引き戻した存在がいたのだ。

 それがテッドだった。レイが炎の気配に襲われるたび、テッドは声を上げて泣いた。その瞬間、彼の炎がさっと影をひそめる。


「ゾラ、君が残したものはあの剣のように俺を助けてくれる。俺をずっと、見守ってくれる」


 精霊は、そんなレイの声を聞いた。誰もいない博物館で、彼は泣いていた。人間のように目など持たない体のはずだが、確かに泣いていたのだった。

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