第二章
火山の踊り
火山の麓にある街に流れ着いた日だった。宿をとったナディアは度重なる揺れに辟易していた。火山からは一筋の煙が立ちのぼり、小さい地鳴りが一日に何度も襲って来る。
「落ち着かないでしょう? すみませんね、旅の人」
宿の主が餅つきバッタのように頭を下げている。
「最近、あの火山が煙を吹き出してね、それ以来、地鳴りが続くんですよ。でも、それももうすぐ止むでしょう」
「何故、止むとわかる?」
怪訝そうにナディアが問うと、彼は誇らしげに胸を張った。
「明日、地鳴りを鎮める儀式が行われるんです」
「儀式?」
「はい。火の女神の神殿で男の子が祈りの踊りを奉るんですよ。そのあとでその子を生け贄に祈るわけです」
ナディアの顔に嫌悪が浮かぶ。彼女には巨大な火山の精霊が不機嫌そうに地団駄を踏んでいるのがまざまざと見えていた。そんなことであの精霊を鎮めることができるだろうか。
「その男の子は誰だ?」
「なんでも身寄りのない子だそうですよ。自分の子を差し出す親なんていないでしょうから、それが、一番角が立たないんでしょう。小さい街ですから」
反吐が出そうだと、思わずナディアが胸の中で悪態をついた。
水差しを置いて部屋を出ようとする宿の主を呼び止める。
「神殿の場所を教えてくれ」
火の女神の神殿は、街を見渡せる高台にあった。白く長い石段が続き、遥か上に巨大な神殿がそびえていた。夕暮れの中、神殿に松明が灯され始めているのが見える。
ナディアが楽器を持つ手に力をこめ、その灯りを睨みつけていたときだった。
「ねぇ、もしかして吟遊詩人なの?」
小さな声がした。いつの間にか幼い男の子がそばに立って、自分を見上げている。
「あぁ」
「わぁ、僕、生まれて初めて見たよ」
男の子は目を輝かせ、頬を染めた。
だが、すぐに懇願するような顔になり、ナディアの外套をめいっぱい掴んだ。
「ねぇ、何か歌ってよ」
彼は口を歪ませ、絞り出すような声でこう言った。
「僕、明日には死んじゃうんだ」
「お前が生け贄の子か」
男の子が無言で頷く。よく見ると、物陰に隠れてこちらの様子を窺っている男がいた。生け贄に逃げられないように見張っているのだろう。
「お前は死にたくないのか?」
ナディアが膝をついて男の子の目を見据えた。
「怖いよ。だけど、火山が爆発したらどのみち死んじゃうんでしょ? みんな、そう言ってるよ」
「お前だけが死んで、誰か悲しむ者はいないのか?」
「……妹がいるんだ。親はいないけど、施設で一緒に暮らしてる」
「その施設では幸せか?」
「辛いときもあるけど、僕は妹といれば平気だよ」
「その妹はお前が死んだら、どうするんだ?」
「施設長が言ってた。僕が生け贄になれば、妹には里親を一番に見つけてやるって。だから、僕は引き受けたんだよ。あの子は僕が守らなきゃ」
そう言って、彼は俯いた。
「でも、怖いんだ。だから、僕に勇気が持てるように歌を歌ってよ」
ナディアが「あぁ」と呻くように言った。そして、そっと彼を抱きしめる。
「とびきりの歌を歌ってあげよう」
ナディアの胸には愚かしい人間への憤りと、健気で愛おしい人間への憐憫とが同時に溢れていた。
「お前は歌なんて聴かなくても、充分に勇気を持っているよ。そんなお前を讃える歌を歌おうね」
石段に並んで座り、彼女は楽器をつま弾いた。男の子のひたむきな妹への愛を讃えるため、心をこめて歌い上げる。
男の子はうっとりとした目で、傍らのナディアに見入っていたが、街ゆく人々は遠巻きに見ているだけだった。生け贄にかかわり合いになるのは御免だと言わんばかりに眉をひそめている。
歌が終わると、男の子は名残惜しそうに立ち上がった。
「ありがとう。僕、これで思い残す事ないや」
そのとき、ナディアの肩にいたセシリアが男の子の頭に飛び移る。
「うわ!」
ナディアが思わず笑った。
「こいつもお前を気に入ったようだ」
そして、そっと男の子に耳打ちした。
「心配するんじゃないよ。お前は死なせない。明日は妹と一緒に神殿においで」
男の子はきょとんとしたが、痛々しい、泣き出しそうな顔で笑った。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。僕はもう覚悟したから」
だが、ナディアは首を横に振った。
「慰めを言ったんじゃない。お前は生きるんだよ。自分を強く持てる子は、どこへ行っても強く生きていける。明日は妹と来るんだ。いいね?」
かつてセシリアから教わった言葉を残し、彼女は踵を返した。
男の子は呆然としてその後ろ姿を見送っていた。
ナディアが向かったのは、煙の立ちのぼる火山だった。
火山の入り口は殺伐としたものだった。民家の灯りは遥か遠くにあり、そびえ立つ山の頂きが無言でナディアを圧倒していた。
「火山の精よ」
噴火口から自分を見下ろす巨大な精霊に、ナディアは呼びかけた。生まれて初めて、精霊に話しかけた瞬間だった。
「お前は何が不満で火を吹く?」
「小さい人よ。お前には私が見えるのか」
驚いたように目を見開く火山の精霊は、立派な体躯の男の姿だった。
「ふん、知れたこと。退屈なのだ。この街の住人は毎日同じことを繰り返し、争いや陰口ばかり。人の顔色を伺って希望も持たない。見ているこっちが辛気くさくなる。いっそ、ないほうが気も晴れる」
「だが、溶岩と火山灰にまみれた景色になるのも、また退屈だろう」
「いずれ、木の精が住み着くだろう。あいつらも無口で退屈な連中だが、街の人間よりはまだマシだ」
そう言った精霊が、太い眉を上げた。
「それよりも、お前は精霊の加護を受けているようだが、本当に人間なのか?」
「そのようだ」
ナディアが苦笑する。火山の精が声に親しみを滲ませた。
「その魂の加護は、闇のものだな。地中に住まう隣人の匂いがする」
「岩清水の精と同じことを言う。お前にもわかるのか?」
そうナディアが苦笑すると、火山の精の目に好奇の光が差した。
「俺は見た目よりもずっと長く生きているからな。それにしても面白い。岩清水の精は木の精よりも無愛想なのに、お前はそれを奴から聞いただと?」
「彼はとても無愛想には思えなかったが」
呆れるナディアに、彼は太い声で笑った。そのせいか、途端に揺れが起こり、ナディアがよろめいた。
「岩清水の精が思わず話しかけるということは、それだけお前の力が珍しいんだろう。奴は知りたがりだからな」
ナディアは黙って眉を上げた。その珍しい力が何なのかちっともわからないのだ。精霊の姿や声を見聞きする力のことだけではなさそうだが、他に心当たりもない。
「火山の精よ、こうしないか?」
ナディアが思い切って声を振り絞る。
「退屈だと言うならば、明日の儀式で私が舞ってみせよう」
「ほう、お前が踊るのか?」
「子どもが生きたまま火あぶりにされるか、小さな首が飛ぶよりは面白いはずだ」
「生け贄を用意したか。つくづく人間とは愚かな生き物だ。自分たちが助かりたいために子どもを捧げるだと? 吐き気がする」
「同感だ。私もあの街は好きになれないが、あの男の子は別だ」
ナディアが不敵な笑みを浮かべた。
「どうだ? 岩清水の精いわく、近く私の加護は全て解かれるらしい。珍しい力を持つ私の舞を見れば、のちのち自慢になると思うが」
また地面が揺れた。今度はナディアも両足で踏ん張って、どうにか持ちこたえる。
「大きく出たな、闇に愛されし者!」
愉快そうな笑い声が続いた。
「いいだろう。精霊と取引しようという根性が気に入った。ただし、お前の舞が気に入らなければすぐに火を吹くぞ。お前もろとも消してやる」
「なに、お前は火を吹かない」
ナディアが心の底から言った。
「私はあの男の子は妹と生きていくと信じている。それに、お前はあの兄妹を焼いてしまうような精霊ではないよ」
火山の精がにやりとした。
「傲慢だな。それは自分に言い聞かせているのか? 精霊など気まぐれだぞ」
「いや、本当のことだ。私は自分の言葉通りにしてみせる」
そして自分はかつてのセシリアと同じように、生きる道を切り開く手助けをするだけだ。ナディアはまっすぐ精霊を見上げて、力強く言った。
「あの兄妹は、強く生きる」
ナディアは、あの男の子にセシリアと出逢った頃の自分を重ねたのだった。
火山から戻ったナディアが次に向かった先は、火の女神の神殿だった。出迎えた神官にこう申し出る。
「神官長殿にお会いしたい。旅の吟遊詩人が火山の精霊を鎮めに来たとお伝え願いたい」
それを聞いた神官は訝しげな目でナディアを見たが、すぐに「少々お待ちを」と奥へ入っていった。しばらくして、神官が戻ってくる。
「神官長がお会いになるそうです。中へどうぞ」
そして少し語気を強めて言った。
「くれぐれも失礼のないように」
「承知した」
ナディアが短く答える。この神官は自分がここに来たことを快く思っていないようだ。まぁ、当然のことだろうと彼女は考えた。街の人間ならまだしも、ふらりと現れたよそ者の吟遊詩人が夜中に会いたいなどと言うのだから。
通されたのは神殿の中央に位置する本殿だった。太い柱で支えられた高い天井には美しい壁画が天幕のように広がっている。本殿の奥には巨大な火柱が上がっていた。更にその奥にもっと巨大な火の女神の像が鎮座している。
本殿で待ち受けていた神官長は四十を過ぎた頃の男だった。なかなか美しい顔立ちで、よく通る声だった。
「これは旅の方、夜更けに火の女神にお祈りとは熱心な」
彼の目が細くなった。ナディアはその欲の深そうな目が気に入らなかったが、慇懃に礼をする。
「遅い時間に無理を言って申し訳ありません。是非とも神官長殿のお耳に入れておきたいお話がございまして」
「いや、頭を上げなさい。この神殿に参るものはすべて火の女神の子。私は誰とでも面会することにしているのだから」
愛想のよい顔を浮かべ、彼はナディアに歩み寄る。
「さて、それで話とは?」
「その前にお人払いを」
「ふむ、だが、しかし……」
「もし不安に思われるようでしたら、そこの者を一人だけお残しになるとよいでしょう」
ナディアが視線を送ったのは、神官長に付き従う一人の女官だった。栗色の髪を結い上げ、可憐な雰囲気をまとっていた。
「よかろう」
神官長がそう言うやいなや、女官以外の者が一礼して本殿を去って行く。
「これでよかろう。さぁ、そなたはどんな悩みを?」
「悩みではございません。ご忠告です」
不敵に笑うナディアに、神官長が眉を上げた。
「忠告されるようなことはないが。変わったことを言う吟遊詩人だ」
そして、思い出したようにこう付け加えた。
「そなたは精霊を鎮めに来たと申したな」
「はい。それで参った次第です。僭越ながら申し上げますが、明日の儀式で男の子を捧げても無意味でしょう」
神官長が鼻で笑う。
「なぜ、そのように思われるのかな?」
「恐らく神官長殿は火の女神に捧げるために男の子をご用意されたのでしょうが、あの火山の精霊は男でございます。男に男の子を捧げても嬉しくはありますまい」
「それでは、あの男の子には妹がいたな。そちらを捧げるとよいのか? 彼らが死んでも悲しむ者などおるまいしな」
ナディアはこみあげる吐き気をぐっと堪える。人の命をなんだと思っているのだろう。
「生憎ですが、それも無駄骨に終わるでしょう。あの火山の精霊が求めているのはそのような儀式ではありませぬ」
「おかしなことを。そなたには精霊の考えがわかるとでも?」
神官長の唇がつり上がる。だが、ナディアは顔色を変えず言い放った。
「はい。声を聞く事ができますし、その姿もはっきりと見えます」
信じがたいと言いたげな顔で、神官長が腕組みをした。
「証明できるかね?」
「それで、お人払いをお願いしました」
ナディアの視線が神官長から像の前の火柱に移された。
「あの巨大な松明は絶やさず燃やしているのですね?」
「あぁ。この神殿が建立されて以来のしきたりだ」
「では、あの火柱の精の力を借りて証明してみましょう」
神官長は興味深く頷く。女官は恐ろしげに胸に手を当て、その様子を見守っていた。
「実は、この本殿に入ったときから、あの火柱の精がやかましくて堪りません」
ナディアは火柱の傍へ歩み寄った。神官長と女官には見えなかったが、松明の前に燃えるような赤い髪をした老女の精霊が立っていた。厳格そうな顎と尖った鼻の持ち主だ。
「あなた、私の声が聞こえるんでしょ? 知ってるんだからね、あなたが精霊と話ができる人間なんだって。風の精が噂してたんだから!」
耳を刺すような金切り声で、そう喚きちらしている。
「そいつらに伝えたいことがあるのよ!」
「火柱の精よ、協力しておくれ。そうすれば、伝えよう」
ナディアが精霊に語ると、老女の精霊は何度も頷いた。
神官長たちは、火柱に向かって話す彼女をじっと見守る。
しばらくの間、ナディアは火柱に向かって耳をすませ、何度か相槌を打っていた。だが、やがて小さく頷いてから口を開いた。
「この火柱の精によると、あなた方は昨日の真夜中に松明に薪をくべられた」
「いかにも。だが、それがどうした? それは毎夜の勤めだ。この街の誰もが知っている」
「あなたは像の前の火柱に薪を足そうとしたとき、右腕の神経痛を訴えられた。特に雨の日に痛むそうですね。……え? あぁ、そうか、崖から落ちたときの古傷なのか。それは辛いだろうね」
神官長の顔から血の気が引いていき、その目が見開かれた。女官の口はぽかんと開いたまま、かすかに震えている。
ナディアが真実を言い当てながら火柱に向かって頷く様は異様だった。
「まさか、そんな……誰か神官でも立ち聞きしていて、そなたに教えたのであろう」
「いえ、そんなはずはないということは、神官長殿が一番よくご存知のはず」
ナディアがため息を漏らした。
「実は火柱の精が先ほどから喚いているのは、その後の行動に怒っているのです。薪をくべ終わったあなた方は抱き合って睦言を囁き始めた」
神官長の目が更に大きく見開かれる。畏怖のこもった目をした女官が、口に手を当てて、悲鳴を押し殺した。
「もちろん、あなた方はその時間に誰もいないのを知っていた。だが、火柱の精は一部始終を見ております。神官長殿は彼女を抱き寄せ『可愛い私のアマンダ』と名を呼んだ。あろうことか神聖な本殿でそのまま契ったのです。彼女の右の乳房には三ツ星のホクロがあるそうですね」
女官の口から「何故、それを……」という声が漏れた。二人ともすっかり青ざめていた。
「どんな甘い囁きを口にしたかも一語一句当ててみせましょうか?」
神官長が苦々しげに「よい」と首を横に振った。
「火柱の精が憤慨しておりますよ。この本殿であのような行動は慎みなさいと喚いております。私もそうおすすめします」
「そなたは千里眼の物の怪か」
低い神官長の声に、ナディアが肩をすくめた。
「化け物と呼ばれて虐げられたときもありました。しかし、私は人間です。ですが、この力はどうしようもないのです」
神官長は目の前のナディアを食い入るように見た。
「それでは、そなたはあの火山の精霊とも話をしたのだな?」
「はい」
ナディアが火山でのやりとりを話すと、神官長が腕組みをして唸り出す。
「確かにそうかもしれないが、だからといって火を吹かれても……」
「精霊とはそんな生き物でございます。気まぐれで、無責任で、だが人間よりは純粋です。あの精霊は単に憂さ晴らしがしたいのでしょう」
「そなたが踊るというのか? その命をかけて」
神官長がいかにも『理解できない』という顔をした。
「見知らぬ孤児のために?」
「神官にあるまじきお言葉ですね。孤児でも人の子。火の女神の子です」
「よかろう。それでは明日、見事に舞ってみせるがよい。そのかわり、失敗すれば孤児の代わりに生きたまま火にあぶって生け贄になる。我々の逢瀬の秘密も守れるというものだ」
「どのみち、失敗すれば私は火山の精霊が吹く火に焼かれるでしょう。しかし、私はやり遂げます。そのときはどうするおつもりで?」
言葉に詰まる神官長に、ナディアがにやりとした。
「実は、成功の暁に是非ともいただきたいものがございます。逢瀬の秘密とひきかえに」
翌日の正午だった。神殿の本殿には燭台で縁取られた舞台が用意されていた。その舞台の中央には薄い絹の衣装を身に着けたナディアが立っている。本殿前の広場には街中の人々が集い、好奇と不安の入り交じった無数の視線をナディアに送っていた。
「あの吟遊詩人は誰だ?」
「なんでも、宿屋に泊まっているよそ者らしい」
「身寄りのない孤児のために自ら生け贄になったんだと。慈善家ってやつか、よほどの馬鹿だな」
「あんなよそ者に儀式を任せて大丈夫なの?」
外はそんな囁きでざわついている。
「用意はいいかね?」
火の女神の像のそばで、神官長が問う。その傍らには女官アマンダに連れられた生け贄の男の子とその妹がいた。男の子は腕にナディアの衣服を預かり、妹のほうは肩にセシリアを乗せている。
舞台に上がる前、男の子が泣きそうな顔でナディアにしがみついた。
「どうして吟遊詩人さんが僕の代わりに死んじゃうの?」
「なに、案ずることはない。私たちは生きるから」
そっと柔らかい髪を撫で、微笑んだナディアは颯爽と舞台へ上がったのだ。歩くたびに足首と手首に着けられた鈴の音が鳴るのを、男の子はぼうっとした頭で聞いた。
今、ナディアは舞台の中央で目を閉じている。火柱の精が松明の中から叫んでいるのが聞こえた。
「あの火山の精は天の邪鬼なんだよ! あなた、正気なの?」
「無論だ」
ナディアが目を開け、火柱の精にそう言って微笑んだ。神官長はその言葉を『用意はいいか』と訊いた自分への答えだと思い込んだが。
「では、始めるがいい」
神官長の声に、ざわついていた広場の民衆が一斉に静まり返った。舞台の一段下がったところで、神官たちが楽器を鳴らし始める。笛と太鼓、弦の音色が本殿の高い天井に響いていった。
白い腕が伸び、足が舞台を踏みしめた。鈴の音が木霊し、薄い衣が舞うたびになびき、金の髪が広がってうねった。
人々はその姿に見惚れ、火山のことも忘れて見入っていた。神官長も思わず「ほぉ」と小さな声を漏らし、好色そうな目を細めた。
ナディアの踊りは激しくも憂いに満ちていた。そこに宿っていたものは保身と欲にまみれた人間への憤怒、そして純粋で小さなか弱き命への憐憫だった。
この本殿を覆うようにかがみ、自分を見守っている火山の精霊の気配を感じ取り、彼女は踊りの合間に呟く。それはまるで自分自身に言い聞かせるようでもあった。
「私だって、人間を決して、好いてはいない」
ナディアが踊りながら途切れ途切れに呟く。
「だが、それでも願う。闇の中に、またたく光があるように、身勝手な人の中に咲くか弱い花が……健気な花が、散らずに咲くことを」
火柱の精が「あぁ」と声を漏らした。
「あなたは、闇の眷属か」
その声でナディアは自分に起こっている異変に気づき、その目に怯えが走った。
自分の指先から、そしてつま先から黒い闇が漏れていた。踊るたびに、その闇が糸をひくようになびき、すっと消える。その様子はまるで黒い糸をなびかせ踊っているようだった。
恐怖がどっと襲い、逃げ出したい衝動に襲われた。
だが、踊るのを止めるわけにはいかないと、彼女はきつく唇を噛んだ。あの少年とその妹のために踊らなければ、誰が彼らを助けるんだ。セシリアのように、彼らを助けようと決めたんだ。
闇はなおも溢れ、ナディアの体を覆い始める。雪のように白い衣装をまとっていたナディアが、精霊の目にはまるで黒檀色の羽衣を身にまとっているように見えた。
そのとき、大地が大きく揺れた。演奏する神官たちが不安そうな視線を神官長に送る。だが、彼は続けるように目で促した。広場の人々が慌てふためき、口々にナディアを罵り始めた。
「あぁ、また地鳴りだ!」
「やっぱり、よそ者に儀式を任せたのが間違いだったんだ!」
「あいつを舞台から降ろして火あぶりにしろ!」
いきり立つ民衆に狂気が走る。生け贄の男の子が思わず、繋いだ妹の手に力をこめた。
だが、ナディアの踊りは止まることはない。不意に、火山の精の笑い声が彼女に降り注いだ。ナディアの胸に安堵が走り、口元が緩んだ。
「......あの人、笑ったわ」
女官のアマンダが震える声でおののいた。神官長は何も言わずに踊りながら微笑むナディアを見守っていた。
火山の精が空一杯に響く大声で言った。
「お前の勝ちだ! 闇を操る人間など千年生きても出逢えまい。面白いものを見た!」
火柱の精がすっくと立ち上がる。
「皆に伝えるといい。火を吹くのはお前に免じて、しばし待ってやると」
そして彼は火山に戻りながら声を張り上げる。
「いい物を見せてくれた礼に教えてやろう。お前と会った後あとに、冥界から使者が来た。このたびの件は穏便に済ませよと言ってきた。まぁ、無視してやろうかと思ったが……どのみち、お前の踊りにしてやられたわ」
火山の精は最後にこんな言葉をナディアに残した。
「お前は闇の眷属に魅入られているようだ。気をつけるといい。人の身で強すぎる力を持つ定めかもしれん」
火山の精が己の住処へ戻ったとき、地鳴りは鎮まった。
「……止まった」
「おい、火山の煙が止んでるぞ!」
「本当だ!」
人々は驚きに満ちた顔で辺りを見回す。そして彼らの目に喜びの光が射した。歓声が上がるかと思われた瞬間、鈴の音が人々の耳に鳴り響いた。
静かな余韻を残しながら鈴の音が消え、ナディアの舞が終わった。彼女は顔を上げ、大勢の者が見守る中、しずしずと舞台を降りた。
「火山の精霊の加護を受けました」
神官長が安堵の顔で頷き、神官たちと広場の民衆に向かって高らかに言い放った。
「みなの者、よく聞け! 火山の神は我らの祈りを聞き届けてくださった。これからは静かな日々がまた訪れるであろう」
わっと歓声が沸き、広場は一気に賑わった。ある者は抱き合い、ある者は涙ながらに叫んでいる。生け贄の男の子は妹と手を合わせ、顔を歪ませて泣いていた。
民衆に向けて笑みを繕ったまま、神官長がナディアに問う。
「そなたを信じていいんだな?」
ナディアが彼にしか聞こえないように囁いた。
「精霊は『しばし待つ』とのことです。これからはあなた方次第でしょう。それから、アマンダとのことは早めに決断なさったほうがよろしいかと思われます」
「決断とは?」
「あなたのもう一人の愛人がアマンダに気づき始めているそうです。火柱の精が教えてくれました」
「それはありがたい忠告だ」
顔をひきつらせ、神官長がナディアを見た。
「私はお前が欲しいと思うのだがな」
ナディアが鼻で笑う。
「生憎と、私が欲しいものは神官長殿ではございません。お忘れですか?」
「好きにしなさい」
ナディアは渋い顔をしている彼に一礼し、火柱のそばへ歩み寄った。セシリアが飛んで来て、労うように、左肩に止まる。
「吟遊詩人さん!」
生け贄の男の子が、妹を引き連れて駆けてきた。ナディアの腰にしがみき、何度も礼を言う。
「ありがとう! ありがとう!」
「言ったはずだ。君たちは生きるんだとね。さぁ、私と一緒においで。お前たちには別の街で里親を探してあげよう。大丈夫、神官長からお前たちを任せられているから」
そう声をかけると、ナディアが歩き出した。二人の子どもがおずおずとその後を追っていく。
だが、ふと男の子が神官長を振り返り、こう叫んだ。
「神官長様、僕たちをこの人に預けてくださって、ありがとうございます!」
それを聞いたナディアが穏やかに目を細める。神官長はぐっと言葉に詰まったまま、頷くしかなかった。
ナディアと子どもたちが本殿から出てくると、沸き立っていた広場が一斉に沈黙で包まれた。
鈴を鳴らしながら進むごとに、群衆が無言で道を開ける。
人々は恐れ、同時に魅入っていたのだ。凛とした横顔、なびく金の髪、そして肩の長い尾をした白い鳥。そのすべてが気高く、彼女は女神のごとく美しかった。
宿屋へ戻ると、馬車に子どもたちを乗せ、着替える時間を惜しんで街の外へ走り出した。うかうかしていると、お祭り騒ぎに巻き込まれるだろうとふんだのだ。
馬車を走らせながら、ナディアが傍にいた風の精を呼んだ。
「風の精よ、お願いがあるんだが」
ふくよかな女の姿をしたそよ風の精が微笑む。
「あら、あなたが精霊に話しかけるなんて珍しいのね」
「この子たちを一緒に受け入れてくれそうな里親はいないかな? 優しくて温かい人がいいんだが」
「そうね、心当たりはあるわ。あなたも私のお願いをきいてくれたら教えてあげる」
「お願いとは?」
「あなた、吟遊詩人でしょ? この火山でのお話を歌にするときは、私も登場させてね」
「いいだろう」
ふとナディアが笑う。二人の子どもたちは誰もいないほうへ向かってぶつぶつ呟くナディアを不思議そうに見ていた。
「なら、教えてあげるわ。私の名前はそよ風の精のソフィよ。ちゃんと名前も出して歌にしてよね」
「精霊に名前があるのか」
驚いたナディアに、ソフィが笑った。
「当たり前よ。この世に精霊がどれだけいると思ってるの? みんなの呼び名が『風の精』だったら、困るでしょ」
「なるほど」
ナディアが小さく笑った。今まで精霊の声を聞くだけにとどめていたが、こうして話してみると意外な発見もあるものだ。
「人間も精霊もなんだかんだいって、似ているのかもしれないな」
火山のある街を出ると、二ヶ月ほど三人での旅が続いた。
ナディアはその間、かつてのセシリアのように、二人の子どもたちに出来る限り生活に役立つことを教え込んだ。
そよ風の精のソフィに導かれ、彼女たちは泉のある村にたどり着いた。
子どもたちは、その村の染物屋を営む老夫婦に託された。跡継ぎがいない老夫婦はナディアの申し出を快く引き受け、温かく迎えてくれた。
「ナディア、ありがとう」
別れ際、涙ぐむ二人の子どもたちをナディアが抱擁した。
「強く自分を持ちなさい」
かつて愛しい人から言われた言葉を最後に、彼女はまた旅立った。
ソフィが微笑みながら言う。
「あの老夫婦なら大丈夫よ。本当に優しい人たちだから」
「ありがとう。世話になったね」
ナディアが微笑むと、ソフィはくるりと方向を変えて飛んで行った。
「また一人になっちゃった」
寂しく笑うナディアに、セシリアがすり寄る。
「ごめん。私にはお前がいたね」
ナディアがくすぐったそうに微笑む。だが、すぐにその笑みが消えた。
ナディアは自分の右手をしげしげと見やった。彼女は、踊っていたとき体から現れた闇について毎日考えを巡らせていた。黒く、暗く、深い闇だった。あんな物が何故、自分の体から出て来たのだろうか。だが、その答えはわからないままだ。
「あの夢の闇に似ていた……」
十五歳になった朝に見た夢を思い出す。幼い自分に会いに来た人影のまとう闇は、自分から漏れでた闇と同じように感じた。
ナディアは思わず身震いした。自分の知らないところで、何かが動き始めているような気がしてならない。
『闇の眷属に魅入られている』という精霊の言葉がずっと脳裏から離れないのだ。
「闇の眷属……」
ナディアの呟きが風に乗って消えた。
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