砂漠の踊り

 火山の街を出て以来、ナディアは時折うなされる夜を過ごした。夢の中にあの黒い人影が現れるようになったのだ。

 夢に出てくるのは、いつも何もない空間だった。仄暗い闇ばかりが広がる世界だ。その中央に自分がぽつんと立っていて、目の前にあの黒い人影がいるのだった。


「お前は何者だ? お前が私の魂に加護を授けた者か?」


 毎度、ナディアは同じ問いを投げかけた。だが、人影は決まって右手を差し伸べるだけだった。そして夢が終わる直前、必ずこう人影が囁くのだ。


「この手をとってくれるなら、お前の望む通りにしよう」


 ナディアがためらううちに、すっと夢が終わるのである。

 目覚めるたびに、ナディアは思わずため息が漏れる。

 自分の何がこんな夢を見せるのだろうか。あの火山での踊りで見た自らの闇に怯える自分を水鏡のように映しているのか。それとも精霊が言うように、この魂に刻まれた加護が解ける前兆なのだろうか。

 彼女は、夜明け前の空に向かって呟く。


「こんなときセシリアがいてくれたら心強いのに」


 やがて、彼女は東方の砂漠の街にたどり着いた。


「生気のない街だ」


 道端の草はしおれ、野良犬は歩く気力もなくうずくまっている。人々は誰もが陰気くさい顔をしていた。嫌な気分で通りを抜け、小さな宿屋へ馬車をつないだ。


「お客様、申し訳ございません。泊まるのは問題ないんですがね、入浴できないんですよ。なにせ水が不足しておりまして」


 宿屋の主人が入り口でそう告げる。


「干ばつか」


「へい。二日後には雨乞いの儀式もありますが、それでも降るかはわからないのです。これで儀式も三度目ですからね」


 また儀式か。ナディアはうんざりする。

 何故、人は神に祈るのだろう。神にすがって助けられたことなど、彼女にはただの一度もなかった。

 だが、宿屋の主人はこう言った。


「いつ雨が降るとわからないのは、怖いものですよ」


「……あぁ、そうか。そうかもしれないな」


 ナディアが素直に頷く。彼らはわからないから、怖いのだ。精霊の動きが見えない彼らには、自然の動きを推し測るのは難しいのかもしれない。

 だが、ナディアには雨雲の気配などみじんも感じることができず、二日後の雨は期待できそうにもなかった。


「それはどんな儀式だ?」


「砂漠の神殿の前で巫女が踊りを献上するのです。今回はほら、そこの革職人の娘ですよ」


 宿屋の主人が窓の外を指差す。遠目にだが、軒先に白い旗がくくりつけられている建物が見えた。


「あの旗が生け贄を出す家の証ですよ」


「生け贄?」


「踊りが終わったら、生きたまま砂漠に埋められるのです。それが儀式ですから」


 ナディアがため息を漏らす。人間の考えることは、どこでも同じらしい。


「あとで街を歩くといいですよ。でも黒い旗を掲げている家は、失敗した巫女を出した家ですから近寄らないほうがいいですよ」


「生け贄はどうやって決めるんだ?」


「簡単です。みんな生け贄なんか出したがらない。だから恨みっこなしのクジです」


 孤児だからという理由よりはマシだろうか。ナディアは無情な青空を窓から見上げる。そこには晴天の精が我が物顔で横たわっていた。


 荷物を置いて街を散策していると、黒い旗が掲げられた家の前にさしかかった。壁が壊され、ひどい言葉が落書きされていた。通りすがりの者が憎々しげに「役立たず!」と罵り、石を投げつける者すらいた。誰もが水がない危機感と狂気に満ちた顔をしている。


「雨が降らないのは、彼らのせいではないのに」


 ナディアの眉間にしわが寄る。家族を失った悲しみに加え、この仕打ちを受けている家族が不憫でならなかった。


「この街は早々に出よう」


 ナディアが肩のセシリアにそう話しかけた。街を出歩く気をそがれ、彼女は踵を返した。

 宿屋へ戻ると、ふと向かいの建物でなびく白い旗が目についた。

 店舗兼住宅のようで、一階の店先には革製品がずらりと並んでいた。だが、客はおろか店員も誰もいなかった。

 ナディアは商品を見てすぐに、この店の革職人の腕がいいことがわかった。特に、革をなめして飾りを彫り込んだ大袋が気に入った。楽器を入れるのによさそうだ。


「すまない。誰かいるか?」


 ナディアが声をかけると、しばらくして奥から一人の女が姿を現した。ふくよかな中年の女性で、瞼が腫れて真っ赤になっている。瞳がうるんでいるところを見ると、今も泣いていたのだろう。


「……あら、旅の人。すみません、お見苦しいところを」


 そう言って、彼女は大袋の勘定をする。代金を渡しながら、ナディアが言った。


「二日後の儀式では、あなたが?」


 女が顔を歪めて、吐き捨てるように言った。


「そうだったら、喜んで死にに行きますよ。生け贄になるのは、私の一人娘です」


 そう言うや否や、やつれた頬を涙が濡らす。


「おい、お前。お客様の前でなんだい」


 背後から一人の男が出て来た。彼が革職人らしく、薄汚れた仕事着で身を包んでいる。ヒゲをたくわえた、体格のいい男だった。


「旅の人、すみません。こいつは娘が生け贄に決まってから泣いてばかりでね。旅の人には関係ないっていうのに、辛気くさいところをお見せしました」


 そう言う革職人の顔も、ひどくやつれていた。ナディアが思わず「気の毒に」と言うと、彼は首を横に振った。


「クジで決まったことです。誰かが雨を呼ばなければ、どのみち死んでしまうんだから仕方ない」


 すると、傍らで妻が喚くように泣き叫ぶ。


「だからって! だからってなんでうちの娘が!」


「よさないか!」


 叱咤する夫も、涙を堪えている。


「旅の人、ここから早く出たほうがいい。失敗すればこの家の人間と関わった者まで責められるでしょうから」


「そうらしいな」


 ナディアが先ほど黒い旗の家で見た光景を思い出し、顔をひきつらせた。


「邪魔したな」


 ナディアがぽつりと呟き、立ち去る。宿屋の扉を開けたとき、店先から「お母さん! お父さん!」という若い声がした。振り返ると、身を寄せ合って泣いている夫婦を慰める少女のものだった。

 まだ十五、六ほどの年で、白い肌と優しそうな目をした少女だ。健気に両親を慰めているものの、彼女もまた泣いていた。

 ナディアはやりきれぬ顔で、宿屋の中に滑り込む。

 夕暮れに染まる部屋で、ナディアは寝床に仰向けになって考え込んでいた。あの革職人たちの姿が目に焼き付いて離れない。


「家族か……」


 彼女は胸の奥に鈍い痛みがうずくのを感じていた。もし、両親が自分を愛してくれたなら、違う人生があっただろう。いや、確かに愛してくれた時期はあったのだ。だが、この力がそれを遠ざけた。

 施設に送られた日、両親は馬車に乗り込むナディアを、せいせいした顔で窓から見下ろしていた。別れを惜しんで泣く家族の姿とはほど遠い。

 愛されることは奇跡だ。雨を降らせるよりも遥かに。愛しても愛されないことのなんと多いことか。たとえ愛されても、いずれは去って行くのだ。かつてのセシリアのように。

 ナディアは胎児のように横を向き、丸くなった。その美しい鼻筋を涙が伝う。

 温もりが欲しかった。愛し、愛され、ずっと傍にいてくれる家族が欲しいと、心から願った。

 だが、どこに行けば見つかるのだろう。誰を愛せばいいのだろう。その問いはいつ雨が降るかという問いよりもはるかに難しく感じた。

 ナディアは絶望の中にいた。生け贄の少女とはまた違う、深い絶望の中で、生きていながら死んでいるようだった。


 翌朝、ナディアは街から砂漠へ向かった。

 そう歩かないうちに、横たわる老いた砂漠の精を見つけた。のっぺりとした顔と丸い体つきをした男の姿だった。


「砂漠の精よ。雨雲は見えるかい?」


 ナディアが問いかけると、しゃがれた声が返ってきた。


「見えないね。あいつらは南の国で洪水を起こすことに熱中してるんだ」


 そして彼のため息とともに小さな砂嵐がナディアを襲った。


「こっちだって迷惑だよ。街の人間には私のせいだと陰口を叩かれるし、腹の中に人間を埋めていく。あの悲鳴を体の中に響かせる身にもなっておくれ」


 思わず顔を歪ませて、ナディアが頷く。


「雨雲を呼ぶにはどうしたらいいだろう?」


「風の精に運んでもらうしかないね。けれど、雨雲は重いから、力のある精じゃないと無理だな」


「力自慢の風の精に心当たりはあるか?」


 その言葉を聞いた砂漠の精が、ちらりとナディアを見た。


「砂漠を吹き抜ける風の中に、ひときわ体の大きい奴がいる。だが、風の精というのは、何にでも見返りを求める質だから、代償が必要になるだろう。それでもいいかね?」


「まぁ、私に払えるものなら構わない」


「……お前はよそ者のくせに、何故そこまでする? 雨が降らなくても関係ないだろうに」


 ナディアが自嘲するように笑う。


「そうだな。しかし、自分が思うより、私は人間が嫌いではないらしい」


 ナディアの胸には、あの革職人たちの泣き声が木霊したままだった。自分にない愛情に包まれた者が羨ましかった。もし、自分があの革職人の娘だったら、あの愛情を決して手放したくないだろう。

 彼女自身、無意識だったが、確かにナディアはあの少女に自分を重ね、そして与えられた愛情を守りたかった。奇跡はそこにあると、ナディアは伝えたかったのだ。


「では呼ぼう。あいつは欲張りだから、儂もあまり呼びたくないんだがね」


 砂漠の精が大きな息を吹き出した。その途端、一陣の砂嵐が舞い、砂漠の向こうへ飛んで行く。

 じっと待っていると、すぐに大きな風が巻き起こり、目の前に隆々とした肉付きの風の精が現れた。年若く、利発そうな顔をした男の姿だ。


「砂漠の精よ、お前が呼ぶとは珍しい」


「業突く張りの風め。お前を呼んだのは、この人間だ」


 砂漠の精の糸のような目がナディアを指し示した。


「おう、お前は噂のナディアか」


 頬の肉を盛り上げて、風の精が嬉しそうに笑う。


「ソフィから火山でのことは聞いているぞ」


「それなら話が早い」


 ナディアが苦笑いする。


「ソフィのように私を助けてくれるかい? 雨雲を明日までに呼んで来て欲しいんだ」


「ふむ、明日までか」


 風の精が白い歯を見せた。


「お易い御用……と言いたいところだが、何をくれる?」


「お前の望みは何だ? ソフィのときは『火山の儀式の歌に自分の名を乗せて歌え』と言ったがね」


 風の精が笑うと、小さなつむじ風が巻き起こった。


「目立ちたがりのソフィらしい。だが、私は別の物をもらいたい」


 彼は物欲しげに、ナディアの金色の髪を見つめた。


「その髪を一房もらえるか?」


「髪? なんだってこんな物を?」


 ナディアが目を丸くする。彼女は街の少女たちが髪を愛おしむような感覚を持ち合わせていなかった。


「お前は風に縁のある定めだからな。お前の髪はいずれ自慢になる」


 ナディアの目が丸くなる。


「風に縁がある? どういうことだ? 私は闇に縁があるのではないのか?」


 すると、砂漠の精が口を挟んだ。


「おや、お前は知らないんだね。風の精や、これはまだ秘密にしておいたほうが面白いぞ」


 風の精が声を上げて笑った。


「そのようだな。お前は気づいていないのか。風の精がやたらお前に優しいと」


「言われてみれば……」


 思い返してみると、確かに手助けしてくれるのは風の精霊が多かった。火山の街でのソフィもそうだが、セシリアと出逢ったばかりの頃、占いを助けてくれたのも風の精だった。施設を脱走した夜、『見つからないように街道ではなく森を走れ』と教えてくれたのは夜風の精だ。


「いずれはわかることだ。いくら考えたところで、今のお前には見当もつかないだろう」


 風の精が「さぁ」と催促するように右手を差し出した。


「わかったよ」


 彼女は小刀を取り出し、迷うことなく自分の金髪を一房切った。


「頼んだぞ。明日の儀式までに連れて来ておくれ」


「代償の分は働くさ。この金髪はこれから有名になるはずだ」


 風の精が金髪を受け取り、あっという間に駆けて行った。もし人間が見れば、金髪が風に乗って飛んで行っただけに見えたかもしれないが。

 祈るような気持ちのナディアに、砂漠の精がそっと話しかけた。


「ナディア。お前は己の中にある闇には気づいているか?」


「あぁ。だが、これが何を意味するのかわからない」


 砂漠の精がにやけながら、ずぶずぶと砂漠の中に埋もれていく。


「もう少しだよ。もう少しでわかるだろう。そのときは、我ら精霊にとっても記念すべき日になる」


「何か知っているんだな? 教えてくれ!」


 ナディアが詰め寄るが、彼はもう頭半分を残すのみだった。砂の中からくぐもった声がした。


「お前の望むものは闇の中にあるよ」


 そして、精霊は砂漠の中に消えていった。

 自分の知らないところで、何かが動き始めているのだ。彼女は唇を一文字に結んで、立ち尽くしていた。


 儀式の朝、ナディアは革職人の店に向かった。

 店の奥では少女が巫女の衣装を身にまとい、あとは迎えが来るのを待つばかりというところだった。

 出迎えた主人に、こう切り出す。


「私が代わりに巫女を勤めよう」


「旅の人、あなたは自分が何を言っているのかわかっているのか?」


 革職人の目が驚きに見開かれたが、ナディアが淡々と言い切った。


「私は火山でも地鳴りを止める儀式を成功させた。今度も成功するよ」


「でも、それでは、あなたが死んでしまう」


 傍らにいた少女が怯えるようにナディアの手をとった。


「この街に住む者でもないのに、何故あなたはそんなことを?」


 ナディアが手を重ねて微笑んだ。


「お前が両親から注がれている愛情こそ、天から注がれる雨よりも奇跡なのだと知ってほしいのだよ」


 それを聞いた革職人の妻が泣き伏した。


「お前、よさないか。まったく」


 主人が妻の肩に手をやる。だが、彼の目もまた潤んでいた。


「さぁ、時間がない。服を」


 ナディアがそう促し、少女の衣装に着替える。自分の服は馬車に乗せてもらうよう、少女に頼んだ。

 迎えの者が現れたとき、ナディアは頭から薄い布を被っていた。


「さぁ、時間だ」


 促されるまま、用意された神輿に乗る。

 不安そうに立ちつくす主人に、彼女は布の奥から笑った。


「大丈夫。雨は降る」


 神輿に揺られながら、ナディアがもう一度呟く。


「私はあの風の精を信じる。そう、必ず雨は降る」


 そのとき、彼女の指先から微かな闇が漏れ、すぐに消えた。ナディアはそれに気づかぬまま、目を閉じたのだった。


 砂漠の街にある神殿は小規模なものだった。民衆の立ち入りは禁じられ、火山の街でのような騒々しさはない。

 岩を切り出して造った本殿には、砂漠の神の像が立っている。それは掘りの深いヒゲをたくわえた若い男の姿をしており、あの砂漠の精ののっぺりとした顔とはほど遠かった。

 ナディアは本殿の中央に立たされた。そばにいた神官が低い声で言う。


「娘、お前にはこれから砂漠の神を讃えてもらう。踊りでも歌でもなんでもいい。なにも出来なければ祈るだけでよい。形だけのことだからな」


「……それでは、踊ります」


 ナディアの返事に、神官長らしき壮年の男が頷いて「始めよ」と言い放った。

 本殿の脇に並んだ太鼓が一斉に轟き出す。腹に響く重低音を感じながら、ナディアが弾むような踊りを始めた。雨粒のように床を叩き、祈りをこめて手を天に伸ばした。

 ナディアの指先から、髪の先から、そしてつま先からまた闇が溢れ出す。だが、彼女は火山の街のときのようには驚かなかった。『またか』という気持ちはちらついたが、今の彼女にはもっと大事なことがあった。

 踊りの中、人知れず呟く。


「誰かがあの家族のように私を愛してくれるなら。私が誰かを愛せる定めなら、私はここで死にはしないだろう」


「私は会いたいのだ。温もりに。温もりを与えてくれる誰かに。雨が降るのを待つように、焦がれているのだ」


 その囁きは太鼓の音にかき消され、誰も聞くことはなかった。

 踊りが終わると同時に、ナディアの闇はふっと消え失せた。

 神官長が砂漠の神の像に祈りを捧げると、穴を掘る道具がくくりつけられた御輿が運ばれてきた。人身御供を埋める穴を掘るのだろう。ナディアが布の奥で顔を歪ませた。


「それに乗って、砂漠へ赴くがいい。お前に神の情けが降るように」


 ナディアが「はい」と小さく返事し、神輿に乗り込む。


「これ以上の失敗は許されん。砂漠の神への敬意が失墜してしまう」


 神官長が切羽詰まった顔で呟くのが聞こえた。二人の男が神輿を持ち上げ、神殿の奥の扉が開かれる。その先にはどこまでも広がる砂漠が見えた。


 砂漠の中を進み続ける間も、雨雲の気配はなかった。少なくとも、神輿を担ぐ男たちにはそう思えた。彼らは口々に愚痴を言い始める。


「あぁ、こりゃ今回も失敗だな」


「まったくだ。これ以上は勘弁願いたいな。生け贄の叫び声が耳に残って眠れないんだぜ。嫌な仕事だよ、まったく」


 しばらくして、神輿が降ろされた。


「出ろ」


 男の声に、ナディアが外へ出る。布越しでも太陽の光が眩しかった。


「今から穴を掘るからな。その間、黙って見てろ」


 男がため息まじりに神輿の上にある道具を取り出そうとしたときだった。


「その必要はない」


 ナディアが青空を見上げ、ぽつりと言った。


「雨雲の足音がするから」


「はぁ? 恐怖のあまりおかしくなったんじゃないか? 儀式はお前を生き埋めにしないと終わらないんだ」


「私は生き埋めになどならないよ。お前だってこの暑い中、穴など掘りたくないだろう」


「お前、革職人の娘じゃないな?」


 男が頭に被っている布をつかみ取ろうと迫って来た。ナディアは身を翻し、男の腕を掴むとそのまま腹部に膝蹴りをする。男が呻いた瞬間、彼女は脳天を両手の拳でしたたか打った。砂漠の上に、男が倒れ込むと、もう一人の男が後ずさりした。


「お前は何者だ?」


 そう言った瞬間だった。大きな砂嵐が舞い起こり、砂漠の精の声が響き渡った。


「ナディア、雨雲が来るぞ!」


 その声にナディアがほっと胸を撫で下ろす。


「……私は雨雲を呼んだ者だ」


 男が口をぽかんと開ける。風は次第に強くなり、遠くから雷鳴が聞こえた。


「あ、雨雲だ!」


 振り返った男が叫ぶと同時に、あの風の精の声が木霊した。


「手間取ったよ。こんなことなら金髪だけじゃなく、その指ももらうべきだった」


「指はやれんな。楽器が弾けなくなる」


 苦笑しながら、ナディアが布を剥いで顔を露にする。男が息をのむのが聞こえた。


「お前は街の人間じゃないな?」


 どす黒い雨雲が風の精に押され、砂漠と街の上を覆い尽くした。雨の雫が砂漠に染みを作り、徐々に砂の色を変えていく。

 ナディアは男に向かって、静かな笑みを浮かべた。


「旅の者だよ。あの家族の姿に焦がれる、哀れな旅人だ」


 ずぶ濡れになりながら、男が呟いた。


「雨が降った……」


 だが、ハッと我にかえり、ナディアを睨めつける。


「駄目だ! お前を生き埋めにしないと、儀式を終わらせなかった罪で俺たちが罰せられる! お前をやらないと、俺たちが街の人間から責められるんだ」


「雨が降ってもか?」


「……雨が降ったからだ。儀式の賜物でないとわかれば、神殿の権威が地に堕ちる」


 そう言って、男は震える手で腰の短剣を抜いた。雨で光る切っ先を見つめ、「身勝手なものだ」と、ナディアは嫌悪感で顔を歪ませた。


「街へ戻って伝えよ。あの革職人の家族に手出しをすれば、もっと街は乾涸びる。少なくとも、砂漠の精霊はすべてを見ているからね」


「戯れ言を! あんな家族がどうなったって知るものか!」


 その瞬間、ナディアの怒りは、どす黒い闇となって体から溢れ出した。憎しみにも似た響きをもって、こう唱えるように言う。


「お前は誰にも愛されないだろう。お前のような者に、愛などいらぬ。私と同じように、愛されぬ人生を生きるがよい」


 砂漠と風の精霊たちが息を呑んで、ナディアの闇を見守っていたときだった。

 不意に、背後から若い男の声がした。


「いけないね、ナディア。そんなに簡単に呪いの言霊を口にしては」


 ナディアの心臓が爆ぜる。若い男の声がなおもナディアの耳元で囁かれるように響き、背筋が凍りつく。


「そう、でもお前は愛を望んでいる」


 恐る恐る振り返ると、そこにはいつの間にか黒い人影が立っていた。

 あの夢に出て来た闇の人影が目の前にいる。だが今度は夢ではなかった。

 言葉を失っているナディアをよそに、人影は短剣を手に震えている男に歩み寄った。

 人影が脂汗でまみれた額に手をかざすと、指先から水面を渡る蛇のように闇が伸びて、男に絡みつきく。彼は短い声を漏らして倒れ込んだ。


「少し寝てもらったよ。目覚めたときには、君は美しい雨の女神の使いだったと思い込んでいるだろう」


 人影の声は、若い男のものだった。


「お前は記憶を操るのか?」


 ナディアが恐る恐る口にした。


「深い闇で夢を見せただけ。幼かったお前にもね」


「お前は、やはりあの夢に出た人影か」


「夢じゃないよ。実際に幼いお前に会っている。ただ、お前は闇が見せた夢だと思い込んで、そのまま忘れてしまっただけ」


「私に何の用だ?」


 人影の男が笑う。


「お前が呼んだんだよ。やっと、俺を呼んでくれた」


 その声には歓喜が滲んでいた。だが、すぐに肩をすくめてため息を漏らす。


「まぁ、まだ姿は見えてないみたいだけどね。心が開くには時間がいるな」


 そして、ふっと乾いた笑いを漏らした。


「人の心は難しいな」


「なんのことだ? お前の望みは何だ?」


 ナディアが拳を握りしめる。足がすくんでどうしようもなかった。


「俺の望みはお前に決まってる。お前の望みは何だ?」


「……私は……」


 ナディアが言い淀んでいると、人影が闇の中でにやりと唇をつり上げた気がした。


「知ってるよ。お前は自分の力に怯えている。それに……この雨が降るように、愛が降る日を待ち望んでいる。そして、それがいつになるのかわからなくて怖いと震えているんだ」


「わからないから怖いだと? 宿屋の主人と同じようなことを言う」


 ナディアは自嘲した。所詮は自分も人間で、街の者と同じだということだろう。だが、闇の人影は笑わなかった。その代わり、切望するような声で語りかけてくる。


「俺は君に望まれてきたんだ。なのに、この姿を見てはくれない。どうすれば心を開いてくれる?」


「私はお前など望んだ覚えはない」


「すぐにわかるよ」


 そう言って、黒い人影が音もなく砂漠の中に消えて行く。


「まぁ、いいや。他の方法を考えるよ。ようやく、お前が俺を呼んでくれたんだからね」


「待て!」


 ナディアが引き留めようとすると、人影が右手を出して制した。


「ナディア、その力がなんなのかは俺に心を開けば教えてやるよ」


 すっと闇が消え、ナディアと倒れている男たちだけが残された。いつの間にか砂漠と風の精霊は姿を消していた。

 彼女はため息を漏らしながら、天上の雨雲を見上げた。顔の上で雨粒が彼女の体温を奪っていった。


 ナディアが砂漠から戻ると、街は雨の奇跡にざわめいていた。人ごみを縫うように宿屋へ戻り、自分の服が少女の手によって馬車に戻されているのを確認する。

 馬の上にとまってナディアを見ているセシリアに、小さく声をかけた。


「セシリア、行くよ」


 ナディアが馬に鞭を当てようとしたときだった。


「あぁ、旅の人! ご無事でしたか!」


 革職人の一家が雨の中を駆け寄って来た。その妻と少女がナディアを見上げ、大粒の涙を流している。


「ありがとうございました! ご恩は一生忘れません!」


 ナディアは馬車の上から微笑み、少女の頬に貼りついた髪を整えてやった。


「お前がうらやましいよ」


「あなたは一体、どういった御方なのでしょう。せめてお名前を!」


 少女が声を張り上げる。だが、ナディアは答えずに馬に鞭を打った。

 答えなかったというより、答えられなかったのだ。今の彼女は、自分が何者かわからなくなっていた。

 闇を抱え、闇の人影に望まれ、人には見えぬ存在と繋がっている自分は本当に人間だろうか。そんな疑惑が拭いきれない。だが、心のどこかで『私は精霊ではない』と言い張っている自分もいた。

 人間になりきれず、精霊でもない。そんな心もとなさが、彼女に恐怖を植え付ける。冷たい雨が心まで凍えさせていた。


 その夜、馬車の中で膝を抱えてうずくまり、ぽつりと呟く。


「これが寂しいってことなのね」


 『孤独』とは何かを知り、嗚咽を漏らして泣くナディアがいた。

 泣き疲れて眠ったナディアの夢に、またあの人影が訪れた。

 今度も闇の中にいたが、以前とは少し様子が違っていた。蛍のような無数の小さな光が足元に広がり、ナディアと黒い人影の周りを取り囲んでいた。綿毛のように辺りを舞う光もある。


「お前は誰だ?」


 いつもと同じ質問をするナディアに、人影は黙って手を差し伸べた。今までのナディアは、この問いを繰り返してばかりだった。だが、この夜のナディアはこう問いただした。


「お前の名は何だ?」


「俺の名?」


 人影が弾かれたように手を引き戻す。


「俺の名を知りたいのか? 少しは興味が出てきたかな」


「あぁ。その顔が見たい。お前を知りたい。私が知らないことを知るお前を」


 その瞬間だった。人影の闇が薄れ、おぼろげに男の姿形が浮かび上がった。だが、彼がどんな顔をしているかまでははっきりとは見えないままだった。


「そうか、俺に興味が出てきたか」


 彼は音もなく近寄って来る。後ずさりしようとしたが、足がすくんで動かなかった。目の前に迫る口許に目を凝らすと、形のいい唇が微かに見えた。その唇の色に生気を感じ、ナディアは少しほっとした。どうやら死に神の類ではないらしい。

 彼の唇が動いて、何かを口走った。だが、声が漏れることはなかった。


「何を言った?」


「いずれわかる」


 彼はそう言うと、ナディアの額に軽い口づけをした。思わずのけぞったナディアに、黒い人影が両手を広げて笑う。


「今はこれで我慢してやるよ」


 人影がそう言い残して消えたとき、ナディアは目覚めた。自分の心臓が跳ねる音が聞こえそうだ。


「何故だろう?」


 彼女が驚いたのは、他ならぬ自分自身に対してだった。あの唇が見えた瞬間から、いつも感じる畏怖が消えていた。それどころか懐かしささえ感じていたのである。

 今までは目覚めるたびに、背筋が凍るような思いだった。だが、今の彼女はまるで陸地を見つけた船上の船乗りのように昂揚していたのだった。

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