第三章

精霊の竪琴の魂

 翌日、テッドの元に舞い込んだ仕事は、二人の若者の埋葬だった。一人の女性を奪い合った喧嘩の末に、小刀で刺し違えたらしい。土をかける背後で、若者の両親たちが泣き崩れていた。

 愚かな男たちだと思いながら、テッドは真新しい墓標を見つめた。彼らは一時の情熱ですべてを失ったのだ。

 それでも、テッドは一抹の羨ましさを拭いきれずにいた。彼女をこの腕に抱けるなら何を失ってもいいという衝動に駆られた彼らが、愚かながら眩しかった。テッドにも、そんな滾る想いに覚えがあった。今はもう、捨ててしまった感情のはずだったが。

 それなのに、その日はやたらと脳裏に一人の女性の姿が思い浮かぶのだ。墨色の髪と露草を思い出す色の瞳、そして彼の名を呼ぶ、あの唇を。


「……参りましたね」


 彼は口の中で呟き、ダスティンが唱え始めた死者の祈りに集中しようと努めた。

 心の奥底にしまい込んでいた彼女の姿がこんなにも思い出されるのは、今夜はあの魂の話をしなければならないと思うからだ。彼は苦々しく、目をつぶったのだった。


 夕方、ナディアは頬杖をつきながら、食卓の上にある小壜を眺めていた。ジゼルが持ってきた小壜は手の平に収まるほどの大きさで、ナディアはじっとその瞳に小壜を映している。


「ねぇ、テッド。本当にこれを飲むつもり?」


「どうしましょうね」


 テッドは向かい側で業務日誌を書きながら答える。


「冥界の食べ物を食べ続けなきゃいけないのは不便ですが、食費が浮くと思えばいいんでしょうか。好き嫌いはない質ですし、ジゼルが運んでくれるなら買い出しに行く手間も省けます」


「そろばん頭、問題はそこじゃないってわかってるでしょ?」


 ナディアは聞こえよがしに大きなため息をついた。


「テッドが精霊と同じ寿命になったら嬉しいけど、複雑だわ」


「どうしてです?」


 思わず業務日誌から目を上げると、彼女は椅子の背もたれに体を預けた。


「私とはずっと長く一緒にいられるけれど、他の人間とは一緒に老いることはできないんだもの。それは残酷なことよ」


「なるほどね」


 彼はふっと鼻で笑った。


「僕は平気ですよ。ずっと一緒にいたい人間は、もういませんから」


 ナディアが哀れみにも似た目になった。テッドが初めてずっと一緒にいたいと願った、あの女性を知っているからだった。

 テッドは日誌を閉じ、彼女を真っ向から見据えた。


「それよりも、ナディアが一緒にいたいのは、本当に僕なんですか?」


「どういう意味よ?」


「単に不思議なんです。あなたを生み出すほどの強い想いを寄せてくれる主を持ちながら、どうして頑なに僕といるのか」


 黙ったまま俯くナディアに、言葉を畳み掛けた。


「あなたは主の願いを知っているはずですよ。なのに、ここにいる。会いたいとは思わないんですか? 自分を生み出してくれた持ち主に」


 長い沈黙があった。ナディアは小壜を手のひらで転がしながら、唇をきつく結んでいたが、やがて擦れた声が漏れた。


「会いたくないわけじゃない。でも、許せないのよ」


 ナディアが長いため息をつく。


「彼女は私を欲しいと願っているわ。あの子にとって、育ての母親の思い出がつまった楽器だもの。その気持ちはわかるの」


「では、何故?」


「私を置いていったからよ。そして願うばかりで迎えに来ない。本当に私を欲しいと思うなら、自分で手を伸ばしてくれなきゃ駄目よ。そうでなきゃ私はあの子の物にならないわ」


 その言葉はテッドの胸の奥底にしまいこんだ傷口をなぞるようだった。

 彼も、似たような言葉を言われたことがあった。本当に、今日はよくあの人を思い出す日だと苦笑し、こう呟く。


「その理由を知っているんですか? もしかしたら、ジゼルの母親は、やむなく置いて行ったのかもしれないですよ。現に捜したと言っていましたしね。手を伸ばしたくてもできなかったのかもしれないじゃないですか」


 僕があの人にそうだったように。そんな言葉を呑み込んだテッドに、ナディアが首を横に振った。


「何が起こったかはよくわからないわ。だけど、あの男が関係していたと思うの」


「あの男?」


「ナディアと一緒に旅をしていたパーシヴァルって奴よ」


「あぁ、通行手形の証明書によると、彼女の夫でしたね。ということはジゼルの父親になるんですね」


「あの証明書は偽造よ。でも、彼と一緒に旅をするようになってからナディアは変わった」


 ふと、彼女は眉を下げて笑う。


「多分、彼女にとってはよかったんだろうけどね。私にとっては主を失うきっかけだったから複雑よね」


 テッドはふっと彼女の後ろに見える本棚に目を留めた。彼女がやたらと神話や精霊の話を知りたがったのは、主が消えた手がかりを捜していたのだと気づいたのだ。持ち主の吟遊詩人はきっと人間界にいた頃から精霊と関係していたのだろう。

 ナディアはまた琥珀色の小壜を手で転がし始めた。テッドには、その姿がまるで子どものように見える。寂しがりで会いたいくせに、素直になれない。彼女は強がりなのだ。

 そのときだった。音もなく部屋の隅に闇が広がり、ナディアが「来たわ」と小さく呟いた。

 闇の向こうからジゼルが白い鳥を伴って現れる。


「こんばんは」


 無邪気に挨拶するジゼルに、ナディアが応えた。


「あんた、母親に似てないわね」


「そう? そっくりって言われるんだけどな」


「顔じゃないわよ。性格が。あの子はそんな風に笑って挨拶なんかする質じゃなかったわ」


「へぇ。今は朗らかなのに」


「そう……変わったのね」


 ナディアの笑みが、どことなく寂しげに広がる。まるで置いてきぼりにされた猫のようだ。


「さて、今日はどんな魂なの?」


 目を輝かせるジゼルに、テッドは懐から淡く光る魂を取り出した。


「これです」


「今度の魂は深い緑色なのね」


「えぇ。きっと、これは祖母の記憶の色です。この魂の話をするには、僕にはちょっと覚悟がいります」


「どうして?」


「僕の恋人の話をしなければならないからです」


 ジゼルが「えっ」と小さく呟き、顔を赤らめた。


「おや、恋愛には奥手なんですか? そんな顔をされると、余計話しにくいんですが」


 からかうように言うと、ジゼルはもっと顔を赤くして俯いた。ナディアが肩をすくめて「とりあえず、座ったら?」と、促した。


「あ、うん」


 どぎまぎしているジゼルに、ナディアが初めて笑みを漏らす。


「……やっぱりあの子に似ているわ。そういう恋愛に疎いところ」


 テッドは椅子に座り、少しの間、目を閉じた。

 露草色の瞳を思い出しながら、ずっとしまい込んでいた大切な本を開くような気持ちで、言葉を紡ぎ出したのだった。


 この魂の想いを語るには、まずグロリア・クィントンという少女のことを話す必要があった。

 この墓地のはずれには雑木林が広がっている。その真ん中を小川が通っているが、それを遡ると一軒の屋敷にぶつかる。小川はその屋敷の敷地を通って流れてくるのだ。

 その屋敷の主こそ、彼女の生まれ育ったクィントン家だった。貴族の流れも組む、この辺りでは有名な富豪で、グロリアはこの家の末娘だった。墨色の豊かな髪と露草色の瞳を持ち、その美貌と慈悲深さは家柄同様、名高かった。


 テッドが彼女を初めて見かけたのは、クィントン家の葬儀だった。

 テッドは十歳で、グロリアは九歳という年だった。

 この墓地の中でも一際立派な墓標が、グロリアの母親の墓だ。棺がそこに埋められるのを、テッドは家の窓から遠巻きに見ていた。

 家柄のためだけではなく、当主の妻は人柄がよかったこともあり、大勢の参列者がいた。誰もが悲壮に満ちた面持ちで、心から故人を悼むすすり泣きが聞こえる。

 その人だかりの一番前にはクィントン家の長男のキースが立っていた。その隣に心細そうに立っていたのが、妹グロリアだった。

 グロリアは墨色の髪を結い上げ、黒い帽子をかぶっていた。露草色の目は、涙をたたえているが、泣きじゃくることはなく、唇を噛んでじっとしていた。

 テッドはその様子に、色白で華奢な女の子を抱きしめてやりたくなった。母のいない悲しみは、彼も知っている。だが、母親を思い出したくても思い出せない自分はまだマシだという気がしたのだ。つい昨日までそこにある温もりを突然失うほうが、きっと辛いのだろう。増して、まだ幼いというのに、彼女は哀しみに打ちひしがれないように、じっと耐えている。

 テッドには彼女が強く見え、密かに感嘆し、同時に見惚れていたのだった。


 この辺りの風習に則って、グロリアは葬儀から一年間は、月命日に兄と連れだって墓地を訪れた。だが、翌年からは一年に一度、命日だけやって来た。

 テッドはそのたびに、声をかけることもできず、ただじっと見つめているだけだった。

 グロリアは毎年、少しずつ背が伸びていった。髪が伸びたなと思う年があれば、ばっさりと切りそろえられた年もあった。そして、彼女の変化を見つけるたびに、テッドはどぎまぎするのだった。


 いつしか、テッドは十三歳になった。父のレイが病を患う前のことだ。

 いつものように質素な昼食をとっていると、墓守小屋の扉を叩く音がした。


「どなたでしょう?」


 父が扉を開けると、そこに立っていたのはキースとグロリアだった。

 テッドは思わず椅子から立ち上がる。今まで遠巻きにしか見ることができなかった彼女がすぐ傍にいる嬉しさに舞い上がり、頬が染まった。

 だが、グロリアは瞼を赤く腫らし、暗い顔をして俯いている。その手には、蓋をした箱を抱えていた。


「これはキース様、このような場所においでとは恐れ多い。いかがなさいました?」


 レイは慇懃に礼をした。誰にでも丁寧な応対をする父ではあったが、クィントン家の者には、殊更だった。この墓地の土地を神殿に寄付したのは、彼の祖先なのだ。

 キースは次期当主だけあって、凛とした男だった。グロリアとは十も年が離れていて、もうとっくに成人している。

 彼は厳かながらも丁寧にこう切り出した。


「すまないね、レイモンド。私の妹がどうしてもと言い張るものだから」


 その言葉に、父が俯くグロリアに優しく問いかける。


「この箱はどうなさいました?」


 だが答えはなく、キースが代わりに口を開いた。


「彼女が可愛がっていた猫の死体だ。庭に埋めなさいと言ったんだが、どうしても母の眠る墓地に埋めたいときかなくてね」


「そうでしたか……」


 レイの眉が下がり、目が細められた。それは、半分は同情の現れであり、残りは困惑だった。

 動物だけをこの墓地に収めることは出来ず、かといって埋葬後に棺を開けるには神殿の特別な許可が必要なのだ。いかにクィントン家の願いとはいえ、規則は守らなければならない。

 しかし、少女は箱を抱きかかえ、意固地になっているようだった。


「無理を言っているのは承知だが、この妹は思ったより強情でね」


 キースが優しくグロリアの小さな頭を撫でる。当の本人は唇を尖らせて、ひたすら俯いていた。


「さてはて、どうしましょうか」


 困り果てたレイの服を、テッドは咄嗟に引っ張った。


「父さん、井戸の傍にある大きな木の下なら、この猫もきっと木陰で休めるでしょう」


 それを聞いたキースは「そうか、木の下でも、墓地には違いないな」と、笑みを漏らした。


「グロリア様、その猫の名前を教えてください」


 レイの言葉に、彼女はやっと小さな口を開いた。


「……サラ」


「わかりました。それではこれからサラの葬儀を執り行いましょう」


 レイはそう言って、井戸の傍まで彼らを案内した。

 井戸の傍には大きな木が生えていたが、植物に疎いテッドにはなんという名前なのかわからない。ただ、それは毎年のように大きな葉を茂らせ、春には香りのよい花を咲かせ、夏になると木漏れ日を生み、秋には鮮やかな赤に染まって美しく散るのだった。

 レイは、その根元に箱が埋まるほどの穴を掘った。


「さぁ、グロリア様。お別れを」


 そう促されると、グロリアの大きな目から初めてぽろりと涙がこぼれ落ちた。


「……さよなら、サラ。これからは母上の膝の上で丸くなるといいわ」


 箱は穴の底に置かれ、レイによって死者への祈りが唱えられた。

 端から見ればままごとのようなものだったが、グロリアは満足した様子で、幾分顔つきが和やかになっていた。

 レイが土をかけている間、テッドは咄嗟にあることを思いつき、小屋へ駆けて行った。


「グロリア様、これをどうぞ」


 このときはまだ、テッドは彼女を『グロリア様』と呼んでいた。

 戻ってきたテッドが差し出したのは、ダスティンから誕生祝いにもらった猫の置物だった。


「これなら、サラも寂しくないでしょう?」


 そう言いながら、テッドは置物を墓標代わりに置いた。


「えぇ、素敵だわ。ありがとう」

 

 そう礼を言い、グロリアが嬉しそうに微笑んだ。

 テッドはその笑顔を見るなり、金縛りにあったように体が動かなくなってしまった。みるみるうちに顔が熱くなり、言葉が出ない。

 彼女は笑顔になるともっと可愛いのだと初めて知ったと同時に、あっけなく初めての恋に落ちた瞬間でもあった。


「レイモンド、礼を言うぞ」


 キースはグロリアの綻んだ顔に満足したようだった。

 墓地の前に寄せられた馬車に乗り込むまで、グロリアは何度かテッドを振り返ってくれた。

 レイの隣で、テッドは遠ざかる馬車を見つめながら呟く。


「……また会いたいな」


 思わず口をついて出た言葉に、父は申し訳なさそうに頭を撫でた。


「すまないな。こんな仕事をしている俺のせいで、友達ができないだろう」


 危うく頷きかけたテッドは、慌てて首を横に振る。彼と同年代の子たちは、墓守の子だとわかると決まって「不吉だ」と顔をしかめて離れていく。そうとわかって微笑んでくれたのは、グロリアが初めてだった。


「大丈夫、きっとまた会えるさ」


 レイはそんな息子を見透かしたのか、励ますように囁いた。


「……それはそうと、あの猫の置物を墓標にしたことはダスティン様に内緒だぞ」


 二人は顔を見合わせて笑うと、小屋へ戻った。


 次に彼女に会ったのは、テッドが父の葬儀の喪主となり、十五歳にして墓守になったときだった。

 短く、そして侘びしい葬儀だった。参列者はダスティンとその妻以外、誰もいなかった。父には身寄りもなく、友人もいなかった。

 ダスティンは墓守としての初仕事を終えたテッドを励ますように抱擁し、死者の祈りを捧げた。そしてむせび泣く妻を連れ、神殿に戻っていった。

 夕方、誰もいなくなった墓地で、テッドは立ち尽くしていた。


「テッド、中に入らないと風邪をひくわよ」


 気遣うナディアに、彼はそっと首を横に振った。


「すみません。しばらく一人にしてください」


 ナディアが「わかった」と言い残し、小屋に戻ったのを見届けると、彼はたまらず泣き出した。

 膝をつき、土を掴み、心のままに声を上げる。在りし日の父の姿が次から次へと泉のように沸き出し、涙は地面を濡らしていく。

 辺りが暗くなってきた頃には、すっかり泣き疲れていたが、力なくへたりこんだ彼の目からは音もなく涙が溢れて止まらないままだった。

 そのときだ。馬のいななきが高らかに響き、一台の馬車が墓地の入り口に横付けされた。

 テッドは振り返り、呼吸を忘れて呆気にとられた。馬車から降り立ったのは、喪服姿のグロリアだった。


「遅くなってしまって申し訳ありません。本来なら葬儀も参列するべきでしたが、知らせを聞いたのが遅過ぎました」


 駆け寄ったグロリアがそう言って詫びた。

 久しぶりに聞いた彼女の声は細く可愛らしいもので、それでいてどことなくキースを思わせるような凛々しさがあった。テッドは涙と鼻水でひどい顔を慌てて拭い、立ち上がる。


「グロリア様、わざわざご丁寧にありがとうございます。父も喜びます」


 名士と名高い富豪の娘が、たった一人で墓守の埋葬に駆けつけるなど、本来は恐れ多いことだった。だが、彼女は親しみをこめて目を細める。


「レイモンドがサラを手厚く葬ってくれたこと、このグロリアは決して忘れません」


「あぁ、あのときの猫ですか」


「今ならわかります。墓守にしてみれば、とんだ茶番だったでしょう。でも、あなたのお父様は真剣に死者の祈りを捧げてくれました。私にはとても嬉しかったのです」


 彼女は黒い手袋を脱ぎ、テッドの手をそっと取った。


「さぞお辛いでしょう。私も母を失っていますから、似たような苦しみを知っています」


 その言葉は、テッドの心にすっと沁み入った。安易に『その気持ち、わかります』などと言われるよりもずっと気が楽だったのだ。

 幼い日、母を失った彼女は瞼を腫らしながらも、毅然としていた。少なくとも、テッドにはそう見えた。だからこそ、あのとき魅かれ、そして彼女をそっと労りたいと願った。

 しかし、願うだけだったのだ。なのに、目の前の彼女は情けなく泣き崩れるテッドを励まし、労るために駆けつけてくれた。

 テッドは戸惑いながら、手を重ねる。


「ありがとうございます。あなたは本当に強い方だ」


 だが、彼女は首を横に振った。


「私は無力です。ただ、あなたが気がかりで居ても立ってもいられなくて、屋敷を抜け出してきました」


 彼女はほんの少し頬を染めて、テッドを見つめていた。


「いつも母の墓参りに来るたびに、あなたは遠くから私を見ていましたね?」


 思わずギクリとした。彼女が自分の視線に気づいていたとは、思いも寄らなかった。


「私、あなたとずっとお話してみたかったんです」


 その言葉を、テッドは夢見心地で聞いた。


「私には友人と呼べる者がいません。父や兄は限られた者しか私の傍に置きませんから。隙あらばクィントン家のおこぼれにあずかりたい者ばかりだからです」


「家柄はともかく、友人がいないのは同じですね」


 彼らは互いに苦笑し合う。


「ずっと、同じくらいの年の子とお話してみたかったんです。だけど、お兄様の目が厳しくて」


「それで、今日はお忍びで? 意外とお転婆ですね」


 思わず口をついて出た本音に、彼女は気を悪くするどころか声を上げて笑った。

 あぁ、本当は無邪気に笑う子なんだ。そう、テッドが見蕩れていると、彼女は握ったままの手に力をこめて囁く。


「お友達になってくださいます?」


 テッドの心臓が彼女に聞こえるのではと思うほどの爆音をたてた。


「でも、僕らは簡単には会えないでしょう。僕は今日から墓守です。墓守がクィントン家の門を気軽に叩くわけにはいきませんよ」


 彼女はすっとテッドから手を離した。

 その途端、テッドの中に名残惜しさと同時に怯えにも似た不安がよぎる。彼女も墓守と親しくなることに躊躇するだろうか。そう思ったとき、彼女は悪戯っぽく、えくぼを作った。


「それでは、合図を送りますね」


「合図?」


「この墓地の横を流れる小川は私の庭を通っています。お会いできる日は決まった時間にその小川に花びらを流します。お父様もお兄様も外出すれば、私一人で庭にいても平気ですから。その庭でお会いしましょう」


「でも、どうやって入ればいんですか?」


「小川を遡ってください。蔦が降りている塀に突き当たると思います。その陰に小さな扉があるんです。そこから直接、私の庭に入れます。鍵は開けておきますね」


 まるで小説にあるようなしのび逢いだとテッドはどぎまぎしたが、彼女にとってはそれが唯一の友人と会える手段だったのだ。

 一人で緊張しているテッドに、彼女はどこまでも無邪気に笑った。


「きっと、来てくださいね。たくさんお話しましょう」


 そして、花びらを流す時間を取り決めた彼女は、馬車に戻りながら何度も手を振っていた。


「ちょっと、テッド。何をニヤニヤしているの」


「うわぁ! 驚かさないでくださいよ」


 ぼうっと突っ立っていたテッドの隣に、いつの間にかナディアが呆れ顔で立っていた。


「何が驚かさないでよ。何回あんたを呼んだと思ってるの?」


「えっ? あぁ、それはすみません」


 ナディアがにやにやしながら、テッドを見ている。


「十五にもなって初々しいこと。遅咲きの初恋は大変ねぇ」


「そんなんじゃありませんよ」


 そうは言ったものの、自分の顔が熱くなるのはわかった。ナディアがどんとテッドの背中を叩く。


「まぁ、悔いのないように頑張りなさい」


「頑張ることなんてありません。ただの友人なんですから」


「そう?」


 意味ありげににやけるナディアを軽く睨んで、テッドは髪をかきあげた。

 墓守なんて、彼女にしてみれば物珍しいだけの存在だろう。自分でそう思っておきながら、ため息を漏らした。さっきまで膨らんでいた気持ちが、まるで穴の開いた風船のようにしぼんでいく。

 感情が浮き沈みし過ぎて、疲れる。それが恋の理だと知らないまま、彼はそんなことを考えていた。


 それからというもの、テッドは約束の時間になると、小川へ行くようになった。小川を遡ると屋敷を囲む塀にぶつかる。その塀の下から小川が流れているのだが、鉄格子で川底まで塞がれていた。

 約束の時間になっても花びらが流れない日は、自分でも驚くほどがっかりした。けれど、ゆらゆらと白や赤の花びらが見えたときの歓びは言葉にならないものだった。

 初めて花びらが見えた夜、テッドは恐る恐る蔦の奥にある扉を開けた。その向こうにあったのは、高い垣根で囲まれ、小川をひいた庭だった。そこかしこに色とりどりの薔薇が咲き誇り、小川のそばにある白い東屋の柱にも、赤い薔薇が絡まっていた。

 彼女は東屋の椅子に腰掛けていた。テッドを見つけた彼女の顔が綻ぶ様に、思わず見惚れる。


「来てくださったのね」


 歩み寄る彼女が、無邪気に笑った。その美しさは綻ぶ薔薇の花そのものだった。

 彼らは、それから何度となく会うようになった。

 グロリアはどこまでも無邪気で、無知だった。学問には秀でていても、世間のことは何一つ知らないのだ。好奇心旺盛で、墓守の仕事内容すら面白いと目を輝かせて耳を傾ける。

 逆に、テッドは彼女が教えてくれる地理や歴史、美術といった学問の話が気に入った。特に天文学の話はテッドを夢中にさせた。

 何度目かの夜、別れ際に彼女は名残惜しそうにテッドの手をとった。


「またいらしてね。絶対よ。今度は街で人気のお芝居のお話をしてね」


 繋いだ手の感触に、思わず顔が赤くなったテッドにつられるように、彼女も頬を染めてしまった。


「まぁ、私ってば。いつもお兄様に叱られるのよ。お前は警戒心というものがないって」


 キースの言葉は当たっていたのだ。グロリアはクィントン家にとって何処の馬の骨ともわからぬ男を庭に誘い入れ、そしてあっという間に恋に落ちてしまったのだから。

 胸に沸き起こる衝動のまま、テッドは彼女の頬に口づけをした。


「おやすみなさい、グロリア」


 テッドは返事も聞かず、走って庭を出て行った。小川を下りながら、思わず叫びたい衝動をぐっと堪えながら走る。頭上で輝く星の美しさを、テッドは生涯忘れないだろうと思った。


 二人の恋はおそろしく幼稚で、無邪気だった。ただ二人で見つめ合い、手を握っているだけで呼吸すらできなくなる。手に、頬に、額に口づけするだけで、テッドはその夜はなかなか寝付けないのだった。


「ねぇ、テッド。あなたの瞳って綺麗ね」


 そう言ったグロリアに、テッドは目を細めた。


「ありがとう、グロリア。それからね、テッドというのは愛称なんだよ」


 テッドはいつしか彼女を『グロリア様』ではなく『グロリア』と呼ぶようになっていた。


「僕の本当の名前はセオドアと言うんだ。家族しか知らないけどね」


「まぁ、普通は親しい人ほど愛称で呼ぶものなのに。どうして最初からセオドアと名乗らないの?」


 テッドは胸が締め付けられるのを感じながら、微笑んだ。


「本当の自分を晒さずに生きろと父に教えられたんだ」


 精霊の力を恐れた父は、ありのままの自分でいることを禁じた。戦場ですべてを焼き払った日のように、感情のままに生きれば精霊の力を使ってしまうのではないかと危惧したのだ。そして、テッドに火の力がなくても、同じ生き方を強要した。

 テッドはそれをありがたいとさえ感じていた。少なくとも自分には物憑きの精霊が見える。それは紛れもなく祖父の鍛冶の力を受け継いでいることを示している。火の力を秘めていても不思議ではない。

 鍛冶の力も感情を爆発させたとき何も起こらない保証はないし、どんな拍子に火の力まで目覚めてしまうかわからないからこそ、恐ろしかった。。

 何も知らないグロリアが無邪気に笑う。


「私もセオドアって呼びたいわ。だって、特別な人しか呼べないんでしょう?」


 愛しい。けれど怖い。この頃のテッドはそんな感情を併せ持つようになった。

 恋ほど素の自分を晒すものがあるだろうか。恋ほど感情を荒ぶらせるものがあるだろうか。彼女を愛すれば愛するほど、恐怖も大きくなっていた。しかし、テッドは彼女との蜜のようなひとときから逃れる術を知らなかった。


「……もちろん。グロリアに呼ばれるなら」


「愛してるわ、セオドア」


 小川のせせらぎの中、彼らは初めて唇を重ねた。少し照れたような伏し目が愛おしく、思わず抱き寄せる。胸にこびりつく恐怖をかき消すように強く、強く。


 ある日のことだった。

 ナディアがテッドをじっと見て、ため息を漏らした。


「ねぇ、テッド。あんたの恋がうまくいくのは嬉しいけど、心配だわ」


「何がです?」


「あの子とずっと一緒にいるつもり?」


「そう願いたいです」


 テッドは力なく呟く。二人の行く末に暗雲が立ちこめているのは、わかっているのだ。

 身分が違うのはもちろん、テッドには精霊の力がある。思い出すのは苦悩する父の姿だった。母を知らずに焼いた父のように、もしかしたら自分の子は祖父の火の力を受け継ぐかもしれない。そんな恐怖がつきまとう。

 彼らはとっくに、口づけだけでは想いを伝えきれなくなっていた。グロリアはテッドの前でだけは、クィントン家の者ではなく、一人の女なのだ。そしてテッドもまた、彼女を求める一人の男に過ぎない。

 誰から教えられるでもなく、どうすればこの想いが満たされるのか、どうすれば彼女の情熱を汲み取ってあげられるか、本能が知っている。

 だが、その衝動に襲われるたび、テッドは差し伸べた手を戻した。自分と結ばれても、何一つ彼女にとっていい事はない。庭でしのび逢っているだけでも、罪深いのだ。万が一彼女が自分の子を身ごもったらと思うと、手が震えた。

 そのくせ、テッドは彼女との時間に抗えなかった。どうやって彼女から離れていいかなど、見当もつかなかったのだ。


 テッドの中に居座り始めた不安は、日に日に胸を浸食していった。心がずしりと重みを増すと、それに引っ張られるように体も重苦しくなる。

 沸き起こるものがないのだ。気力、体力、食欲、そして希望……すべてが萎え、ただ切ないため息だけを落とすのだった。

 だが、彼はグロリアと会うときだけは努めてそんな気持ちを押し隠していた。彼女に悟られまいとして、ひたすらに笑みを繕っていた。

 ところがグロリアは、すぐにそんな異変を感じ取ってしまったのだ。


 それは真夏の出来事だった。

 いつものように庭で会った二人は、別れ際に身を寄せ合った。

 グロリアの細い腰を抱き寄せ、テッドはその背中に手を回す。いつも『また必ず会いましょう』という意味をこめて、きつく抱きしめるのだ。ところが、この日は不安が伝わるのが怖くなり、まるで卵を包むようにした。

 知らず知らずにため息が漏れ、テッドは目を閉じた。無性に涙が出そうだ。こうして抱擁している幸せが、あまりに幸せすぎて泣けてくる。

 温かな温もり、柔らかい肌、そして匂い立つ香り。すべてはいずれ手をすり抜けていく。それが今、こうして自分の腕の中にいるだけで、奇跡に思えた。

 背中に彼女が強くしがみついてくるのを感じ、彼は唇を噛む。彼女の心を壊したくなかった。別れを告げれば、彼女の健気な心は硝子細工のように砕け散ってしまうだろう。そう確信できた。

 やがて、テッドの腕の中で、擦れた声がした。


「セオドア、私に何か隠していない?」


 ぎくりと体を震わせたテッドを、彼女はじっと見上げている。その目が月明かりに輝き、震える声で囁いた。


「他に想う人でもできた?」


「まさか!」


 思わず大声を上げた途端、彼女の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ出した。


「だって、私といても他のことに気を取られてるの。ここにあなたの心がないの」


 テッドはぎくりと身を震わせた。女性というのは、違和感を敏感に感じ取ることに長けている生き物らしい。それとも、グロリアだからわかったのだろうか。

 焦りがテッドを苛んだ。見透かされたからか、泣かせてしまったからかは、わからなかったが。


「グロリア、今は言えないんだ」


 彼は観念したように呟いた。


「自分でもどう話していいかわからない。少し、時間をくれないか?」


 しばしの間、彼女はじっとテッドを見つめていたが、やがて小さく頷いた。その拍子にこぼれた涙を指ですくい、テッドは祈るように囁く。


「でも、これだけは信じて欲しい。僕にはグロリアだけだから」


 そう言って、彼女を抱きすくめた。


「グロリアさえいれば、何もいらない」


 背中にしがみつく手から、グロリアの歓喜が伝わる。あまりの愛おしさに目眩がし、テッドは荒々しく彼女の唇を奪った。

 このひとときを他の誰かに譲りたくない。でも、どうすればいいだろう。途方にくれながらも、テッドは彼女に精一杯の笑顔を見せた。


「おやすみ」


 この言葉を贈れるのは、これから先も自分でありたい。そんな想いを胸に、庭を出る。

 グロリアの名残惜しそうな顔が扉の向こうに消えたときだった。


「遅いわよ、テッド」


 思わず声を上げそうになった。ナディアが扉の横に立って彼を待っていたのだ。


「覗き見ですか? いい趣味ですね」


 顔を真っ赤にさせたテッドと裏腹に、彼女は涼しい表情だ。


「人の濡れ場を見て興奮する趣味はないわ」


「濡れ場ってほどでもないと思いますが」


 ふくれっ面のテッドを無視し、ナディアが眉を寄せる。


「テッド、なんだか変なのよ」


「僕がですか?」


「確かに色ボケしてるあんたもだけど、それ以上に寝室にある竪琴が変なの」


 テッドの眉がつり上がった。寝室の戸棚に眠る竪琴は、父の遺品であり、剣の精いわく祖母縁のものだ。


「変とは?」


「見ればわかる。とにかく、帰るわよ」


 歩き出したテッドに、彼女は呟いた。


「竪琴の精霊の気配がするの。きっと、もうすぐ物憑きの精霊が目覚めるわ」


 テッドは思わず目を見開いた。

 祖父は愛しい人との子が欲しくても精霊の力に怯えるとき、精霊に会えと伝言を残していた。


「あぁ、今がまさしくそうなんですね」


 テッドは足元に目を落として呟いた。まるで裁きを待つ罪人のような気持ちになる。自分とグロリアの未来が、うっすらと予感できたからだ。

 覚悟していたはずの未来だ。けれど、必死に希望にすり替えて見ない振りをしていた未来でもあった。

 星空を見上げると、ふっと黒い雲が一等星を隠してしまった。その一等星が自分の希望のように思えて仕方なかった。


 家に戻ると、テッドも寝室から確かに精霊の気配がするのを感じ取った。グロリアと会うまではいつも通りだったはずだが、今は古ぼけた竪琴が光を放っていた。ナディアが生まれたときとそっくりな輝きだ。

 彼は竪琴を手にとり、優しく語りかけた。


「僕に何か言いたいのですね?」


 その途端、光は次第に人の形となり、気がついたときには目の前に一人の精霊が立っていた。白金色のまっすぐな髪と瑠璃色の瞳を持つ、凛々しい女性の姿だった。


「会いたかったわ、セオドア。いつも夢の中であなたを見守ってきたのよ」


 そう言って、彼女はテッドをそっと抱きしめた。


「クレアとイグナスの匂いがするわ」


「あなたは僕の祖母の想いを受けて生まれた精霊ですね?」


 彼女はテッドから身を離し、深く頷いた。


「そうよ。あなたの父親が生まれた日に宿り、イグナスが眠りの加護を施して今日まできたの。あなたの背中を押すために」


 彼女はテッドの手を取り、寝台に並んで座る。ナディアは何も言わず、テッドの左隣に腰を下ろした。


「もっとあなたを見ていたいけど、話してしまわなければね。そのために、私は生まれたんだから」


 そうして、竪琴の精霊は静かに語り出したのだった。

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