第二章

水の帝王

 ジゼルが地の女帝に会ってから、数年の月日が流れた。

 あどけなさはまだ残っているものの、彼女の手足はだいぶすらっと伸びてきている。


「ジゼル、いるかい?」


 早朝、髪に櫛を通していると、扉の向こうから兄の声がした。


「おはよう、兄上。今日は随分早いのね。また精霊界に行くの?」


「うん。伴侶の気配が近くなってきたからね。やっぱり精霊界にいるようだよ」


 闇の王は生まれつき、自分の伴侶となる者がどこにいるか気配でわかるらしい。ジゼルには、それがどんな感覚なのか不思議でたまらないが。


「じゃあ、もうすぐ会えるかしら? 私に義理の姉上ができるのね」


 からかうように笑うと、彼はむすっと唇を尖らせた。


「保障はないな。その精霊が愛してくれるとは限らないんだから。それにこちらだって愛せるかはわからないよ」


 ふと、エイモスとシルヴィアを思い出し、ジゼルは目を細める。想いが通じ合っても、心を重ねていても、時を重ねられずに別れた二人もいる。兄とて、どんな心のやりとりをするのかわからない。


「……そうね」


「あれ、なんだかわかったような顔をしているな。恋でもしたか?」


 にやにやする兄に、ジゼルの顔が真っ赤になった。


「してないわよ」


「ふぅん。でも、お前には会いたい者がいるだろうに」


 鉄紺色の魂のことだろう。だが、それは決して恋というものではない。否定しようとしたジゼルを制するように、彼が話題を変える。


「そうそう、それで呼びに来たんだった」


「なに?」


「イグナス様が来ているよ。お前の愛しい魂のおじい様だ」


「イグナス様が?」


 顔を明るくし、ジゼルが扉に向かって駆け出した。


「教えてくれてありがとう! すぐに会って来る」


「相変わらず、懐いているんだな。父上と玉座の間にいるよ」


 苦笑する兄に、彼女は顔を赤くして、こう言い捨てながら扉の向こうに消えた。


「愛しいのは魂じゃなくて、イグナス様よ!」


 誰もいなくなった部屋で、ジャーヴィスが小さく笑う。


「本当にそうかな?」


 彼は知っていた。妹が辛いとき、必ずあの鉄紺色の魂を思い出すことを。そうするときの横顔を見ていると、自分が伴侶を想っているときの顔はきっと同じなのだろうと思うのだった。


 ジゼルが玉座の間に駆け込むと、すらっとした立ち姿の男がパーシヴァルと話していた。

 満面の笑みのジゼルに気づき、男がふっと目を細める。


「ジゼル、久しぶりだね」


 低い声でそう笑う男こそ、火の王イグナスだった。

 精悍な顔に、筋の通った鼻をしていて、その目は炎を思わせる緋色に輝いている。瞳と同じ色をした髪の隙間から、片耳の耳飾りが光って見えた。

 飛びつこうとしたが、慌てて思いとどまる。きょとんとした火の王の前で、彼女はすっと冥界流に頭を垂れた。


「火の王イグナス様、お久しぶりでございます。ジゼルは伝令の女王となりました」


 火の王は傍らにいたパーシヴァルと顔を見合わせ、大口を開けて笑う。


「かしこまらなくてもいいよ、ジゼル。さぁ、おいで」


「イグナス様!」


 ジゼルが待ってましたとばかりに彼の胸に飛び込み、懐かしい匂いを胸いっぱい吸い込んだ。


「元気そうだね」


「えぇ。イグナス様も。あら、髭を伸ばしたのね」


 以前会ったときにはなかった顎髭に目を丸くすると、彼は低く笑う。


「この髭に願掛けしているんだよ」


「どんな?」


「ジゼルが立派な伝令の女王になるまで、この髭を伸ばしておくのさ」


「じゃあ、もう剃らなきゃならないわ」


 二人が笑い合っていると、パーシヴァルが眉尻を下げる。


「イグナス様にいつまでもしがみついているんじゃないよ。火の女帝の使い鳥も早く帰りたげにしているんだし」


 パーシヴァルの呆れ声にふと傍らを見ると、炎で出来た鳥がじっと立っているのが見えた。羽も顔も全身が炎なのに、何物も焦がさずに揺らいでいる。鶴のように長い足が時々そわそわと動いていた。セシリアと同類のこの鳥は、炎の女帝の僕であり、イグナスが冥界に来るときの供をするのだった。


「今日は炎の女帝のお使い?」


 そう訊ねると、彼が静かに微笑んだ。


「女帝にある物を作るよう申し渡されてね。材料を貰い受けにきたんだよ」


 そう話し、彼は懐から革袋を取り出した。中をのぞき込むと、ぼんやりと光る、うずらの卵ほどの魂が入っていた。


「物憑きの精霊の魂ね! 初めて見るわ。なんて綺麗なの」


 惚けたように呟くジゼルに、イグナスが頷く。


「あぁ。齢百年をこえるか、強い想いをこめられた物が精霊を宿すときに生まれる魂だ」


「精霊を宿すほどの物を作る人間って面白いのね」


 感心するジゼルに、イグナスが目を細める。


「だから私はジゼルが大好きだよ」


 イグナスがふっと笑みを引っ込めて膝をつく。その目に真剣な光が差した。


「ジゼル、それでお願いがあるんだよ」


「どうしたの?」


「私の代わりに海の女王のところへ行ってはくれないか?」


「ドリス様のところへ?」


 海の女王ドリスは、あらゆる精霊の中でも特に美しいと謳われる女王であり、水の帝王の妻でもあった。


「材料の一つを貰い受けて来て欲しいんだよ。海の底で月光を千年浴びた涙だ」


「それ、どんなもの?」


 きょとんとするジゼルに、イグナスの眉が下がる。


「ドリスにきけばわかるだろう」


「わかったわ。すぐに出発します」


 イグナスが『ドリス』という名を口にしたとき、その目に微かな影が帯びた。だが、ジゼルはそれに気づかず、満面の笑みを浮かべてセシリアを呼びに走り去ったのだった。


 神隠しの闇に入ると、セシリアが首を傾げた。


「イグナス様が言っている涙というのは一体、何のことだろうね?」


「さぁね。セシリアも知らないの?」


「うむ。まぁ、二人だけにしかわからない呼び名なのかもしれないね」


 ふんと鼻を鳴らし、セシリアが小さく呟いた。


「……もっとも、それを名付けたのは、昔のことだろうがね」


「何のこと?」


 きょとんとするジゼルに、セシリアが小さく笑った。


「なんでもないさ。お前が知ったら寝込むかもしれないからね。ほら、もう着くよ」


 前方に闇を切り裂く光が現れ、精霊界の風が頬をかすめた。

 ドリスがいる水の帝王の神殿はどんなところだろうと、ジゼルの小さな胸が期待と興奮で膨らみ、その足取りを早めた。


「ジゼル、飛び出すんじゃないよ!」


 光の手前でセシリアの鋭い声が飛ぶ。

 驚き身を縮めるジゼルは、すぐに合点がいった。

 光の向こうには地がなかった。代わりに遥か下に広がるのは大海原だ。次元の狭間の出口は海の上の空中に浮かんでいたのだった。


「うわぁ、大きい! これは何?」


 ジゼルが目を輝かせ、彼方まで続く海面を見渡す。水平線をなぞるように視線を走らせていると、嗅ぎ慣れない塩気のある匂いが鼻をついた。潮風の湿った重い空気がジゼルの髪をなびかせる。


「これが海というものさ」


 次元の狭間の縁で立ち尽くすジゼルの肩で、セシリアが得意げに言った。


「なんて大きい水溜り!」


 感嘆の声を上げてジゼルがはしゃぐ。だが、すぐにきょろきょろと辺りを見回した。


「ねぇ、セシリア。神殿はどこ?」


「水の眷属ではない者が神殿に入るには、傀儡の案内がいるのさ」


 そして、セシリアは三つの目を閉じ、こう唱えるように言った。


「我が同胞、水の帝王を主に持つ鳥よ。我らを統べる王にして、我らを作りし者の血族に応えたまえ」


 そう口にした途端、セシリアの体が一瞬だけ淡く光り、すぐに元に戻る。


「さぁ、少し待つといい」


 セシリアがいつもの声色に戻って赤い目を開けた。


「今のは?」


「すぐにわかるさ。ほら、おいでなすった」


 ジゼルが思わずあんぐりと口を開ける。遥か下の海面がまるで羽毛布団を押したようにへこんだかと思うと、今度は一気に水柱が上がったのである。


「セシリア!」


 思わず大声を上げるジゼルとは裏腹に、肩の白い鳥は涼しい顔をしていた。


「なぁに、慌てることはないよ」


 水柱はジゼルたちの傍まで昇ってくると、その先が丸くなり、水蛇の顔を形作った。


「我が同胞よ、そして我を統べる者よ。水の帝王のもとへご案内つかまつる」


 それは水蛇の口からではなく、頭に直接響く声だった。


「これは水の帝王の使い鳥の声だ。さぁ、行くよ」


「行くって、どこに?」


「その水蛇の頭の上さ」


「えぇ? これに乗るの?」


 素っ頓狂な声を上げるジゼルの足元に、水蛇が頭を垂れる。

 恐る恐るジゼルが蛇の頭に足を乗せると、まるで芝生に立ったような感触が足の裏を伝わった。


「さて、では頼むよ」


 セシリアが言うと、水蛇は水で出来た細い舌を出す。その途端、真下の海原がざわめき、みるみるうちに巨大な渦が巻き起こった。渦はもの凄い早さで広がり、そしてその中央で海底がぽっかりと顔を出したのだ。


「あれは?」


 ジゼルが目をやったのは、露になった海底にある丸く巨大な石盤だった。


「あれが水の帝王の神殿へ続く入り口だ」


 セシリアがそう言うやいなや、石盤が二つに割れて地下へ続く穴が姿を現した。

 水蛇がゆっくりと頭からその穴へ向かって行く。ジゼルたちが穴の中に入ると、石盤が蓋を閉じ、その向こうで轟々とした水音が響いたのだった。


「海が元に戻ったんだよ」


 真っ暗な道の中で、ジゼルは呆気にとられながら、セシリアの声を聞いていた。

 水蛇はゆらりゆらりとうねりながら穴を下る。湿った穴の中で、セシリアの鼻歌が大きく反響していた。

 穴の底にたどり着くと、松明で照らされた巨大な扉が現れた。

 水蛇が頭を地につけた。穴の底に降り立つと、ピシャンと水の音が木霊する。

 そのときだった。水蛇の輪郭がぼやけて、その体が白い霧の集まりと化した。霧はみるみるうちに小さくまとまり、鳥の形を作る。現れたのは、霧で出来た体と水かきをもつ水の帝王の使い鳥だった。

 使い鳥が長いくちばしを動かす。


「入られよ」


 地響きと共に、巨大な扉が開かれた。その向こうに現れたのは、壁画で彩られた廊下だった。天井は高く、壁画に描かれた生物すべての目に水晶がはめこまれていた。その水晶の中に小さな灯りが閉じ込められ、辺りを照らしている。


「おそらく、この水晶はイグナス様の特製品だろう。お若い頃はドリス様に色々と捧げていたようだしね」


 その言葉には妙な含みがあった。


「セシリア、ドリス様とイグナス様って、どんな繋がりがあるの?」


「それは私の口からは言えないがね。ただ、仲睦まじいお二人だったよ」


「ふぅん」


 廊下の行き着く先にはまた扉があった。ジゼルは思わず息を呑む。その扉には丸い蒼玉と真珠がびっしりとはめ込まれ、まるで海そのものだったからである。

 扉が自然と開き、中から眩しい光がジゼルたちを照らした。


「わぁ!」


 ジゼルが思わず感嘆の声を漏らす。

 中は蒼い絨毯が敷き詰められ、幾つもの大理石の柱が天井を支えていた。その奥に目映いほどの蒼玉の玉座が二つある。

 ジゼルは片方の玉座に一人の男が腰を下ろしているのを見つけ、思わず息を呑んだ。

 彼はゆったりと頬杖をつき、口の端に不敵な笑みを浮かべている。美しい顔立ちと白銀の髪、そして蒼い瞳。この男こそ、すべての水にかかわる精霊を束ねる男、水の帝王ディランだった。


「ようこそ、伝令の女王」


 ディランの声は、まるで歌うように滑らかだった。


「お初にお目にかかります。伝令の女王ジゼルでございます」


 ディランがゆっくりと歩み寄った。彼はそっと跪き、彼女の小さな手を取った。その拍子にふわりと鼻をくすぐった香りに、冥界では香をたくのは女性ばかりなのにと驚く。

 じっと自分を見つめる瞳に見惚れていると、ディランが軽く手の甲に口づけをした。


「まぁ!」


 思わず驚き、耳まで真っ赤になる。


「これが私流の挨拶でね」


 そう悪びれもせず笑う帝王は、まじまじとジゼルの顔を見つめた。


「あと十年も経てば素敵な淑女となろう」


 まるで品定めされたようだが、その目に嫌らしさが微塵もない。こういう性分なのだろうと呆れていると、ディランが立ち上がり蒼い目に小さな光を走らせた。


「して、何用かな?」


「海の女王ドリス様に伝令を」


 そう短く答えると、帝王が不満げに首を傾げた。


「おや、つまらぬ。余ではないのか。して、我が妻にどのような伝令を?」


「私の伝令はいかなる理由があろうとも伝令を与える者以外に話すわけにはまいりません」


 眉間に皺を寄せるジゼルに、ディランが小さく吹き出した。


「訂正しよう。そなたは既に立派な淑女だ。使命に燃える心がけ、たいしたものだな」


 そう笑うと、彼は広間の左に続く廊下を目で指し示した。


「あの奥へ行くとよかろう。この先で妻は休んでいる」


 そう言って、小さく口の中で呟く。


「余がいるときはここには来ないのだ」


 ジゼルは思わず二つの玉座を見やる。女王の玉座は底冷えのするような蒼い光を放ったまま、鈍く光っているのだった。


「それでは、失礼いたします」


 ジゼルが小さく頭を垂れ、示された廊下へ向かおうとしたときだった。


「あぁ、伝令の女王よ」


 振り返ると、帝王が哀しげに微笑んでいる。


「戻ったら妻の様子を聞かせておくれ」


「……はい」


 ジゼルは廊下まで来ると、セシリアに小声で訊ねる。


「どうして夫婦なのに自分で会いに行かないの?」


「まぁ、夫婦には夫婦の形があるのだろうさ。みんながお前の両親のようだと思ってはいけないよ。お前の常識は世界の常識ではないのだから」


「それはわかるわ」


 ジゼルは深くため息を漏らした。それは感嘆と陶酔の入り交じったものだった。


「私、冥界から飛び出てよかった。だって、冥界にはないものが沢山あって、冥界の普通がこちらの普通じゃないんですもの。わくわくするわ。精霊界でさえこうも面白いんだから、人間界ってどんなところかしら?」


 ふと、彼女は鉄紺色の魂を思い出す。あの魂の主がいる世界を想うと、胸が何故か狭くなった。どんな世界で、どんな生を刻んでいるのだろう?

 半ば夢見るような気持ちのジゼルを、セシリアの言葉が現実に引き戻した。


「エイモス様に感謝するんだな。あの最期の願いは、きっとエイモス様の心残りであっただけでなく、お前が心配だったのだろう。冥界に……いや、自分に閉じこもらずに世界に飛び出るように仕向けたのだよ」


「今となってはわからないけれど、そうかもしれないわね」


 ジゼルはふっと微笑んだ。エイモスが死んでから、彼を思い出して微笑んだのは、これが初めてであった。


 廊下の先には小さな扉があった。だが、どこにも取っ手がなく、中央に正面を向いた海蛇の顔があるだけだ。

 ふと、海蛇の目にはめ込まれた水晶が光り出す。


「どなたかしら?」


 柔らかい女の声がした。だが、どこから聞こえて来るのかわからない。まるで目の前の海蛇が話しているようでもあった。


「伝令の女王ジゼルが、海の女王ドリス様に伝令を」


 すると、海蛇の目から光が消え失せ、扉が音もなく開いた。

 思わずジゼルが目をむく。床は大理石だが、壁と丸天井が透明で、その向こうに海底の景色が見えるのだ。まるで海の中にその部屋が漂っているようだった。

 その広間の中央には長椅子が置かれ、そこにゆったりと腰を下ろしている女性がいた。彼女はそっと立ち上がり、滑らかな声でこう言った。


「初めまして、冥界の姫君」


 艶やかな黒髪を優雅に結い上げ、その目は深い藍色をしていた。色白の肌は柔らかそうで、豊かな胸元には真珠の首飾りが淡く光っている。彼女が精霊界の中でも特に美しいとされる精霊、海の女王ドリスだった。

 ジゼルは少し戸惑った。自分の母親は華奢であるが、彼女はどちらかと言えば肉惑的な体つきをしている。地の女帝がまとっていたのはあどけなさだったが、目の前の女王が醸し出しているのは見る者を圧倒するほどの色香だった。

 ドリスは猫のように歩み寄り、ジゼルを優しく抱擁する。


「なんて可愛らしい女王様でしょう。お会いできて嬉しいわ。さぁ、おかけになって。お茶でもいかが?」


「いえ、私は伝令を」


「あぁ、そうだったわね。私ったら久しぶりの来客にはしゃいでしまってお恥ずかしいわ」


 そう頬を染める姿がまた愛らしい。自分の母親よりもずっと歳上のはずだが、まるで少女のようだ。ジゼルは気を取り直し、小さな咳払いをする。


「このたびは火の王イグナス様より伝令を」


 イグナスの名を口にした瞬間、ドリスの顔に緊張が走るのを、ジゼルは見逃さなかった。


「海の底で月光を千年浴びた涙というものを私に預けて欲しいとのことです」


 それを聞いたドリスが「あぁ」と小さく呻き、切ない笑みを口許に浮かべた。


「なんて懐かしい、甘い言葉でしょう」


「甘い?」


 ジゼルがきょとんとしていると、ドリスがそっと彼女の小さな手を取った。


「ねぇ、あなたのお仕事は伝令よね?」


「はい」


「では、私からも伝令をお願いしてもいいかしら?」


「あなたが望むのであれば」


「そう。ではお渡ししましょう」


 ドリスに手を引かれて広間の奥へ行くと、なんの飾り気もない石畳の階段が地下に続いている。


「こちらへ」


 ドリスは階段を下り始めた。衣擦れの音が木霊する階段はほんのりと明るい。

 目の前を歩くドリスから、柔らかく甘い香りが漂ってきた。それは、ディランのものとは違う、香油のような香りだ。だが、次第にその香りが強くなっていくのに気づくと、ジゼルは眉をひそめた。

 その香りは階段の先に行けばいくほど、濃くなっていくのだった。


「ほら、着いたわ。私の秘密の沐浴場よ」


 階段の果ては岩で囲まれた空間になっており、壁も天井も苔で覆われていた。その中央にある翠玉で出来た雨蛙の口からこんこんと水が湧き、銀色に光る浴槽に注がれている。その真上には丸く巨大な月長石が浮かび、柔らかな光が降り注いでいるのだった。

 ドリスは沐浴場の傍に膝をつき、水面に手を入れる。再び手を上げたときには、淡く光る真珠が握られていた。ジゼルにそれを差し出し、彼女は言った。


「これこそ、海の底で月光を千年浴びた涙。我々、歴代の海の女王の涙です」


「とても哀しい色ですね。まるで月の涙をそのまま海に落としたような色だわ」


 思ったまま口にすると、ドリスが微笑む。


「流石は吟遊詩人の姫君。詩的ですわ」


 そして、こう言った。


「ここは海の女王の牢獄であり、心を解放させる唯一の場なのよ。その真珠を嗅いでご覧なさい。ほんのり甘くて柔らかい香りがするでしょう」


「えぇ。先ほどから感じておりました。この真珠の香りだったんですね。そもそも香りのある真珠なんて初めて見るのですが」


「これはただの真珠ではなくてよ。海の女王の想いをこめたものだから。恋しさを真珠に封じて、ここで泣くの」


 そう言うドリスの横顔は、どこか儚げで海の泡のようであった。


「初代の海の女王は森の王の娘でした。森が恋しくて泣く彼女のために、父親が作ったのがこの沐浴場だそうよ」


 初代の海の女王は、海のものを何一つ好きになれなかった。奔放で浮き名を流し続ける夫同様に。

 だが、唯一彼女の心をとらえたのは、真珠だった。まるで自分の涙にも似た真珠に彼女は想いを籠め続け、泉の底に敷き詰めることで慰めとした。恋しい想いを断ち切るように。溢れ出す想いを沈めるように。


「皮肉なもので、歴代の海の女王は必ず同じ想いにとらわれるのです。だから、ここには私の涙もあります」


「ドリス様も?」


 ジゼルの問いに、ドリスは淋しげに笑う。


「ここにいると駄目ね。つい感傷的になってしまうわ。広間に戻りましょう」


 広間に戻ると、ドリスは口を開いた。


「イグナスに私の想いを届けて欲しいの。そのために、私と彼の物語を聞いてくださる?」


 ジゼルの返事をする前に、ドリスが自嘲する。


「いいえ、本当はあなたに聞いて欲しいのよ。何故かしらね。ただ、私一人の胸にしまうには辛いからかもしれないし、あなたには話してしまいたくなる不思議な魅力があるのかもしれないわ」


「ドリス様がお話になりたいのであれば。私の心で何かを汲み取れるのであれば喜んで」


「そうね。あなたにはまだ早い気もするけれど」


 苦笑しつつ、海の女王は静かに語り始めた。


「水の帝王の性質というものは、流れ行くもの。帝王は妻を愛しているものの、一カ所に留まると心が淀むのです。まるで留まる水が濁っていくように。歴代の水の帝王は様々な女性を渡り、その心の流れるままに生きていきます。女性だけではなく、彼が心を傾けるものならなんでも」


 そこでドリスは口をつぐみ、ふっと小さなため息を漏らした。


「海の女王は慈愛の象徴です。確かにこの胸には夫を愛する心がある。けれどいつもどこかが寂しいのです。私だけを愛してくれる人が欲しくてたまらなくなる。慈愛とは見返りを求めないものだけど、それでも一人の女になるときはあるの。初代の海の女王は密かに通じていた月光の精を想って泣いていたそうだけど、私が想ったのは……」


 そこで、ドリスがジゼルをまっすぐ見据えた。そしてゆっくりと名を口にする。


「……火の王、イグナスだったのよ」


「つまり、イグナス様と恋仲だったということですか?」


 思わずジゼルが顔を真っ赤にする。


「私が嫁いでからの話よ。婚儀の式に贈り物を届けに来た彼は、美しかった。火の王らしく燃えるように勇ましく、私の欲しいものをすべてくれた」


「それでは、お二人は帝王の目を盗んで逢瀬を?」


 ジゼルは驚き呆れたが、ドリスは平然としていた。


「あなたは人間を見たことがある?」


「いいえ」


「ときに愚かだけれど、懸命で愛しい者たちだわ。イグナスは『彼らは精霊と違い、物事を知らないからこそ限界を見ようと足掻く。その姿が新しいものを生み出してくれる、健気な生き物だ』と言っていた。私の夫は人間が嫌いだけれど、私もイグナスも人間を擁護したの」


「それが縁で親しくなったのですね」


「軽蔑されるかもしれないけれど、彼が私に夢中になっていくのを知って、夫がある身でありながら喜びに打ち震えたわ。ある意味利用したのかもしれないわね。ディランが精霊や人間の女のところへ通う間、孤独を埋めたかったから」


 ジゼルは「はぁ」と小さく答えることしかできなかった。仲睦まじい自分の両親しか知らなかった彼女には、なんとも遠い世界に思えた。


「けれど、きっかけはディランが通う相手の中に、私の大事な妹がいたということを知ってしまったことだったの」


 美しい唇を歪ませる彼女の声がわずかに震えた。


「私はイグナスを呼び、その胸で泣いた。初めて誰かにすがった。イグナスは本当に炎のように燃え滾る情熱をもって、私を慰めようとしてくれたわ」


 彼女は意味ありげにジゼルに向かって右の眉を上げた。むろん、ここまでくればジゼルもその先に二人がどうしたかくらいはわかる。


「イグナスに抱かれながら、心はディランに抱かれているの。最低でしょう。でもね、私はどんな方法でもいいから、愛されたかったのです」


 伏していた目を上げ、ジゼルをまっすぐ見つめる。その目は海に似ていると、ジゼルは咄嗟に思った。

 憂いが漂う目には、色々な物が宿っている。自嘲、孤独、心もとなさ。そしてなにより物欲しげな光が、彼女のなんともいえぬ色香の正体なのだとジゼルは悟った。


「でもね、イグナスはそんな私を見抜いていた。抱かれながら、ふと気づいたの。彼が哀れみの目で私を見下ろしていることに」


 彼女はきつく目を閉じた。


「もちろん、イグナスも自分の中にディランを見ている私に気づいたときには傷ついたでしょう。それでも彼は私を愛してくれた。だから彼は何も言わず去った」


「去った?」


「そう。帝王に知れたのです。誰が密告したかはわかりません。帝王自ら勘づいたのかもしれない。ディランの怒りは激しいものでした。それで、イグナスは人間界に身を隠したのです」


 ジゼルはふと呟く。


「あぁ、それで彼は……」


 長年の疑問だった。イグナスは人間の女性との間に子をもうけた。だが、精霊の王が人間界に出向くことなど滅多にないのだ。

 何故、彼は人間界にいたのかと尋ねても、両親は困ったような顔をしてジゼルの髪をなでるだけだったが、その答えはここにあった。


「私はひどい女よ」


 そう囁くと、女王はジゼルに向かって淋しく微笑む。


「ディランだって、好き勝手にいろんな女と通じているのに。でも、そんな不条理よりも、彼が怒りをあらわにしたことで愛されていると知ったことが、なにより嬉しかったの。あなたにはまだわからないでしょうけれど」


「……えぇ、わかりません」


「繋がることは簡単に愛されていると錯覚するわ。でも、それはとても虚しいものよ。抱かれた後、一人で残されたときのあの絶望感。この世でたった一人になったようなどうしようもない淋しさ。そう、大海原に投げ出された漂流者とはあんな気持ちかもしれない。そんな私は、ディランの怒りに満ちた目に、イグナスから愛されていると感じたときよりも、もっと心を躍らせた」


 震える手で、彼女は顔を覆った。白魚のような指の隙間から、か細い声が漏れる。


「愚かしい。けれど、それこそ海の女王」


 沈黙を保っていたセシリアが呟くように言った。


「海のように美しいものもおぞましいものも包み込み、波間の泡のように心もとなく、海中の藻のように揺らぐ心。本当にあなた様は海そのものですね」


 ジゼルは眉を上げた。今までのセシリアの物言いから察すると、彼女はこのことを知っていたのだろう。


「さすがはあの吟遊詩人の育ての母ね」


 自嘲めいた笑いを放ち、ドリスは顔を上げる。


「何故、私にここまでお話になるのですか?」


 ジゼルが問うと、彼女はふっと表情を和らげた。


「懺悔を。愛しいイグナスに」


「今でも愛しいのですか」


「そう。私の愛は増えるものよ。ディランにはディランへの愛の形、イグナスにはイグナスへの愛の形がある」


 歌うように言うと、女王はジゼルに歩み寄る。ふわりと漂う強い香りに目眩がしそうだった。


「だからイグナスに伝えて欲しいの。あなたは単なる代用品ではなく、確かに私の愛を受けた一人なのよ、と。まぁ、そう聞いたところでイグナスは微笑んで『わかっている』と言うでしょうけれど」


 ドリスはそっと微笑む。


「ただ、私の自己満足なのでしょう。私を抱いたあとに見せたイグナスの顔が目に焼き付いて離れないの。とても淋しそうで、哀れむようで、何とも言えぬ顔だった。私もあんな顔をしていたかもしれないけれど」


 女王はふっと目を細め、ジゼルの肩に優しく手を置いた。


「がっかりしたかしら?」


「え?」


 思わず目を丸くすると、彼女は哀しげに微笑んだ。


「精霊界で最も美しい女は、どの女よりも泥にまみれて汚い、ずるい女よ」


「わかりません。確かに驚いてはいますが」


 ジゼルはそっと呟く。


「ただ、汚いからこそ美しいのだということは、わかる気がします。だってご自分でそう仰ることがずるいけれど、イグナス様は許してしまうのでしょうから」


 くくっと笑い、女王が手を離す。


「本当にあなたは母上そっくり。まっすぐで強くて、私にないものを持っていて……憎たらしいこと」


 驚くジゼルに、女王はとびきりの笑みを向けた。


「さぁ、お行きなさい、伝令の女王。願わくば、あなたにはこの孤独を知る日がこないことを祈ります」


 ジゼルとセシリアが女王の部屋をあとにすると、広間ではディランが頬杖をついてだらりと玉座に座っていた。


「やぁ、小さき女王。我が妻はどうしていたかな?」


「ドリス様は私が憎たらしいそうです」


 肩をすくめてみせると、彼は小さく笑った。


「そなたの母上を思い出すのだろう。瓜二つだから」


「ディラン様は人間がお嫌いだと伺いました。私の母もお嫌いですか?」


 ふっとジゼルは目を伏せる。人間の血をとやかく言われるのは初めてではない。が、いつになっても慣れるものでもなかった。


「余が何故に人間を嫌うか知っているか?」


「いいえ」


「たとえば小川があったとしよう。我ら水の精霊は乾いた喉を潤し、愛でるだけで、その流れがどこから来たのかなど気にもとめないし、ましてその流れを自分のものにしようとは思わない。だのに、人間は流れをせきとめたり、源泉を突き止めようとする。人間ときたらお節介で面倒な図々しい生き物だよ」


 彼は滑らかな声で陽気に言う。だが、その目は笑っていなかった。


「ドリスは海から雲へ、雲から雨へ、小川となりまた海へ戻る、そんな自分を成すすべてを愛せと願う。だからこそ私は人間が嫌いだ。妻が望むものを与えられる存在だからね。私では無理なのだ」


「ご自分のことをよくご承知なのですね」


「歯に衣着せぬところは嫌いではないぞ」


 彼は高らかに笑い飛ばした。


「余は愛するあまり、留まってしまうと淀む。だから流れ行く。ただ、還るところがあるからこそ、旅立てるのだ。これは、いずれそなたも身を以て知るだろうが」


 恋愛の面ではわかりそうもない。そう言いたいのをぐっとこらえて、ジゼルは黙っていた。


「ドリスは、ないものねだりなのだ。たった一人から確かな愛を誓われたいと思っている。だのに、それを求める相手は余だ。そして余は愛していても留まらぬと承知している。わかっているからこそ、欲しくなる。愚かで可愛い妻だ。嫉妬のあまり妹を醜い深海魚の王に無理矢理嫁がせてしまったのはいただけないがね」


 ぞっとしていると、彼は口の端をつり上げた。


「あれは海のごとく愛が深く広すぎる。それに向き合えるのは水の帝王である余くらいのものだ。イグナスでは手に負えないのだよ。そなたはイグナスへの伝言を頼まれたであろう?」


 思わずぎくりとしたジゼルを見て、彼は得意げに笑う。


「なぁに、妻の考えることなど手にとるようにわかる。あれは罪悪感と屈辱に苛まれているからこそ、余の前に姿を見せられないでいるのだ。気高い故に、嫉妬に狂い、孤独に打ちひしがれる自分など認められないのだろう。大海原を彷徨う小舟のようなものだよ。ただし、彼女の求める陸地はないのだ。彼女が求めているものはこの私であり、私は彼女の中に既にいるのだから。だから迷う」


 ジゼルがたまらなくなって口を挟む。


「ディラン様、私にはきっと十年早いお話のように思います」


 ジゼルには彼が何を言いたいかさっぱりわからなかった。

 すると、ディランがそっと黒髪を撫でた。


「ジゼルよ」


 彼は膝をつき、矢車菊色の瞳をのぞき込んだ。


「たった一人を選ぶ怖さを知らぬであろう?」


「たった一人?」


「大海の雫の数ほどの精霊や人間の中から、たった一人を選び、選ばれる怖さだ。そんな相手が見つかるのかという不安。その相手に愛されるのかという畏怖。そなたの両親が乗り越えたものだ。ドリスは自分にはない絶対的な愛情を持つそなたの母上が妬ましいのだろう。そういうものに憑かれたままの哀れな女だよ」


 ジゼルはそっと俯く。


「私にはわかりません。ただ、一人を選んで取り残された者の苦悶は知っています」


 その脳裏に浮かぶのはエイモスとシルヴィアの姿だった。たった一人を見つけられたとしても、必ずしもすべてがうまくいくわけではない。かといってエイモスが不幸せだとは言いきれない気もする。複雑な思いにかられるジゼルを見やり、水の帝王は囁くように言った。


「イグナスに余からも伝言を頼もう」


 立ち上がり、彼はジゼルをまっすぐ見据える。


「イグナスの愛情は激しくも強すぎるのだ。その愛はすべて燃やし尽くし、何も残らない。だから余はドリスが意趣返ししたことよりも、相手がイグナスだったことに怒ったのだ。その愛はドリスの清いものも汚いものも、ただの灰にしてしまうのだから。だが、風の噂でイグナスは己の炎の力で妻を亡くしたと聞く。余は憐憫の情を覚えるとともに、それがドリスでなくてよかったとも思う」


 ジゼルは驚きを隠せず、目を見開いた。イグナスに人間の妻がいたことは知っていたが、彼女がイグナスのせいで死んだことは初耳だった。彼の妻のことに関しては、詳しいことはセシリアすら何も話さないのだ。


「イグナスに礼を伝えて欲しい。一時でも妻を支えてくれたことには代わりない。それに、充分彼は罰を受けた。……それだけだ」


 そして、ディランは神殿の奥に消えていったのだった。


 ジゼルはセシリアと共に海の神殿をあとにすると、次元の狭間に足をかけて振り返った。夕陽を浴びて輝く大海原は、金で出来た巨大な生き物のようだ。この海の中には、清いもの、穢れたもの、美しいもの、醜いものが抱かれ、数々の雫が波を成し、うねり、横たわる。

 ジゼルのため息が漏れる。まだ恋を知らないが、ドリスの気持ちがわからないでもなかった。一人に愛されたいが、愛されるかわからない恐怖など、とうに知っている気がした。両親のように愛し、愛される相手がいれば、胸のどこかに疼く淋しさは消えるのだろうか?

 ふと、ジゼルは空を仰ぎ見る。もう少しであの鉄紺色の魂によく似た色の夜がやってくる。あの魂の主も、誰かを探しているのだろうか。そう思うと、胸が締めつけられるのだった。


 次元の狭間を越え、行き着いたのは冥界にある自分の部屋だった。見慣れた部屋に安堵すると、彼女は廊下に出る。

 向こうから、パーシヴァルの世話係が歩いて来るのが見えた。高齢で人間嫌いの彼女は、ジゼルを見ると黙って目を伏せる。ジゼルは立ち止まり、彼女に声をかけた。


「イグナス様はどちらに?」


 問われた精霊は、驚いた顔でジゼルを見る。陰で人間を悪く言う彼女を避けて来たジゼルが、初めて声をかけてきたからだ。


「あ、イグナス様でしたらエイモス様の寝室に」


 ジゼルはそっと微笑む。


「そう。ありがとう」


 精霊はジゼルの笑みに目を丸くしていた。

 再び歩き出したジゼルに、セシリアが囁く。


「どうしたんだい。今まではあの世話係をずっと睨んできたってのに」


「別に。ただ、ドリス様もディラン様も、私が嫌いなくせに丁寧に接してくれたから、そこは見習おうと思って」


「ふぅん」


「それが一番効率のいい抵抗なんじゃないかしら。嫌いって気持ちを水のように受け流すことも、ときには功を奏するわ」


 セシリアが羽をばたつかせた。


「お前は外に出て正解だったかもね」


 亡きエイモスの寝室はジゼルのたっての希望で、そのままにされていた。考え事をしたいときはエイモスの寝台に潜り込むと、落ち着くのだった。

 憂鬱なときのジゼルがそうするように、今、イグナスがエイモスの寝台に腰を下ろしてぼんやりとしていた。


「イグナス様、ただいま戻りました」


 現れたジゼルに、彼は座ったまま手を伸ばした。


「よく戻った。さぁ、おいで」


 ジゼルは歩み寄り、彼の隣に腰を下ろす。


「ドリスはどうしていたかな?」


「伝言があるわ」


 ドリスとディランからの伝言をそれぞれ伝えると、彼はしばし沈黙していたが、小さな笑みをこぼした。


「ドリスには感謝しているのだよ。おかげで私は永遠に心に住まう人に巡り会えたのだ」


 片方しかない耳飾りを撫で、彼は言った。そのもう片方は彼が妻に捧げたことを、ジゼルは察した。


「ディラン様は、妻が意趣返しをしたことなど二の次なのだ。ただ、妻がさらに傷つくのが目に見えていただけ。ドリスは深海に漂う魚が光を見たいと泣いているようだ。彼女の望む愛は身をとりまく水そのものなのにね。私の火に晒されれば、魚は焼け死んでしまうだけなのだ。それでも、確かに私は彼女を愛していた時期もあったよ」


 ジゼルが黙って、ドリスから受け取った真珠を手渡す。イグナスはそれを見つめて、ぽつりと呟いた。


「哀しい色だ。それだけに美しい」


「イグナス、私にはわからないわ」


 ジゼルがため息まじりに言った。


「ドリス様も不憫だとは思うの。けれど、エイモスやあなたのように、愛を注ぐ先を失ったら、それはもっと不幸ではないの?」


 すると、彼は困ったように笑う。


「エイモスがシルヴィア様への思慕を赤い石に変えていたのは知っているね?」


「えぇ」


「あの石は、時を経ていけばいくほど透明で美しい色になる。思い出は時間に濾過されて、美しくなるものだからだ。エイモスは思い出に生きた。それが彼の幸せにすがった術だったのなら、少なくとも美しい夢を見ていたと思うよ」


「そうかしら」


「私は幸せだよ。エイモスのように悔いがないとは言いきれないが、自分で幸せだと思えるように生きろと、思い出の中の妻は言う。そして、彼女を思い出すとき、その顔がいつも笑っているんだ。それだけでも幸せなんじゃないだろうか」


「だからイグナスって好きよ」


「でもね、ほんの少し悔いているよ。石に託す想いがまだあるのなら、それを手渡すようエイモスに促すべきだったかとね。思えば彼の大切な人は生きていたのだから」


「でも、シルヴィア様は……」


 地の女帝の虚ろな表情を思い出し、目を伏せる。すると、ジゼルの髪を、彼がそっと撫でた。


「あぁ、生きながらに死んでいるとも言える。けれど、確かにそこにいたのだからね。私の妻とは違う。思い出の中の姿に話しかけるだけとは訳が違う。たとえ声が届かなくても、無駄ではなかったかもしれない。エイモスには、海の底でただ愛を待つドリスと同じことだと言ってやれば何かが違ったんだろうか」


「イグナス、あなたは優しすぎるわ。精霊も人間も、きっとその生き様は自分で決めるものよ。そこまで背負うことはないと思うし、背負えるものでもないのよ。伝令の女王になって、本当に思う。過去を語ることは出来ても、今を生きるのは本人にしか出来ないのよ。だから、私は誰もが愛おしいわ」


 二人が顔を見合わせ、ふっと微笑み合ったときだった。


「あら、役者が揃っているわ」


 部屋に入って来たのは、ナディアだった。


「ジゼル、戻っていたのね」


「母上、ただいま」


 ジゼルは駆け寄って、その柔らかい体に抱きついた。ドリスの香りも馨しかったが、母の香りは彼女の心を和ませた。

 ナディアは目を細めてジゼルの髪を撫でながら、小さく笑った。


「今日ね、面白いことがあったのよ」


「ほう、一体どうしたのでしょう?」


 促したのはイグナスだった。


「時の女帝に代々伝わる千里眼の水鏡を見ていたんだけど、以前私が人間界にいたときに愛用していた四弦の楽器が物憑きの精霊を宿したらしいの」


「ほう。あなたの愛用していたものなら、さぞかし立派な精霊がつくでしょうな」


「立派過ぎて生意気よ。少し前に、ジゼルに持たせたくて傀儡に取りにいかせたんだけどね、あの楽器が私に直接迎えに来いと言ってきたそうよ」


 イグナスが高らかに笑う。


「おやおや、持ち主に似て鼻っ柱の強い」


「えぇ、そうね。否定しないわ」


 ため息混じりにそう笑うと、彼女は続けた。


「迎えに行きたいのはやまやまだけど、私は冥界を離れるわけにいかないの。幾千もの命が私の天命を授かるのを待っているんだもの。それで様子を見ていたんだけど、どうやら巡り巡って新しい持ち主が現れたようなの。それがね……」


 言いかけて、彼女が悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「……イグナス、あなたの孫なのよ」


「では、セオドアのもとへ?」


 あの魂の名を初めて耳にしたジゼルの心臓がどくんと爆ぜた。


「イグナスの孫はセオドアという名なの?」


 おずおずとたずねると、イグナスがはにかむように笑った。


「うむ。直接会ったことはないがね」


「近頃はね、私が水鏡で様子を見ては、どうしているか教えてあげるのよ」


 ナディアが悪戯っぽく目を細める。


「いつでも孫の姿を見せてあげるというのに、イグナスは頑として水鏡をのぞこうとしないのよ」


 戸惑いながら答えたのはイグナスだった。


「いや、しかしあの水鏡は女帝のみが許されるもので、私がのぞくわけには参りません」


「構いはしないわ。私が見ているものを一緒にのぞくだけだもの」


「いや、しかし……」


 ナディアが口許をふっとつり上げた。だが、その目は笑っていない。


「イグナス、怖いの?」


 ぐっと言葉につまったイグナスが足元に視線を落とす。少しの沈黙のあと、彼は低い声で呟くように言った。


「はい。息子のレイと孫のセオドアに恨まれているのではないかという恐れが拭えないのです。精霊の力のせいで、息子は辛い思いをしました。もし孫にも火の力が受け継がれていれば、人間界に馴染めていはいないでしょう。その辛さはナディア様、あなたがよくご存知のはず」


 精霊の魂を持ちながら人間に生まれたナディアが、そっと頷いた。


「えぇ。けれど、私には精霊の力より家族に愛されないことのほうが辛かったわ。あなたが会いに行かなければ、いくら遠くで愛していても伝わらないの。それは彼らにとって、愛されていないことと変わらないんじゃないかしら?」


 それでも、イグナスが首を横に振った。


「いいえ。私が近くに行くことで、もし孫の中で火の力が目覚めてしまうようなことがあったなら、それこそ取り返しがつきますまい」


「そう。無理にとは言わないけれど」


 すると、ナディアが今度はジゼルのほうを向いた。


「ジゼルはどう?」


「私?」


「あなたはあの鉄紺色の魂に会いたがっていたわね? あなたはセオドアの姿を見たい?」


 女帝と火の王が見守る中、彼女は小さな頭をそっと横に振った。


「いいえ。今はそのときではないと思うの」


 脳裏によぎったのは、海の女王の淋しそうな目だった。物欲しげな光が波間に反射する夕陽のようにちらつく。


「私は確かにあの鉄紺色の魂に会いたいと思う。けれど、何故か今ではない気がするの。今会ったら、何かから逃げる気がする」


 すると、ナディアがふっと目を細めた。


「それはね、あなたの中でセオドアに伝えたいことが見えてないからなのね。きっと、伝令の女王の魂がそう言っているんだわ」


 きょとんとするジゼルをよそに、ナディアは一人で納得している。


「二人ともセオドアと巡り会う時が満ちていないのね」


 ジゼルはそれを聞きながら、ぼんやりとした頭でため息を漏らした。生まれて初めて、母にほんの少しだけ隠し事をしたからだ。

 まだ会うときではないと感じるのは嘘ではない。けれど、本当は怖かったのだ。

 何故怖いかすらわからない。ただただ怖い。もしかしたら、それは自分が無性にあの魂に魅かれる理由を知ることかもしれない。

 ジゼルはひたすら、自分の小さな足を見つめることしか出来なかった。

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