地の女帝

 伝令の女王となったジゼルは『死の鳥』と『生の鳥』を統べるようになった。

 彼女は初めて、命の連鎖に携わる重みを感じていた。どれか一つ間違えば、かつての母のように、尊い命の運命が変わる。そのとき初めて、自分の両親の抱える重みを知ったのだった。

 ほどなくして、セシリアがこう切り出した。


「ジゼル、明日はアルフレッドがお前の代行をすると言っているよ」


「どうして?」


 きょとんとするジゼルに、白い鳥が呆れたような目をした。


「忘れたわけではあるまい。お前には初めての伝令があるはずだよ」


 エイモスの首飾りを地の女帝に届けなければならないことを思い出し、ジゼルは唇をきつく結んだ。彼女は不慣れを言い訳にして、その約束をのばしていたのだ。

 首飾りを届けるときはエイモスの死を伝えるということだ。そしてその死は彼女自身、まだ認めたくないのものだった。

 だが、それを見透かしたセシリアがすげなく言う。


「逃げるんじゃない。お前は託された願いを宙に彷徨わせる気かい?」


「わかった。父上にお願いしてみるわ」


 ジゼルがようやく覚悟を決めて頷いた。

 誰かに死を伝えるということが、父の元に向かう彼女の足取りを重くした。


「どうした、ジゼル」


 玉座のパーシヴァルに、彼女は一礼してからエイモスとの約束を伝える。


「父上、明日はアルフレッドに任をあずけて、地の女帝の元へ向かいたいのです」


 パーシヴァルが「ふむ」と唸り、顎をさする。


「よし。エイモスの最期の頼みならば届けてあげなさい」


「ありがとうございます」


「セシリアと一緒ならば心細くないだろう」


「父上は、エイモスとシルヴィア様に何があったかご存知?」


「それを知りに行くのだろう? エイモスの願い、きっと叶えてあげなさい」


「はい」


 ジゼルはセシリアと顔を見合わせ、力強く答えた。

 彼女にとって、初めての精霊界への旅であり、同時に初めての伝令の女王としての使命を果たすときがきたのだった。

 未知への好奇心と、少しの恐れのために、小さな胸が膨らんだ。それはかつて自分の母がセシリアと共に初めて馬車に乗り込んだときの感情に似ていたことなど、ジゼルは知るよしもなかった。


 翌朝。ジゼルは自分が持っている中で一番清楚でそつのない服を選んだ。


「初めて両親以外の帝王に会うからといって、そんなにめかしこんでもしょうがあるまい」


 苦笑するセシリアに、小さな女王は頬を膨らませた。


「だって、粗相のないようにしなきゃ」


「いいんだよ、普段のままで。身につけているもので中身を決めつける愚かしい者が帝王になれるはずがないだろう」


 そう笑うと、セシリアが小さな肩に飛び乗る。


「さぁ、行くよ」


「えっ? ここから?」


 ジゼルが辺りを見回す。見慣れた自分の部屋が、出発の地になるとは思ってもいなかった。


「次元の狭間はどこにでもあるものさ」


 歌うように言うと、セシリアの体が行灯のように輝き出した。傀儡の鳥特有のたき火が爆ぜる音に似た声が上がる。その途端、目の前に闇が広がった。

 一目見てジゼルを支配したのは、畏怖だった。なんという冷たい闇だろう。闇の王を兄に持ち、冥界で生まれ育った彼女から見ても、目の前に広がるものはとてつもなく深く底冷えのする闇だった。道案内なく足を踏みこめば、永久に彷徨い続けるだろう。

 セシリアが高らかな鳴き声を上げた。


「さぁ、旅立ちだ」


 小さな喉で生唾を飲み下し、ジゼルが頷く。


「心配いらないよ。私が一緒だ」


 その言葉に勇気を得て、恐る恐る闇に右足を入れた。だが、そのままどこまでも落ちていきそうで、足を降ろすことが躊躇われる。

 すると、「ふん」とセシリアが短く笑った。


「ここは次元の狭間。天も地もあるものか。お前が足を置けば地になり、お前が進む先が道になる。案ずるな」


 思い切って足を下ろすと、奇妙な感覚が足の裏に伝わった。固くもなく、柔らかくもない、撫でるような感触だった。


「さぁ、そのまま進もう」


 こうして、ジゼルは精霊界に出発したのだった。


「なるほど、これは『神隠しの闇』だなんて呼ばれるだけはあるわね」


 先を行くジゼルがため息を漏らす。どこを見回してもどす黒い世界だ。自分がどこを向いて、どこに進んでいるのかさっぱりわからない。

 ふと、遠くに一羽の飛び行く生の鳥が見えた。足には何も掴んでいないところを見ると、魂を届けてきた帰りだろう。


「どうして傀儡だけはこの闇を渡れるの?」


 ジゼルが問いかけると、セシリアが苦い顔をした。


「傀儡は本能で『神隠しの闇』を渡るんだ。神ですら私たちなくては次元の狭間を彷徨うだろうが、何故か私たちには生まれつき行きたい場所がどこにあるかわかる。それは、何故お前が過去を決して忘れないのかと問われているようなものだ。誰にでも、答えられないものがあるのさ」


 この言葉が、少し彼女を楽にさせた。誰もが何かを抱えているものなのだ。そんな意味を含む、セシリアの遠回しな励ましだと感じたのだった。


「……そうかもしれないわね」


「あぁ、そうさ。ジゼル、もう少し右だよ」


 闇の中、ぼんやりと光るセシリアが羽をばたつかせた。


「なんだか、セシリアが眩しいわね」


 くすっと笑うジゼルに、白い鳥が自慢げに尾羽を振り上げる。


「お前は冥界で生まれた精霊だから知らないだろうがね、この光る体と鳴き声こそ、魂を守るものなんだよ」


 そこにはかつて生の鳥だった者の誇りが滲んでいた。


「この『神隠しの闇』には魂を好む魔物が住む。それらから魂を守るのは、私たちの輝きとこの鳴き声。だからこそ、人はたき火を見ると無意識に安堵するんだ」


 ゆらりと自分を照らすセシリアの輝きに見惚れながら、小さく「ふぅん」と頷いた。


「あの鉄紺色の魂も、そうやって運ばれたのね」


「なんだい、やけにイグナスの孫が気になるようだね」


「そうね」


 あの魂は無事人間界に生まれついていれば、六歳になっているはずだ。当然、魂だった頃の記憶などないだろう。

 だが、彼女は知りたかった。自分が感じたように、あの魂の主も自分を見て何かを感じるだろうか。無性に惹かれて忘れがたい存在になるのだろうか。そんな彼女の物思いは、セシリアの一声でかき消された。


「さぁ、着いたよ。地の女帝の神殿前だ」


 そう言うやいなや、目の前に光が円を作るように現れる。すっかり闇に慣れた目には眩しすぎるほどだ。

 ジゼルが目をこらすと、その向こうに緑の木々が見えた。微かに水の音もする。


「ジゼル、ここが精霊界だ」


 闇と光の狭間から足を差し出し、緑の大地を踏みしめる。ジゼルの体が闇から出た途端、背後でふっと神隠しの闇は跡形も無く消えた。


「わぁ!」


 思わず感嘆が漏れる。眩しさに目が慣れて来た彼女は、辺りの景色に見蕩れてしまった。

 さんさんと降り注ぐ太陽。春めいた暖かい風に新緑の深い森が枝を揺らしていた。そして、目の前には苔むした神殿がそびえ立っている。

 彼女が驚いたのは、その神殿全体を呑み込むように、巨木が根を張り巡らせていたことだ。巨木は天高くそびえ立ち、枝と葉の隙間から無数の木漏れ日を落としている。


「ここが地の女帝シルヴィアの神殿だ」


 ふと見ると、セシリアの体から光が消え、いつもの彼女に戻っていた。


「どうだい、精霊界は」


 感嘆のこもったため息を漏らし、ジゼルが深呼吸した。


「空気が甘いわ。緑の匂いがする。とても暖かいし、優しい風ね」


「ふん、空気が甘いねぇ。吟遊詩人の娘だけあって、奇妙なたとえをするもんだ」


 セシリアが愉快そうに笑った。

 神殿の前に歩み寄ると、小さな男の子があぐらをかいていた。ジゼルよりも少し幼く見える。


「この神殿に何用か?」


 彼は子どもに似つかわしくない凛とした声を上げる。その声を聞いた途端、ジゼルはすっと自分の頭が冷えていくのを感じていた。

 初めての精霊界に昂揚した心が、意図せずとも引き締まる。気がつくと、彼女は何も考えずにこう口走っていた。


「冥界を統べる帝王に仕えし伝令の女王ジゼルが地の女帝シルヴィアに伝令を」


 セシリアがにやりとする。ジゼルが伝令の女王として生まれついたことをまざまざと見せつけられた気がしたのだ。

 男の子は目を丸くしたが、すぐに「お待ちを」と礼をする。門に絡まる蔦を揺らし、彼は目を閉じた。

 ジゼルが訝しげにその様子を見守っていると、風もないのに蔦が揺れた。男の子がふっと目を開け、あどけなく笑った。


「……失礼しました。シルヴィア様がお会いになられるそうです。ただいま、案内の者が参りますので、もうしばらくお待ちを」


 そして、彼はふっと顔を綻ばせた。


「それにしても、歴代で最も若い伝令の王だとは聞いていましたが、こんなに可愛らしい方だったとは」


 頬を染め、ジゼルが俯く。その肩で、セシリアが羽をばたつかせた。


「そう言うあんたは門番かい? 今、何をした?」


「いかにも。私は蔦の王だ。この蔦を使ってシルヴィア様にお伺いしたのだよ。門番というより、受付というほうがいいのかな。こんな姿だが、お前よりはずっと年上だよ」


 穏やかに笑っている彼の背後で、扉の軋む音がした。


「ようこそ、若き女王」


 扉の向こうから声がした途端、蔦の王が恭しく頭を垂れる。

 そこに立っていたのは、一人の老いた男だった。質素な服に身を包み、白金色の短い巻き毛だ。


「よくおいでなさった」


 彼はゆっくり歩み寄り、ジゼルの瞳をのぞき込んだ。


「初めまして。私はシルヴィア様の後見人で、土の王アダムと申します」


 老人特有のしゃがれた声だが、そこには優しい響きがある。


「初めまして。伝令の女王ジゼルと申します」


 少しかがみながら頭を垂れると、皺だらけの顔が綻んだ。


「冥界流のお辞儀ですな。久々に見ました。エイモスは健在か?」


 言葉に詰まっていると、彼は「ふむ、まぁいい」と肩をすくめた。


「さぁ、こちらへ。シルヴィア様のもとへご案内いたしましょう」


 彼は革靴を鳴らし、扉の奥へジゼルを誘った。少し前屈みの背中を追いながら、ジゼルは地の女帝の神殿の中を歩いて行く。

 床一面は苔で覆われ、まるで絨毯のようだった。廊下の両側に小さな水路があり、耳に心地いい音をたてている。壁や天井にはあの巨木の根が走り、白や紫の蝶があちこちで舞っていた。


「精霊界の苔は光らないのね」


 ジゼルが驚き混じりに呟くと、老いた王が振り返らずに笑う。


「あなたはまだ外の世界を知らぬとお見受けする。精霊界でも人間界でも光る苔のほうが珍しいものだよ」


「へぇ」


 彼女は目を丸くして、足元の苔に見入った。

 光らない苔という冥界では珍しいものも、他の世界では当然のことだということが、彼女に新鮮な驚きを与えた。逆に今まで親しんできた光る苔が、他の世界から見れば驚きの的なのだ。たったそれだけのことだが、いやに『世界を渡ったのだ』という実感に変わっていく。

 長い廊下を突き進むと、巨大な扉の前にたどり着いた。そこで初めてアダムが振り返り、ふさふさした白い眉を下げる。


「初めてシルヴィア様にお会いする方に必ず申しておりますが」


 彼はそう断りを入れてから、そっと囁いた。


「……ご挨拶は無用です」


 一瞬、言われた意味がわからずにジゼルは目を丸くした。アダムが寂しげな笑みを乾いた唇に浮かべる。


「彼女には何も届きませんから」


 そう言うと、彼は扉を押し開けた。

 その向こうに見えたのは、広間の奥にそびえる巨木の根だった。隆々と盛り上がっている一部がくり抜かれ、翠玉で作られた玉座がはめ込まれている。

 そこに座っているのは、少女だった。雨に濡れた土のような焦げ茶の巻き髪と、若葉色の瞳をしている。あどけない表情で微笑みを浮かべる彼女こそ、地の女帝シルヴィアだった。

 ジゼルは言葉を無くしていた。想像していたよりも、遥かに若い。年の頃は十五、六くらいだろうか。女帝というにはあまりに初々しい風貌だった。

 傍らには数々の宝石で作られた傀儡の鳥が佇んでいる。体は金と銀で覆われ、宝石がちりばめられた色彩豊かな羽を持ち、その瞳は紫水晶だった。


「あれが、シルヴィアの使い鳥だ。無口な奴だよ」


 セシリアがそっと耳元で囁く。立ち尽くすジゼルに、アダムがそっと手招きした。


「こちらへ」


 促されるまま、彼女はシルヴィアの前に歩み寄る。

 だが、地の女帝はどこか遠くを見つめたまま、ジゼルなど目に入らない様子で座っているのだった。

 こんなにも目の前にいながら、シルヴィアが自分に気づきもしないことに、ジゼルは戸惑っていた。まるで人形のようだとジゼルが眉根をひそめると、アダムがぽつりと呟いた。


「シルヴィア様には何も見えませんし、何も聞こえません。用件は私が承ります。それが私の務めです」


「どういうこと?」


「それが地の女帝の生き様なのです」


 そう言いながら女帝を見る目には、憐憫の光が鈍く光っていた。だが、すぐにジゼルを見据えると、促すように眉を上げる。


「わかりました。それでは地の女帝シルヴィアに伝令を」


 ふっと一息つくと、懐からエイモスの首飾りを取り出す。それを見たアダムが息を呑むのが聞こえた。

 ジゼルは口を開こうとしたが、言葉にするには躊躇われ、俯いてしまった。シルヴィアとエイモスに何があったかはわからないが、死を伝えて嬉しい顔をするはずがない。こんな重荷を初めての伝令にしたエイモスを少しばかり憎らしく思った。

 ふと、背中に軽い感触を感じた。セシリアが尾羽でジゼルの背中を擦っているのである。彼女なりの励ましに少しばかり勇気を得ると、ジゼルは真っ直ぐアダムの目を見た。

 少し白く濁った小さな目に、彼女はこう伝える。


「魂に還りしエイモスからこの首飾りをシルヴィアにと託されました」


 その途端、アダムの目は見開かれ、傍目にもわかるほど動揺した。やがて、決して美しいとは言えない唇から掠れ声が漏れた。


「……そうか、エイモスは隠遁したのではなく逝ったのか」


 そして、首飾りを受け取る。節くれ立った手でそれを撫でるようにしながら、目を細めた。


「今更、約束を果たしに来たか。だが、自分で来ないとはどこまでも臆病な男だ」


 約束とは何だろう? そう好奇心が疼いたが、口に出して訊ねることは躊躇われる。伝令の女王の勤めはあくまで伝令のみだ。そこにある因縁に首を突っ込んでいいものか思案するジゼルに、アダムがふっと顔を上げた。


「気になるかな?」


「ええ」


 正直に答える。すると、彼は「よろしい」と頷いてみせた。


「少しの間、老人の昔話に付き合ってくだされ。この話を私だけの胸におさめておくには、少々重い」


 そう言うと、彼はシルヴィアのほうを向いた。相変わらず、彼女は焦点の定まらぬ様子で座ったままだ。その傍らの傀儡の鳥を顎で指し示し、彼は問う。


「あの傀儡の鳥は他の帝王の使い鳥とはちょっと違うのですよ。何故かわかりますか?」


 ジゼルが首を横に振った。宝石の放つ、太陽の光とはまた違う眩しさに目を細めながら。

 老人の声がぽつりと地に落ちた。


「その傀儡の鳥は女帝に幻を見せるのです」


「幻とは?」


「彼女が望む幸せですよ。シルヴィア様は元々、椿の精でした。女帝になってから、彼女の老いは止まっています。そして寿命が尽きるときに一気に老いて死んで行く。まるで椿が一晩でぽろりと落ちて朽ちるように」


 そう言って、彼は懐から一枚の小さな姿絵を取り出した。

 そこには、二人の男女が描かれていた。一人は目の前にいるシルヴィアそのまま。そして彼女に寄り添い微笑んでいる若い男がいる。


「それは、若き日のエイモスです」


 ジゼルが息を呑む。老いたエイモスしか知らない彼女には、にわかに信じられなかった。姿絵の中にいるのは、希望と若さに溢れた青年だった。よく目をこらせば面影はあるが、あの老いた顔を思い出すと時の流れの残酷さを思い知る。


「どうして、彼らが一緒にいるの?」


「恋仲だったからですよ」


「えぇ?」


 思わず飛び出た声に、慌てて口を手で押さえる。耳まで赤くなったジゼルに、アダムが「おやおや」と笑った。


「大人びてはいますが、やはりまだ子どもかな。いや、気を悪くせんでくださいよ。あまりに素直な反応でして」


 ふっと細められた目から、すぐに笑みが消えた。


「シルヴィア様も本当はあなたのように生き生きとした娘でした。女帝になるまでは」


「でも、どうしてシルヴィア様は若いままでいなければならないの? 本当ならエイモスと同じように老いているはずよ」


 すると、アダムが天を仰ぎ見て長い息を吐いた。そしてぽつり、ぽつりと語り出した。


「先に申し上げた通り、シルヴィア様は一介の椿の精霊として生まれました」


 彼はそう言って、壁にかけられた絵を指差す。そこには深紅の花弁と濃い緑の艶めく葉を持った一輪の花が描かれていた。


「あれが椿という花です。冥界にはないでしょう」


「えぇ」


「人間界ではおおむね冬から春にかけて咲きますが、彼女は冬に咲く早咲きの真っ赤な椿の精霊でした」


 土の王はそっと瞳に追憶を宿す。


「私は土の精霊でしたので、土に成る者とは生まれながらに友なのです。シルヴィア様は私より少しばかり年下ですが、それは愛くるしい方でした」


「それが、どうしてエイモスと恋仲に? エイモスは冥界の生まれだと思っていたわ」


「エイモスの母親は冥界の精霊に嫁ぎましたが、もとは雪の女王なのです。母親が精霊界に里帰りするたびに、エイモスを連れてきていました。そのときにシルヴィアと知り合ったのです」


 雪の中、頬を染めて向かい合う若き二人の姿が、ジゼルの脳裏に思い描かれた。


「シルヴィア様は十三でしたか。その頃はまだエイモスも伝令の王ではありませんでした。二人は無邪気に恋心を重ねていたものです」


 アダムがため息混じりに乾いた頬を擦った。


「ですが、先代の地の女帝が倒れ、シルヴィア様が次の女帝となることになりました。地の女帝になるということは、時間が止まるということなのです。自然の穏やかな移り変わりと裏腹に」


「どういう意味ですか?」


「地の女帝は大地の恵を左右します。彼女が憂いに満ちれば冬が長引き、植物は枯れ果て、動物や人間も死に行く。そのため、地の女帝は傀儡の見せるかりそめの幸せに満ちた幻影の中で時を止めて生きるのです。常に、その心が穏やかであるように」


 ジゼルは思わずシルヴィアを見る。玉座の彼女は白い手を傀儡の鳥に伸ばし、その頬を擦っていた。ふと、その桃色の唇から声が漏れる。


「……今日は陽気がいいわね」


 虚ろな声に、ジゼルの背筋を寒気が走る。


「シルヴィア様は、あの傀儡をエイモスだと思い込んでいます。常に傍にいるのがエイモスであってほしいという、彼女の願いそのものに」


「でも、それではあんまりだわ。彼女は本当の意味でエイモスと心を重ねていないんだもの。彼女は自然の災いを防ぐために、一人犠牲になっているんじゃない」


 ふつふつと、ジゼルの腹に重いものが疼く。


「そう。だが、それが地の女帝になるということ。エイモスもあなたと同じことを言いました。けれど、地の女帝となった彼女には、彼の声は届かなかった。シルヴィアの目に映るのは幻の彼だけです」


 絞り出すような声で、彼は続ける。


「あのときのエイモスの泣き声を私は忘れない」


 手を伸ばしても、声をかけても、愛しい女はエイモスを見ない。その声に微笑むことすらしない。なのに、心はエイモスのもとにあるという皮肉に、彼は泣いた。


「幻の自分を愛している様を見ながら、彼女との道を断たれた彼はさぞかし、もどかしかったでしょう。彼は私にこう言いました。いっそ、お前に心を移した方がマシだとね」


「あなたに?」


 眉を上げてアダムを見ると、彼は自嘲する。


「私もシルヴィア様を愛していたからです」


 そこには枯れ葉色に滲む哀愁があった。

 そして、彼は首飾りをしげしげと見つめた。


「冥界には一年に一度、火の王が訪れるそうですね?」


「えぇ。彼は歴代の黄泉の帝王と親しいですから」


「エイモスは物作りの王でもある彼に、シルヴィア様への想いを石に籠めてもらうと言いました。そして、その石で首飾りを作って届けると誓ったのです。この石の輝きは、想いの強さに比例します。もし、それが燃えるような赤をしていたら、そのときは天地の理を覆しても攫いに来ると、虚ろな目をした恋人に約束して去りました」


 アダムは首飾りの石を指先でなぞる。


「ふん、確かに椿を思わせる、燃えるような赤だ。だが、この首飾りの石の数だけ、彼が躊躇した年月がわかるというもの」


 そして、彼は目を閉じた。


「臆病な男だ。正解かもしれないが、それでも臆病だ」


 ジゼルは細く連なる、幾つもの石をただじっと見つめた。

 アダムがそっと女帝に歩み寄り、囁いた。


「シルヴィア様、贈り物が届いております」


 彼はしわがれた手を女帝の首に回す。そっと離れると、白い胸元に深紅の首飾りが光っていた。


「幻から醒めたとき、この石を見て何を想われるのでしょう?」


 誰に言うでもなくアダムが呟いたときだった。女帝の頬を一筋の涙が伝った。だが、虚ろな微笑みはそのままだった。


「やるせないものだ」


 アダムが唇を歪ませる。


「さぁ、伝令の女王。これであなたの務めも終わりです。エイモスの墓前にご報告なさい。シルヴィア様は確かに首飾りを受け取ったと」


 ジゼルは深く礼をし、そして、アダムを見据えてこう呟いた。


「あなたも辛い道なのですね」


「何故、そう思われる?」


「好いた人が誰かの幻に微笑む様をずっと傍で見ていなければならないんだもの」


 ふっと、アダムが苦笑した。


「歯に衣着せぬ性分は、母上に似たのかね? いかにも、私もエイモスやシルヴィア様同様に哀れなのかもしれませんな。だが、傍にいても私を見てくれないのは、今に始まったことではないのでね」


 言葉を失うジゼルに、彼は微笑んだ。


「それでも思うんだよ。私は彼女に出逢えただけでもいいんだと」


 それは、すとんと落ちるような声色だった。

 神殿を出ると、蔦の王があぐらをかいて座り込んだまま、ジゼルを見上げた。


「驚いたかい? シルヴィア様とお会いしたんだろう?」


「えぇ」


 ジゼルが苦笑いをした。すると、蔦の王が「仕方ないのさ」と背伸びをしながら言う。


「シルヴィア様のおかげで飢えずに生きている者がいる。そう思うしかないんだ」


「そういうものなのかな」


 ジゼルが歩き出した。地の女帝の慣しに口を出すことなど、誰が出来よう。たとえ自分が地の精霊の眷属だったとしても許されはしないことなのだろうと、彼女は考えていた。


「またおいで。伝令の女王」


 背中越しにかけられた声に振り返ると、蔦の王が屈託のない笑みを浮かべていた。


「伝令があれば、いずれまた」


 そう言って、彼女は神殿に根を張る巨木を見上げた。石造りの神殿を押さえ込むように根を張るそれが、天然の檻のように見えた。

 歩き出しながら、彼女はセシリアに言う。


「死んだように生きたのは、エイモスだけじゃなかったのね」


「そのようだ」


 肩の上で同意するセシリアが、首を横に振った。


「好かないね。どうにも」


「そうね。でも私たちは傍観者だわ」


 たき火の爆ぜる音に似た鳴き声が上がる。目の前に神隠しの闇が広がると、ジゼルは逃げるようにその中に飛び込んだのだった。


 冥界に戻ったジゼルは、真っ先に父のもとへ向かった。


「父上、ただいま戻りました」


「よく戻った」


 玉座のパーシヴァルが切ない笑みを浮かべた。


「シルヴィア様は相変わらずか。お前の浮かない顔を見れば、大体わかるよ」


 ジゼルは苦笑したが、すぐにふっと顔を曇らせた。


「父上、シルヴィア様の幻影が解かれるとき、彼女は何を想うのかしら?」


「さてね。そればかりは本人にしかわからないな」


「見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かず。まるで今までの自分を見せられたようだったわ」


 独白にも似た声が小さな唇から落ちた。


「だから、私は冥界に閉じこもり、精霊界にも行こうとは思わなかった。けれど、精霊界を知って、心が躍ることもあった」


 小さな手がぎゅっと握られる。


「たとえ辛いことでも、苦しいことでも、感じるのが生きることなのかもしれないわ。あれは生きていながら死んでいると同じだもの」


 ふっと、パーシヴァルが形のよい唇をつり上げた。


「そうだね。今までお前が死んだようだったのは、自分で自分の心を殺していたからだ」


 顔を上げると、彼は力強く頷いている。


「飛び込んでごらん。世界はお前を拒みはしない。拒むとしたらお前自身だ」


「世界に苦しいことしか見出せなくても?」


「そう。幸せに出逢えるかわからない。それはとても恐ろしいことだ。私もナディアと出逢うまではそうだった」


 黄泉の帝王となるには、時の女帝という伴侶を見出さなくてはならない。その試練を越えた父が笑う。


「探さなくては、見つかりはしない。幸せと出逢えなかったらなんて恐れる前に、足を踏み出すことだよ」


 そして、彼は悪戯っぽく目を細める。


「大丈夫。お前にはもう会いたい相手が少なくともいるんだからね」


 ジゼルの脳裏に、あの鉄紺色の魂が思い浮かぶ。


「えぇ。そうね」


「あの魂の持ち主とどんな巡り会いをするのかは知らないが、会いたいと思うこと自体が奇跡なんだよ」


 パーシヴァルの声は、ジゼルの心に沁み入るようだった。


「自分を愛してくれなかったら。見てもくれなかったら。そう思うと怖い気持ちは私もよく知っている。お前の母のおかげでね。それでも、声をかけなければ気づいてもらえない。手を伸ばさなければ握ってもらえない。自分から動かずに一人で悶えていることは、なんとも虚しいものだ」


「父上も、そうだったのね?」


 すると、彼がにやりと笑う。


「お前の母親には、随分と手を焼いた」


 ふと、彼は天井を仰ぎ見た。


「願っても、エイモスのようにそれが叶うとは限らない。それでも、一人でうずくまるよりは、ずっと生きている気がする。お前に託したエイモスの想いを、無駄にしてはならないよ。お前はそこから何かを感じ取って、人生を刻まなければならない。エイモスはきっと、それを教えたくてお前に伝令を託したのだから」


 ジゼルは黙ってそれを聞いていたが、ふっと笑う。


「確かに先代の伝令の王は、私に大事なことを教えてくれた気がするわ」


 彼女は一礼し、踵を返す。向かった先は、エイモスの墓だった。

 石造りの墓標を彩る花はまだ新しい。ジゼルはそこに誰もいないと知りつつも、語りかけた。


「エイモス。伝令は終わったわ」


 そして、目を閉じる。彼の最後の顔を思い出しながら。


「私は逃げないから安心して。どんなことでも感じて受け入れて行くわ。それが生きていくということだもの。あなたやシルヴィア様ができなかった生き方を、やってみる」


 矢車菊色をした瞳に、力強さが滲む。ふと、口許に笑みが浮かんだ。


「見ていてね。きっと、私は天命に抗ってみせる」


 その言葉は、かつて女帝となる直前にシルヴィアがエイモスに捧げた言葉と同じだった。

 だが、この墓にまつられた老いた精霊がいなくなった今では、そのことを誰も知るよしもなかった。

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