三つ目の答え

 竪琴の精霊が語り終えたとき、テッドは泣いていた。音もなく、とめどなく涙が頬を伝う。これは誰の涙だろうと、心のどこかで不思議がる自分がいる。ただただ胸がいっぱいだった。


「どうしてでしょうか?」


 彼の声は掠れていた。


「母も祖母も、どうしてそこまでして子を産まなければならなかったんでしょうか?」


「わからないわ」


 祖母の姿をした精霊が、皮肉な笑みを浮かべた。


「でも、愛する人の子を欲しいと願うのは自然なことだと思うの。命を紡いで、懸命に生きて、死んでいく。だから人生は繋がっていくんだわ。彼女たちは自分の心に従っただけ。そう思わない?」


 精霊の手がテッドの頬をそっと撫でる。


「人間って不思議だわ。泣きながら生きる。弱くて強い。だからこそ愛おしい」


 彼女はそっとテッドを抱き寄せ、柔らかく抱擁した。


「あなたもイグナスのように、自分の心のままに愛しなさい。少なくともクレアは後悔していない。だって彼女は『生きろ』と言ったんですもの。魂を燃やして生きなさい。たとえクレアのように身を焦がすことになっても。それでも人は命を紡ぐものだから」


 そう言いながら、精霊の体が透けていく。魂に還るときがきたのだ。彼女は次第に輪郭がぼやけて光に呑み込まれていた。


「とても若いあなたに言うのも変なんですが、一度でいいから呼ばせてください」


 テッドは涙でくしゃくしゃになりながら苦笑した。


「おばあちゃん、会いたかったよ」


 精霊が光の向こうで笑った気がした。するする小さくなっていく光に手を伸ばすと、それはあっという間に魂の姿になってしまった。

 テッドの手に降り立ったのは、深い緑色の魂だった。そっと両手で包み込むと、温もっているような気がした。


「きっと、祖母の一族が生きてきた森は、こんな色なのかもしれませんね」


 そう呟くテッドにナディアが歩み寄り、優しく抱擁した。そして、まるで母親のように言う。


「ねぇ、テッド。お願いだから、悔いがないように生きて。イグナスみたいに逃げてもいい。クレアみたいに立ち向かってもいい。あんたが自分の心に正直だったら。後悔しないでなんて言っても、どのみちするもんよ。だけどね、正直じゃなかったときの後悔ほど苦しいものはないから」


 彼女の言葉を聞きながら、それはきっとナディア自身のことなのだと、テッドはぼんやり考えた。

 華奢な背中をぽんと軽く叩いて、彼は何度か頷いた。

 薔薇の花びらを小川に散らすグロリアの姿を思い浮かべると、胸が苦しかった。くるくる回りながら漂う花びらの心もとない姿が、まるで自分自身のようだ。

 彼はこれから、心の流れに逆らわなければならないのだ。彼女の手をとろうが、振りほどこうが。固く閉じた目から、また涙がこぼれた。


 翌日、夕陽が妖しいくらい紅く空を染めていた。

 小川のそばに立つテッドは、そのせせらぎに心をざわつかせていた。目の前には、くるり、くるりと流れてくる花びらがあった。今日の薔薇は夕陽よりも濃い、まるで血のような紅だ。

 テッドは精霊の血を初めて恐ろしいと感じていた。あの剣の精霊から父親の話を聞いたときは、他人事のように感じていた。何故なら、自分には今のところ火の力は見当たらないのだから。

 それなのに、守るべき人ができると途端に彼は臆病者になった。強くあるべきなのに、無性に怖い。愛する人を失うのが、心底怖い。初めて父の気持ちがわかったような気がした。

 そのとき、馬のいななきが響き渡った。

 振り返ると、墓地の入り口に馬に乗った男の姿がある。


「キース様?」


 テッドは怪訝な顔をして拳を握りしめた。

 グロリアの兄である彼は、馬を墓地の入り口に繋ぎ、颯爽と歩み寄ってくる。その姿に言いようのない不安が襲い、同時に駆け出したい衝動にかられた。

 テッドを射抜くように見据えたキースの目は『逃げられないぞ』と言わんばかりに光っていた。


「これはキース様。このような場所によくぞおいでいただきました」


 冷静を装ったテッドに、彼は肩をすくめた。


「テッド、堅苦しいことは抜きだ。今日は男同士として話をしにきた」


 彼は傍らの小川をのぞき込み、唇をつり上げた。


「なるほど、これがお前たちの合図か」


 心臓がひやりとした。彼はテッドとグロリアの仲を知っているのだ。

 いつかこの日がくるだろうとは思っていたものの、何も言えずにいるテッドに、彼はため息を漏らす。


「まったく、お前は物わかりのいい男だと思っていたが、こんな冒険をするとはな」


「グロリアはキース様がご存知だと気づいているのですか?」


「……グロリア、か」


 彼は小さく笑うと、肩をすくめた。


「いや。妹は知らない。もちろん父もだ」


 彼はクィントン家次期当主に相応しい威厳に満ちた顔をしていた。


「だが、俺の目は節穴ではない。妹の様子が変だということも気づかぬわけではないし、使用人の口を割ることも容易だ。単刀直入に言おう。お前は手を引くべきだ。クィントン家の娘を墓守にくれてやるわけにはいかない」


 夕暮れの冷たい風が雑木林を揺らしていた。ざわめく木々の音が、やけに耳にこびりつく。


「……わかっています」


 そう、わかっている。だが、たいした問題ではないのだ。

 グロリアがクィントン家を捨て、どこか遠くの街で苦労をいとわずに共に暮らしてくれるなら、そんなことは些細なことだった。

 テッドが絶望していたのは、精霊の力だった。こればかりはどこへ逃げてもついてまわる。テッドの心臓が脈打つ限り、グロリアを精霊の火で襲ってしまうかもしれないという恐怖がつきまとう。


「妹はあぁ見えて強情でね」


 キースが困ったようにテッドを見る。


「お前から別れを告げて欲しいのだ。私があの子に忠告すれば余計に情熱を滾らせるだろう。火に油を注いで駆け落ちでもされたら堪らん。言っておくが俺がこう言うのは、クィントン家の人間だからというより、父に知れればクィントン家に更に縛られるグロリアが不憫だからだ」


 彼は寂しげに笑い、小川に歩み寄った。石に貼り付いた赤い薔薇の花びらを手にとり、しげしげと見つめる。


「あの子はいずれ、父の計らいで嫁ぎ先が決まるだろう。相手が誰であれ、グロリアに選択肢はない。だから俺は、お前との逢瀬に気づいてもしばらくは口出ししなかった。束の間だけでも心から好いた者との時間を過ごさせてやりたかったからだ。それは、俺には許されなかったことだからな」


 テッドは目を細めて、次期当主の横顔を見つめた。彼にもままならぬ想いがあるのか、その伏し目には思慕が浮かんでいた。


「だが、もうそれも終わりだ」


 彼は湿った花びらを、小川に投げ捨てた。立ち上がり、同情の目をする。


「近く、父はグロリアの婚約者を決めるために晩餐会を開く。そうすれば、お前はどのみち彼女に会えなくなる」


 薄い唇が苦々しげに歪んだ。


「それにしても、最近のグロリアは目に余る。心ここにあらずで、ろくに食事もとらぬ。お前が原因であろう?」


 胸に鈍い痛みが走った。

 精霊の力を打ち明けてしまえば、彼女は救われるだろうか。それとも、彼女も自分と同じ恐怖にとらわれるだろうか。もしかしたら、人でありながら人ではない自分から逃げ出すかもしれない。

 しばらくの間、テッドは思案に暮れた。キースはじっと立ったまま、答えを待っている。

 やがて、テッドは首にかけた銀の細い鎖を引っ張り出した。その鎖に通されているのは母の形見の指輪だった。彼女の瞳のような翡翠の玉があしらわれている。

 彼はそれを手に取り、慈しむように撫でた。


「キース様、これをグロリアにお渡しください。僕の想いはここにすべて封じます。会えなくても僕はこの指輪と共にあると、伝えて欲しいのです」


 テッドがグロリアとの別れを選んだ瞬間だった。

 キースは指輪を受け取り、夕陽にかざしてしげしげと見つめる。


「テッド、俺はお前に『男同士として』と言ったな」


 キースは指輪を握りしめ、吐き出すように言った。


「お前の決断はクィントン家の人間としては英断だと思う。だが、男としては興ざめだ」


「そうかもしれません。ですが、愛しているからこそ、別れることもあるのです」


 テッドは力なく笑った。涙を堪えるには、笑うしかなかった。


「僕はクィントン家の縛りなど恐れません。僕が恐れるのは、僕自身です。キース様にもグロリアにもお話することはできませんが、これだけは言えます。僕と共にいて、笑顔でいてくれたらこんなに嬉しいことはないでしょう。でも、その笑顔を失うとしたら、僕のせいでもあります」


 この血に潜んでいる火の力への恐怖が、いつか彼女との日々も蝕むくらいなら。彼はそんな言葉を呑み込んで、キースを真っ直ぐ見据えた。


「僕を恨んでもいい。ただ、彼女が生きて、子を産み、人生を全う出来るなら。でも、それは僕といては叶わぬことかもしれないんです」


 キースが呆れたように首を傾げる。


「お前が何を恐れているのかはわからないが、それで悔いはないのだな?」


「悔いがないわけなど、ありません」


 テッドは自嘲し、キースを初めて睨みつけた。


「だけど、僕は父のように強くはないのです。僕は父の抱えていた恐怖を知っています。難を逃れたと思ったら母を病で失った絶望も見てきました。それでも彼は、僕という忘れ形見を愛してくれました。でも僕は目の前で彼女を失うことに耐えられないんです。意気地なしと罵られてもいいんです」


 キースは指輪を懐におさめると、「妹にお前の言葉、そのまま伝えよう」と言って、馬の元へ戻った。

 立ち尽くすテッドを一度だけ振り返り、彼はこう言い残した。


「グロリアに夢を見させてくれて、兄として礼を言う。束の間とはいえ、あの子の愛情は濁りない。たとえ望まぬ結婚をしたとしても、この指輪が救いとなるかもしれぬ」


 馬の足音が遠ざかるのを聞きながら、テッドは風に吹かれていた。夕闇が忍び寄り、梟の鳴き声がし始めると、彼はその場にうずくまり、声を上げて泣いた。土を叩き付け、冷えた体をかがめ、自分の臆病さを呪う。誰かに殴られたほうがどれだけ楽だろう。胸がえぐられたようだった。


 その夜、テッドはグロリアの元へ行かなかった。

 墓守小屋でぼうっと暖炉の火を見つめ、指輪を失った銀の鎖を手でもてあそぶ。

 ナディアはキースと話している姿を見ていたのか、何も言わずにそんなテッドを横目で見ていた。

 そのとき、扉が激しく叩き付けられた。何事かと思って扉を開けたテッドは、氷のように立ち尽くす。


「セオドア!」


 そこには顔を涙でくしゃくしゃにしたグロリアがいた。髪は風に乱れ、服の裾が土で汚れていた。

 『どうしてここに?』と、口にする前に、彼女が抱きついてきた。


「嫌よ! お願いだから、私とこの街を出ると言って」


 頼りなげな細い手が、必死にテッドの背中を掴む。


「私が欲しいなら、その手を伸ばして。願うだけじゃ足りないの。あなたが何を恐れているかなんて、知らないわ。だけど、それは私を失う事よりも恐ろしいことなの?」


 テッドは咄嗟に、彼女を抱きすくめた。柔らかい墨色の髪の匂いをめいっぱい嗅ぎ、深いため息を吐き出した。このまま消えてしまいたかった。それが叶えばどんなに楽だろう。

 一瞬一秒でも彼女が生きながらえることを何より望んだのに、それでも手が未練に震える。唇が彼女を欲して疼く。この温もりはこんなにも離れがたい。


「愛しているよ、グロリア」


 テッドは涙声で囁いた。


「愛しているから、僕らは共にいられない。だけど、心は君のもとにずっとある」


「そんなの納得できないわ」


 頭を振る彼女を、テッドは身が引き裂かれそうな思いで離した。


「今は僕を恨んでもいい。だけどね、この誓いに嘘偽りはない。あの指輪に僕のすべてを置いていく。君の幸せを誰より願うよ」


「私の幸せは、あなたの手の中よ。あなただけが、私を喜ばせるのに!」


 泣き叫ぶグロリアが、彼の胸を力一杯叩く。まるで閉ざされた心の扉を叩くようだった。だが、テッド心の扉にはもう、指輪という重い閂をかけていたのだ。


「さようならは言わないよ、グロリア。僕らの道は分かれていたけれど、少なくとも君は僕の心を手に生きていくんだから」


 そして彼女の肩に手を置き、そっと頬の涙に口づけしました。


「さぁ、時間だ。迎えが来ている」


 開いたままの扉の向こうで、使用人を従えたキースが顔を歪ませていた。彼の目には、哀しみに満ちた同情がこめられていた。


「嫌よ、セオドア!」


 クィントン家の使用人たちはグロリアを引きずるように馬車の中へ連れ去った。

 必死にもがく彼女を見つめながら、キースが言う。


「テッド、難儀な男だな。お前は愛する者に恨まれても尚、何を望む?」


 テッドはぽつりと呟いた。


「連鎖を断ちたいのです。この血に怯える日々を」


 たとえグロリアとの間に子が生まれても、きっとその子も精霊の力に怯える。そう考えた彼は、その恐怖を自分の代で終わらせようとしたのだった。

 彼は心の中でグロリアに話しかける。

 ねぇ、グロリア。君はきっと、幸せになれる。僕に似ているけど違う誰かを愛し、子を産み、あたたかい家庭を築くだろう。僕はそのためなら、君の分まで孤独を背負うつもりだ。この墓地で、君の幸せを祈り続ける。僕の得るはずだった幸せの亡骸は、永久にここに眠り続ける。

 そんなことをぼんやり考えるテッドを一瞥し、キースが背を向けた。


「恋とはままならぬものだ。この身に流れる血を恨んでも虚しいだけだな」


 それはクィントン家のことを言っていたのだろうが、テッドの心を鋭く刺す言葉だった。


「お前がグロリアの手をとって走り出す姿をどこかで期待していたんだがな。心から笑う妹の顔を見てみたかった。しかし、残念だがクィントン家にとってはこうなるべきなのか」


 そう言い残し、キースは馬車に乗り込んでいった。

 ナディアがテッドをそっと抱き寄せた。言葉もなく、優しく包み込む抱擁は母のようでもあり、祖母のようでもあった。テッドは彼女にしがみつき、声がかれるまで泣き続けた。


 それが、グロリアと会った最後になった。

 そして、テッドの本当の孤独の日々の始まりでもあった。それは今でも続いているのだ。

 彼の胸には、グロリアの叫びも、温もりも、眼差しも生々しく留まったままだ。彼の手は、彼女を求めて彷徨う。だが、空をつかむばかり。それがグロリアの笑顔を奪った自分への罰だと、彼は考えていた。


 テッドはグロリアと別れた夜、祖母の竪琴の魂を握って眠った。その深い緑色は、グロリアの庭に生えていた蔦によく似ていた。

 魂の鈍い光が暗闇で彼を優しく照らす。まるで慰めようとしているかのようだ。自分の選んだ道は正しかったのだろうか。そう悔いる心をなだめるような光だった。

 そうして、テッドは緑色の魂を見るたびに『あれでよかったのだ』と自分を納得させる日々が続いたのだった。


「今でも胸が痛むのです。この命がある限り、続くのかもしれません」


 テッドはそう話し終えると、思わず目を見開いた。

 ジゼルの目に涙が浮かんでいたからだ。


「同情ですか?」


「語り部は同情なんてしない。ただ、話し手の心を感じるだけ」


 ジゼルは矢車菊色の瞳で、テッドをじっと見据えた。


「私が泣いているのは、あなたが泣きたいからよ」


 言葉を失ったテッドを尻目に、彼女はそっと緑色の魂に口づけした。


「もう大丈夫。彼は誰かに話せるほど強くなったから。安心して冥界に還りなさい」


 魂に話しかける彼女は、慈愛と威厳に満ちた顔をしていた。そして、顔を上げ、テッドに向き直る。


「さぁ、三つ目の答えを教えるわ」


 『何故、物憑きの魂は冥界に還らず、ここに留まるのか』というテッドの問いに、彼女はこう答えた。


「あなたが心配だからよ」


 意外な答えにテッドは思わず絶句した。


「この魂たちは、孤独を抱えて一人で震えるあなたの魂を見捨てられないの。普通は、物憑きの精霊の魂だって冥界からの『死者の鳥』が持ち帰るものだけど、あなたが救ってきた彼らは魂を運ぶ『死者の鳥』を拒み続けている。自分たちを救ってくれたあなたを放っておけないのね。それに鍛冶の力で懐かれてしまうんでしょうけど」


 そして、彼女は「なんて優しい魂たち」と、愛おしそうに魂を見下ろした。そして、ナディアに目を向ける。


「ナディア、あなたも同じね。あなたは持ち主の願いを知っている。その願いを叶えたいとも思っている。だけど、テッドを一人にはしておけないのね」


「いい加減なことを言わないで。あんたに何がわかるのよ」


 声を荒らげたナディアを制し、ジゼルが不敵な笑みを浮かべた。


「情が深いところがそっくりね。素直になれないところも」


 ナディアの顔がさっと歪むのを見て、ジゼルが苦笑する。


「母はあなたが迎えを拒んだことを残念がっています。今でもね」


「私が待ち望んでいるのは、彼女自身の手よ。あの子の手が伸びてくるのを、ずっと待ってる」


 そう祈るように言うと、ナディアが目を閉じた。

 その言葉はグロリアが寄せてくれた想いに似ていると、テッドは目を伏せた。ジゼルがそんな二人に、哀れみにも似た顔をした。


「そうでしょうね。だけど、母の肩には生命の重さがのしかかっている。簡単に人間界に来れる立場ではないの。吟遊詩人として旅をしていた頃とは違う」


 ジゼルは緑色の魂を懐にしまい、テッドに向き直った。


「そうそう、テッドに伝言があるの」


「冥界の帝王から?」


「いいえ、火の王イグナスから」


「祖父は健在ですか?」


「えぇ」と答え、彼女は腰袋から腕輪を取り出した。


「彼は火と鍛冶を司る王として、帝王が使う不思議な力を持つ道具を作る役目があるの。それにも、物憑きの精霊の魂が使われるのよ」


 そう言いながら、テッドの手をとり、腕輪をはめた。その腕輪には見事な紅玉が埋め込まれ、炎を象った文様が刻まれている。


「あの剣の精霊の魂がこめられているわ」


 テッドは思わず微笑んだ。あの物憑きの精霊がこんな形で帰ってくるとは思っていなかった。


「イグナスからあなたへの贈り物。一言『照らせ』と言えば、紅玉が夜を照らすわ。灯りを消したいときには『戻れ』と言えばいいそうよ。あなたが暗闇に迷わぬように、との伝言よ」


 テッドはふっと鼻で小さく笑った。


「僕は既に迷い子です。グロリアを失ったあのときから、僕の心から灯りは消え失せています」


 そう言いながら紅玉に触れると、ほんのりと人肌にも似た温もりを感じた。


「でも……そうですね。いただきます。墓地の見回りに役立ちそうですし。僕から祖父に伝言を託してもいいですか?」


 ジゼルが頷くと、彼は言う。


「僕は祖父を恨みません。この血の元凶ともいえる存在ですけれど、彼がいるから今の僕がいることも確かなんですから。たとえ心の火を消されても、それでも、僕はグロリアと出逢えて嬉しいと思いたいんです」


「引き受けたわ。イグナスも喜ぶわね。彼はあなたに憎まれていないか恐れているから」


 ジゼルの矢車菊の瞳が、ナディアを見やった。


「母もあなたに憎まれているんじゃないかと気にしているわ」


「なら、伝えて。私はテッドの心に光が宿るまではここにいるって」


「ナディア!」


 テッドが思わず彼女の肩を揺さぶった。


「あなたが言ったんですよ。『自分に正直でなかった後悔ほど辛いものはない』って。またそんな想いをするつもりですか?」


 彼女は心の底では、また持ち主に奏でられることを望んでいる。高らかに音を響かせる日を待っている。それをテッドはよく知っていた。

 しかし、彼女は頑なに首を横に振るばかりだった。


「私は行かない。これは、自分で決めたことよ。あんたがグロリアのもとへ行かなかったように」


 ぐっと言葉に詰まるテッドを尻目に、ナディアはジゼルに言い放った。


「私は持ち主に似て、人を捨てておけないの」


 すると、ジゼルが愉快そうに笑う。


「そのようね」


 彼女の従える白い鳥が高らかに鳴いた。すうっと目の前に広がる闇に、彼女は足を踏み入れる。


「だからこそ、時の女帝は冥界を離れられないのも、覚えておくといいわ」


 そんな言葉を残し、闇もろともジゼルの姿は消え失せたのだった。

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