闇の加護
亡き吟遊詩人の残り香がする毛布を濡らし、その名を繰り返し呼ぶ夜が続いた。ナディアはあの温もりが欲しくてたまらないままだった。
だが、生きていくためには金がいる世の中だ。嘆く気持ちを抑え、なんとか一人で稼がなければならなかった。
街の酒場で踊って食いぶちを稼ごうとしたが、踊り子ではなく吟遊詩人だと街の人に思わせる必要があることに気がついた。彼女は吟遊詩人セシリアの残した通行手形を使い続けていたために、セシリア本人のふりをしなければならなかった。
今の彼女を救っているのは、セシリアが残した四弦の楽器だった。ナディアはかつてのセシリアのように、吟遊詩人としてカゴを置いて歌うことを生業にした。
都市が変わってもすることは同じだ。何を見ても、何を口にしても、すべてがつまらない単調なものにしか映らなかった。いつもならその日の出来事や明日についてセシリアと語りあった夜も、しんと静まり返っている。分かち合う相手がいない暮らしには慣れているはずだった。なのに、心は千切れそうなほど痛む。
明日は十五歳の誕生日という夜、ナディアは野宿のたき火の前で泣いた。この何年かはセシリアが祝ってくれた日も、きっと独りでは淡々と過ぎ行くだけだろう。
「施設にいた頃に戻っただけだ。あの場所にいないだけマシじゃないか」
そう呟いた唇が震え、音もなく涙が頬を滴り落ちる。
「苦しい……」
ナディアの声は、舞い上がる火の粉とともに、か細く宙に消えた。
セシリアの静かな笑みと少し掠れた声、その手の温もり。すべてが恋しかった。かつて自分を救ってくれた存在が、今はこんなにも胸を苦しめる。
いつしか、彼女は泣き疲れて眠りについた。
その明け方、彼女は奇妙な夢を見た。
夢の中で彼女は宙に浮いて景色に溶け込んでいた。目の前にあるのは、生まれ育った屋敷の一室だった。
子ども部屋の真ん中に天蓋付きの小さな寝台がある。そこで幼い自分がすやすやと寝息をたてていた。おそらく、三歳頃の自分だろうと彼女は考えた。お気に入りだった寝間着に見覚えがあった。
「こんなときもあったのね」
宙に漂うナディアは他人事のようにそれを見ていた。
まるで知らない誰かを見ているようだった。自分の力になんの疑問も持たず、両親に愛され、満ち足りた顔をして眠る自分など、今では別人のように見える。胸の奥が締め付けられ、息が苦しくなった。
その時だった。不意に、部屋の隅に音もなく黒いものが湧き出した。まるで泉のように闇があふれ、みるみるうちに床を染めていく。
「……なんだ、これは?」
ナディアが眉間にしわを寄せていると、その闇がぬっと盛り上がり人の形になった。黒い人影が寝台の幼いナディアに歩み寄る。
「……まさか、こんなところにいるとはな」
黒い人影が言葉を発した。声は若い男のものだが、その姿は闇よりも暗く、唇が動く様さえ見えなかった。
「見つからないはずだ。まさか人の子だとは」
困惑しているような声色だった。
人影が寝台の手すりに手を置き、幼いナディアを見下ろした。しばらく彼はずっとそうしていたが、やがてぽつりと言った。
「間違いないようだ。俺の左胸がそう言っている」
その声は歓びと戸惑いを同時に抱えているようだ。
ふと、幼いナディアが寝返りを打ち、目を開けた。眠そうに目をこすっていたが、黒い人影に気づいたのか、寝起きの声でこう言った。
「だぁれ?」
ふっと、笑みの漏れる音が聞こえる。
「……賭けをしよう」
黒い人影は寝ぼけ眼のナディアに話しかけた。小さなナディアは矢車草の瞳に人影を映しながら、不思議そうな顔をしていた。
「お前が闇の温もりを欲するとき、俺と会った記憶が甦るだろう。そしてその心が開けば、闇を脱ぎ捨てた俺の姿が見えるはずだ」
そして彼は幼いナディアの顔に手をかざす。指先から闇が伸び、ナディアの口にするりと滑り込んだ。
「うぅ」
微かな声を漏らし、ナディアが再び目を閉じて寝息をたて始めた。それを見届けると、黒い人影が短いため息を漏らす。
「いつか俺の手をとってくれるなら……心の底から俺を願うとき、お前のもとへ行くよ」
そう言って、人影は眠れる幼子の手に口づけをした。
夢の中のナディアを戦慄が襲う。人影が暗い闇の向こうで唇をつり上げて笑った気がしたのだ。
「……待っているよ」
そこで、目覚めた。起き上がると、目の前のたき火から細い煙が弱々しく立ちのぼっていた。
「何よ、これ?」
体中が汗ばんでいた。全身が凄まじい寒気に襲われているのは、たき火が消えかかっているせいではない。鼓動が駆ける馬の足音よりも早く鳴っていた。
よろよろと歩き、近くにあった岩場の隙間から湧き出る清水で顔を洗う。ほっと一息したところに、岩清水の精の声が聞こえた。
「ずいぶんとうなされていたね」
「えぇ、そのようね」
そう何気に答えた彼女は飛び上がり、思わず悲鳴に似た叫び声を上げる。目の前に年老いた岩清水の精の姿がくっきりと映っていたからである。
「あぁ! あなたは精霊なの?」
ナディアが顔を拭くのも忘れて素っ頓狂な声を上げた。岩清水の精は白いヒゲを蓄えた男の姿だったが、糸のような目を更に細くして笑った。
「おやおや、どうやらお前は私の姿まで見えるようになったらしいね」
「そんな馬鹿な……何故?」
すっかり動顛したナディアが叫びにも似た声を上げた。
「今まで声は聞こえても、姿までは見れなかったのに!」
岩清水の精は「ふむ」と小さく唸り、腕組みをした。
「お前からは闇の匂いがするよ。お前の魂には二重の加護が刻まれている。しかも、両方とも闇の眷属によるものだ」
混乱のあまり目眩を感じた。彼はそんなナディアに構わず、にやりと口の端をつり上げながら言った。
「その加護が崩れてきている。姿が見えるのは、そのせいだろう」
どうやらこの年老いた精霊は、今まで会ってきた精霊よりも物知りなようだ。
「加護って何なの?」
ざわつく心を落ち着かせようと胸に手をあてながら、ナディアが問う。岩清水の精霊は長いひげを撫でながら答えた。
「加護とは精霊が施した術やまじないだ。お前は何かを封じられている。しかも二度にわたって」
ナディアの脳裏に、さっき見た夢が浮かぶ。あの黒い人影が瞼の裏に焼き付いていた。
「何を封じているのかは、儂にもはっきりとはわからない」
年老いた精霊が残念そうに言う。
「儂のような一介の精霊にはこれくらいしか教えてやれん。王たちなら別だろうが」
「精霊に王様がいるの?」
「なんだ、知らないのか」
意外そうに岩清水の精が笑った。
「今までたくさん精霊と話をしてきただろうに」
ナディアがうつむく。話をしてきたというより、一方的に話しかけられてきただけのような気がする。実際、ナディアから精霊に話しかけたことはなかった。
助けられることもあったが、両親の屋敷や施設での出来事を思えば、精霊の声が聞こえるせいで苦しんだ記憶に苛まれることのほうが多かった。
岩清水の精はそんな彼女を見透かしたように呟く。
「まぁ、人間には理解できないだろうから、辛い思いもしてきたろうね」
そして、こう教えてくれた。
「精霊には数多くの王がいる。川の精の王、森の精の王、風の精の王……数えれば枚挙に暇はない。そしてその王を統べるのは精霊界の四人の帝王と、冥界の二人の帝王」
さらにこう付け加える。
「お前に加護を授けたのは冥界の精霊だろう」
「冥界なんてところがあるの?」
狐につままれたような顔で、ナディアがぽかんと口を開けた。
「死んだ全ての魂が行き着くところだ。そして、魂が清められ、また新たに生を授かるところでもある」
死んだ全ての魂と聞いて、ナディアの頭に思わずセシリアが浮かんだ。彼女もそこへ旅立ったのだろうか。
「案ずるな。お前はその加護に守られているよ。精霊に妬まれそうなほどにね」
「そういえば、月の光の精にいじめられた時期はあったわね」
ナディアが苦笑する。施設に着いたばかりの頃、月の光の精が自分をからかって逆上させたことを思い出したのだ。
「月の光か。さもありなん。彼女たちは光の精ながら闇の中に住まうからね。その闇の加護に嫉妬したんだろう」
「でも、誰も教えてくれなかった」
「物を知らない若い精霊だったかもしれんな。それに、知っていても教える物好きはあまりいない」
「あなたは教えてくれたわ」
「同情さ。お前がずいぶんうなされていたからね。昨夜、一つの加護はあらかた消えたようだが」
「昨日、変な夢を見たわ」
ナディアが夢の中での出来事を話すと、精霊が唸った。
「昨夜消えた加護は、お前のその記憶だと考えるほうが自然だろう。だが、まだ魂に跡が残っている。その闇の人影の姿が見えるとき、完全に加護が消されるだろう。私の姿が見えるようになったのは、恐らくその影響でもう一つの加護も脆くなっているからではないかな」
彼は背を向け、岩の隙間に消え入りながらにやりとした。
「お前は記憶だけでなく、力を封じられているようだね。きっと、何か特殊な力を持っているんだろう。それが何か是非とも知りたいものだ。その日も近いだろうがね」
姿が岩の中に消えると同時に、こんな声が木霊した。
「私の岩清水で顔を洗った者がどんな加護を受けていたのか、風の精から噂で聞く日を楽しみにしているよ」
岩清水の溢れる音と、ナディアだけが取り残された。呆然としながら、ナディアが呟く。
「私、どうなるのかしら?」
そのときから、ナディアの世界が変わった。
なにせ、ただでさえ数多の人間がいる中に、精霊まで見えてしまうのだ。『こんな姿だったのか』という驚きと好奇心もあれば、若干の煩わしさもあった。
彼女はセシリアの教えを忠実に守っていた。精霊には用心なさいという教え通り、深入りすることもなく過ごしてきた。同時に、幼い頃の体験から、他の人間に精霊のことを話さない方が得策だということも学んでいた。だが、不意に現れる精霊の姿に驚いたときなど、それを周囲に知られないようにするのは、思ったより骨が折れた。
「一生この力と付き合うのかしら?」
げんなりするように、彼女は肩に乗ったセシリアに話しかける。白い鳥は首をせわしなく動かすだけだった。
質素な朝食をとりながら、ナディアはあの夢を思い出していた。『闇の温もりを欲するとき、俺と会った記憶が甦るだろう』と、あの影はそう言った。
闇という言葉が何を意味しているかはわからないが、あの夜、彼女は確かに温もりを欲した。それは他ならぬセシリアの温もりだった。
……では、あの影はセシリアなのか。
「まさか」
彼女は脳裏に浮かんだ言葉を打ち消した。あんなに温かく優しいセシリアからあんなおどろおどろしい闇の気配などするはずがない。
影は『その心が開けば、闇を脱ぎ捨てた俺の姿が見えるはずだ』とも言った。
だったら、なおのこと、あれはセシリアではないと、ナディアが確信する。彼女が心を開いているのは、家族のようなひとときを過ごしたセシリアただ一人なのだから。
岩清水の精が言う『特殊な力』という言葉が、自分の何を示すのかナディアには知る術がなかった。ただ、用心のためにも、今まで以上に人間との距離を置かなければならないと、肝に銘じる。どんな力であれ、人間とは自分の常識を超えた現象を目の当たりにすると狂気を帯びることを嫌というほど知っていたからだった。
それを再び実感する出来事が起こったのは、岩清水の精と出逢ってから一ヶ月後のことだった。
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